第三十七話 死者を数えるな
助けた小使いの名は、春夫といった。
十五歳。父は出征し、母と妹へ送る米を得るため産院で働いている。首の痕は深かったが、志乃の見立てでは命に別状はない。ただし緑の糸に触れていた間の記憶が抜け落ちていた。
「炊事場で湯を沸かして、それから……」
次に覚えているのは、律が首へ金属板を差し込んだ痛みだった。
誰に襲われたかは分からない。
無面は顔を見せなくても、人を仕掛けへ変えられる。
律たちは欠片を産院へ持ち込まなかった。配給所の琺瑯盆に残し、三人を交代で見張りにつけた。見張りは文字が変わるたび時刻を記すが、意味を解釈しない。ただ線が増えた、消えた、色が濃くなったと書く。
午前九時十七分、〈まだ〉の一字が消えた。
同じ時刻、駅から使いが来た。
正午前、軍需貨物列車が通過する。信号小屋の野村が死んだため、臨時の転轍手を出せという知らせだった。
片山はすぐに返事をしなかった。
野村の日誌には、三時四十分以降の記録がない。線路は地震後、仮補修のままだ。しかも窯場へ向かう坂の下で、昨夜から地盤が沈んでいる。
「列車を止めれば、欠片が誰かを殺す」安達が言った。
「止めなければ、列車の人間が死ぬかもしれん」大橋が返す。
「まだ線路が壊れとると決まったわけやない」
「だから調べる」
二班が線路へ向かった。一班は駅から西へ、もう一班は窯場側から東へ歩く。互いに結論を教えず、枕木、継ぎ目、盛り土を番号で記録する。
律は駅に残された。
本人が線路を見れば、その一言で列車を止めたことにされるかもしれない。片山たちはそう考えた。律も同意した。
しかし待合室で時計の針を見ているうち、それが安全ではなく責任から遠ざけられているだけだと気づいた。
誰かが調べ、誰かが決め、死者が出たら、自分は「現場にいなかった」と言える。
欠片の脅しは、すでに律たちの役割を変えていた。
律は駅長へ紙を一枚求めた。
〈私は線路確認から外されることに同意した。ただし、その理由は私個人への脅迫であり、列車の安全とは無関係である〉
署名し、片山に渡す。
「僕も行きます」
「欠片を無視する気か」
「無視はしません。でも、僕を外せば死なないという証拠もない」
大橋が腕時計を見た。
議論する時間はなかった。
線路の異常は、窯場から半里ほど離れた切通しで見つかった。
レールそのものはつながっている。だが盛り土の下を流れる排水管が塞がれ、地震で生じた亀裂へ水が溜まっていた。表面へ板と砂利を敷き、一見平らに直してある。貨物列車の重みが乗れば、路盤ごと谷側へ崩れる可能性が高い。
西班も反対側から同じ場所へ着いた。二班の記録は、亀裂の長さに三尺の違いがあった。それでも危険という判断は一致した。
貨物の内容を記した運行票も届いた。弾薬ではない。軍病院へ送る乾燥血漿と医薬品、疎開先へ回す味噌、それに機関部品だった。止めれば前線だけでなく、今日その薬を待つ患者にも遅れが出る。
駅長は帽子を握りしめた。
「軍需列車を根拠なく止めたとなれば、わしだけでは済まん。大橋さんも、水城君も取り調べを受ける。線路を見た者の証言が食い違えば、妨害とされるかもしれん」
安達が亀裂を指した。
「ほな走らせるんか」
「走らせたいんやない。止めたあと、何を失うかも言うてる」
窯で器を犠牲にしたときと同じだった。安全を選べば、すべてが無傷で済むわけではない。列車を止める判断が正しくても、届かない薬の代価は消えない。無面はそこへ入り込み、遅れで亡くなった者まで律の一人に数えるだろう。
律は運行票の品目を書き写させた。止める理由だけでなく、止めた結果として生じる遅延も同じ紙に残す。後から英雄になるためでも、罪を軽くするためでもない。選ばなかった側の損失を、最初から存在しなかったことにしないためだった。
「停止信号を出す」大橋が言った。
全員の目が律へ向いた。
律は腹の底が冷えるのを感じた。
