表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/57

第三十八話 三本の赤旗

貨物列車が前駅を出たのは、十一時六分だった。


こちらへ着くまで、通常なら二十四分。だが軍需輸送を急ぐため、今日は途中駅を通過する。機関士が解除電文を信じて速度を上げれば、もっと早い。


受損した切通しまで七里余り。


電信で停止を命じても、同じ正式暗号で再び覆される可能性がある。電話は無面が声を盗む。駅の腕木信号だけを赤にしても、中央指令を受けた機関士が故障と判断するかもしれない。


「線路用の雷管は」大橋が駅長へ尋ねた。


「保線箱に六つ。三つは古い」


列車防護用の雷管をレールへ固定すれば、車輪が踏んだとき爆音が鳴る。空襲や濃霧で信号が見えない場合にも、機関士へ危険を知らせる道具だった。


「三か所に分けます」律が言った。「一番遠い場所は雷管と赤旗。次は線路上に人を置かず、赤布を横へ張る。最後は駅の腕木信号。どれか一つが偽物にされても、残りがある」


「人が旗を振らんかったら、布だけでは風で落ちる」駅長が言う。


「だから左右から別々に結びます。片方が切られても、線路の外へ倒れるように」


大橋は人員を割った。


駅員二人が手押し軌道車で最遠地点へ雷管を運ぶ。消防組は中間地点へ赤い防火布を張る。駅長は構内信号を停止に固定し、解除鍵を封筒へ入れて三人で封印する。


律と片山、安達は受損路基へ向かった。列車が止まりきれず進入した場合に備え、亀裂より手前の安全距離を測るためだった。


佐和は配給所へ残った。


「欠片の文字が変わったら、知らせる。でも意味は決めない」


「危なくなったら離れて」律が言う。


「それは命令?」


律は一瞬迷った。


「頼みです。残るかどうかは佐和さんが決めてください」


佐和は返事の代わりに、琺瑯盆の時刻記録を見せた。


十一時九分。欠片にはまだ〈二人目は――〉しかない。


軌道車を押す駅員の背中が、小さくなる。律たちは自転車で保線道を走った。


途中、線路脇の電柱に白い紙が貼られていた。


〈危険なし。停止信号を撤去せよ〉


正式な鉄道用紙ではない。署名も印もない。それでも文章の下に、府の統制所で使う暗号符号が書かれている。


「先回りしとる」安達が紙を剥がそうとした。


「残して、横に無効理由を書きます」片山が止めた。「剥がしたら、最初から無かったことになる」


律は紙の隣へ時刻と発見者を書いた。無効と判断した理由は、発信経路不明、用紙不一致、現場確認なし。三人がそれぞれ署名する。


一枚の紙に対して、三人分も書く。急いでいるときほど煩わしかった。だからこそ、無面は「そんな暇はない」と思わせる状況を選ぶ。


切通しへ着くと、亀裂の水位が上がっていた。


遠くで汽笛が鳴った。


予定より早い。


風が音を運んだ可能性もある。律は懐中時計を見た。十一時十五分。発車から九分しか経っていない。


「あの速さではない」片山が線路へ耳を当てた。「近すぎる」


西側の丘から、黒い煙が見えた。


本線の貨物列車ではなかった。保線用の小型機関車が、無蓋車を一両引いてこちらへ走ってくる。前面には白旗。運転台には駅員の制服を着た男が二人いる。


「線路確認の先遣や!」安達が言った。


だが駅長は、そのような車両を出したとは言っていない。


片山が赤旗を振った。


小型機関車は減速しない。


運転台の男が身を乗り出し、大橋の声で叫んだ。


「線路は安全だ! 妨害者を退けろ!」


無蓋車の荷台には、切り出した枕木が積まれていた。その先端が前へ突き出し、線路脇に立つ者を薙ぎ払える高さにある。


「線路から離れろ!」


三人は斜面へ飛び退いた。


小型機関車が通り過ぎる。運転台の二人は同じ顔だった。大橋でも律でもない。死んだ転轍手、野村の顔だった。


無蓋車の後ろから緑色の粉が撒かれる。粉はレールと枕木へ落ち、濡れた鉄の匂いに甘い臭気が混じった。


「あれが先に雷管を踏む」片山が立ち上がった。


列車防護の雷管は、最初に通った車輪で爆発する。小型機関車が全部鳴らせば、後から来る本物の貨物列車には何も残らない。中間の赤布も、突き出した枕木で引き裂ける。


無面は停止信号を解除するのではなく、先に使い切ろうとしていた。


「追いつけません」安達が言う。


線路上では追いつけない。


律は地図を開いた。切通しの先で保線道は川へ下り、線路は大きく北へ曲がる。自転車なら山腹の農道を横切って中間地点へ先回りできる。ただし地震で橋が落ち、最後の百間は谷を渡れない。


「僕は農道へ行く。片山さんはここで路基を見てください」


「一人では行かせん」


「二人なら自転車が遅くなる」


安達が自分の自転車を起こした。


「俺が行く。道は知っとる」


律は反対しかけた。安達は無面に記憶を読まれ、筆跡を使われ、札の欠片まで奪われた。それでも外す理由にはならない。


二人は農道へ入った。


坂を下り、田の畦を横切る。車輪が泥にはまり、律は自転車を担いだ。背後から三度、乾いた爆音が聞こえた。


雷管が踏まれた。


少し間を置き、さらに二度。


六つのうち五つ。古い一つが鳴らなかったのか、小型機関車が一つを見落としたのかは分からない。


農道の先は、落ちた木橋で切れていた。


谷幅は十間ほど。向こう岸に消防組の赤布が見える。男たちはまだ小型機関車に気づいていない。


声を上げても、川音に消える。


律は橋脚に残った電話線を見つけた。切れた線が谷へ垂れ、向こう側の杭へ絡んでいる。通話には使えない。だが何かを渡す綱にはできる。


安達が赤い手拭いを外した。


「これを結ぶ」


二人で線を引き上げ、手拭いを結ぶ。こちら側の端を上下へ振ると、赤い布が谷の上で動いた。


向こう岸の消防組が気づいた。


律は腕で大きく十字を作り、線路の西を指す。消防組の男が振り返った直後、小型機関車が曲線から現れた。


彼らは赤布を張るのをやめた。


逃げたのではない。二本の綱を線路へ固定せず、両側から手で持って斜面へ下がる。小型機関車が通過する瞬間だけ布を落とし、突き出した枕木をやり過ごした。


機関車が過ぎる。


すぐに赤布を引き上げる。


線路を横切る大きな赤が、再び立った。


小型機関車の運転台から、野村の顔が振り返る。口が裂けるほど開いた。


無蓋車から一人が飛び降りた。


着地と同時に消防組の男へ襲いかかる。顔は野村のままだが、手の指が異様に長い。赤布の綱を切ろうとする。


安達が谷へ降り始めた。


「無理だ!」律が叫ぶ。


「向こうまで行くんやない。線を引く!」


切れた電話線を橋脚へ巻き、消防組が持つ綱の片側とつなぐ。こちらから引けば、襲われた男が手を離しても赤布を保てる。


律も加わった。


掌に銅線が食い込む。安達の古傷が開き、血が滲む。向こうでは無面が綱を爪で裂こうとしている。消防組の二人が鍬と鳶口で応戦した。


本物の貨物列車の汽笛が聞こえた。


今度は低く、長い。


赤布が風を受けて膨らむ。


無面がこちらを見た。


野村の顔が崩れ、律の顔になる。


『止めれば、二人目が死ぬ』


谷を越えた声が、耳元で囁くように届いた。


律は銅線を放さなかった。


「名前を言え!」


『お前が選べ』


「選ばない。列車も、人も止めさせない!」


言い方は矛盾していた。だが必要なのは無面との言葉比べではない。赤布を上げ続けることだった。


汽笛が短く二度鳴る。


機関士が赤布を認めた合図だった。


車輪の軋む音が山へ響く。黒煙が薄くなり、先頭機関車が曲線の向こうで速度を落とす。それでも貨車十数両の重さはすぐには止まらない。


赤布の手前を越え、さらに進む。


消防組が線路から離れた。律と安達は銅線を放す。


列車は中間信号を二百間以上過ぎ、受損路基の手前でようやく停止した。


最後尾の貨車が揺れ、連結器が鳴った。


路基までは、四十七間。


片山が測った安全距離の内側だった。


誰も死んでいない。


そう思った直後、向こう岸で消防組の男が倒れた。


無面の長い指が、その胸から抜ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