自分が言わなければ、大橋が止める。志乃が産院で決めたように、権限を持つ者が決めればよい。だが欠片はすでに一度、〈水城律が止める〉から〈一人目はまだ死んでいない〉へ文章を変えた。次は「水城律が止めさせた」と書き換えるだろう。
誰が言ったかは、本質ではない。
律が罪悪感を引き受けるまで、無面は条件を広げられる。
「列車を止めてください」
律は言った。
安達が顔を歪めた。
「誰か死ぬかもしれん」
「止めなくても死ぬ。どちらの死者も、選んでいい数ではない」
大橋が駅へ手旗信号を送らせた。西の監視所から返答旗が上がる。貨物列車は一つ前の駅で抑止される。
その時刻を全員が記した。
午前十時四十二分。
配給所の見張りから、自転車の伝令が来た。
欠片の文字が変わったという。
〈一人目〉
その二文字だけになっていた。
誰が死んだのかは書かれていない。
町へ戻る途中、寺の鐘が一度鳴った。
律の足が止まる。
東寺では、地震で負傷していた老僧が亡くなっていた。数日前から熱があり、今朝は水も飲めなかった。看病していた僧によれば、息を引き取ったのは十時四十分ごろ。列車を止めた時刻と、ほとんど同じだった。
欠片は〈一人目〉と書いた。
安達が寺の廊下へ座り込んだ。
「やっぱり、律が止めたから……」
「違う」佐和が言った。
「時刻が同じや」
「病気の人が亡くなった。それ以上はまだ分からない」
「もし本当やったらどうするんや!」
安達の声が境内へ響いた。
律は老僧の顔を見た。穏やかに整えられ、胸元で手を組んでいる。無面の傷も、緑の糸もない。だから無関係だと言い切ることもできない。目に見えない力で命を奪った可能性は残る。
右目を開いても、未来は戻らなかった。
代わりに思い出したのは、耀盌を囲んだ夜だった。誰かの死を防げるかもしれないと未来を求め、見えた像を守るため現在の人間を動かした。今度は逆に、誰かの死を自分の選択へ結びつけられ、何も止められなくなろうとしている。
どちらも、死者を一つの答えに使っていた。
律は老僧の看病記録を頼んだ。熱が出た日、薬を飲んだ時刻、最後に言葉を交わした相手。列車停止との因果を証明するためではない。無面の文章だけで、老僧がどのように亡くなったかを奪わせないためだった。
「欠片の記録には、こう書きます」
律は安達にも聞こえるように言った。
「十時四十二分、列車停止。ほぼ同時刻、病床の僧が死亡。両者を結ぶ仕組みは確認できず。欠片は死者の名、原因、期限を示さない」
「逃げや」安達が言った。
「そうかもしれない」
律は否定しなかった。
「でも、分からないものを僕の罪だと決めたら、次から無面が何を命じても止められない」
住職が廊下の奥から出てきた。
「亡くなった本人が、今朝言うておりました。今日死ぬか、明日死ぬかは仏にも尋ねん。薬を飲むかは自分で決める、と」
住職は看病帳を律へ渡した。
「この人の死を、あんたと化け物の勝負の駒にせんといてくれ」
律は頭を下げた。
配給所へ戻ると、欠片の〈一人目〉の下に、新しい線が刻まれ始めていた。
律は見守った。
〈二人目は――〉
そこまで現れ、文字が止まる。
瓶の内側に、曇りが広がった。
律は欠片へ布をかぶせなかった。全員の前で、佐和に頼んで空欄を三つ書き足してもらった。
〈氏名〉
〈死因〉
〈列車停止との因果経路〉
「答えられない命令には従わない」
律が言うと、欠片の緑が強くなった。
その場にいた者たちは身構えた。
誰も死ななかった。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。
三分目、駅の電信係が駆け込んできた。
貨物列車を止めたはずの信号が、中央の指令で解除されたという。
電文には正式な暗号符号があり、発信元は府の鉄道統制所になっていた。
列車は再び動き始めている。
無面は律に死者を数えさせながら、その外側で本物の命令を手に入れていた。




