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第三十六話 一人目の死

欠片には誰も触れなかった。


配給所から借りた琺瑯の盆へ落とし、上からガラス瓶をかぶせる。文字は黒い傷のように見えたが、光の角度を変えると緑に濡れた。


「これを止める、と言うたらあかんのやな」配給係の老婆が言った。


律は答えかけ、口を閉じた。


言葉に反応するのか。律の意志を読むのか。実際に命令の執行が中断されたとき働くのか。それすら分からない。「止める」と言わずに同じことをすれば安全だと考えるのは、規則の意味も知らないまま言葉尻へ逃げることだった。


佐和が紙へ三つの欄を引いた。


〈誰が死ぬか〉


〈いつ死ぬか〉


〈何によって死ぬか〉


どの欄も空白だった。


「これでは、明日でも十年後でも、誰かが死ねば当たったと言える」


安達は瓶の中を睨んだ。


「せやけど、本当に死んだらどうする」


「調べる。怖いから従う、だけにはせん」


佐和の声は平らだった。しかし鉛筆を持つ指は強く、爪の根が白くなっていた。


駅の方から鐘が鳴った。


配給の鐘ではない。火事でも空襲でもない。短く三度、間を置いて二度。鉄道員を呼ぶ合図だった。


片山が走り出し、律たちも続いた。


駅舎の北にある信号小屋で、男が一人倒れていた。


五十を過ぎた転轍手の野村だった。椅子へ座ったまま上体を机へ伏せ、右手は信号日誌の上にある。首の後ろに細い傷があり、乾いた血が襟へ染みていた。


机の端には、小さな紙札が置かれている。


〈一〉


安達が息を呑んだ。


「一人目……」


律の右目が痛んだ。配給所に残した欠片と、目の前の札が細い線でつながったように感じた。


駅員が野村の肩へ手を伸ばす。


「触らないで」


佐和が止めた。医者を呼び、窓と戸を開けた者、最初に発見した者、鐘を鳴らした者を別々に記録する。野村が死んでいることと、欠片の文章が正しいことは同じではない。


町医者は野村の瞼を上げ、首と手首へ触れた。


「死んで二時間は経っとる。もっと前かもしれん」


配給所で欠片を見つけたのは、つい先ほどだ。


野村の左手には懐中時計が握られていた。硝子が割れ、針は午前三時四十一分で止まっている。死んだ時刻を示すとは限らない。だが宿直日誌も三時三十分の記入で終わり、その後に通るはずだった貨物列車の欄が空いていた。


さらに、首の傷の血はすでに黒く固まっていた。少なくとも律が配給所で偽の命令を止めるより前に、野村は襲われている。


「先に殺しておいて、あとから一人目にした」片山が言った。


「そう見せる証拠を置いた可能性もあります」律は答えた。「時計も日誌も変えられる」


医者が不機嫌そうに律を見た。


「わしの見立てもか」


「疑っているのではありません。見立てと、時計と、日誌が別々に同じ範囲を示している、と記録したいんです」


一つを絶対にしないことは、相手を信用しないこととは違う。医者はしばらく黙り、死亡推定の幅を自分で紙へ書いた。


野村の首から、緑色の短い毛が見つかった。


傷へ刺さっているのではない。襟の内側へ、糸のように縫い付けられている。無面がここにいた印を、わざと残したようだった。


片山は〈一〉の札を裏返した。


裏には、別の文章がある。


〈次は産院〉


町外れの産院には、出産を終えたばかりの女が三人、妊婦が二人、乳児が四人いる。地震で本館の壁が傷み、今は離れの木造病棟を使っていた。


一行が着くと、門前に軍用トラックが止まっていた。


役場の腕章を巻いた男たちが、担架を運び込もうとしている。今朝、警察から避難命令が届いたという。空襲に備え、患者を丘の横穴壕へ移せと書かれていた。


大橋の撤回通知はまだ届いていない。


男たちは偽物ではなかった。役場の防空係で、昨年も患者の退避訓練を手伝っている。トラックも、食糧運搬を終えたあと空車で戻る予定だった町の車だ。


命令を持ってきたのは、顔も知らない使者ではない。役場で毎朝文書を配る小林だった。小林は大橋の印を見て防空係へ渡し、防空係は空襲への備えだと信じて車を回した。誰も金を受け取らず、誰も悪意を持たず、それぞれ自分の仕事をした。


「俺らも調べられるんですか」担架を持った男が聞いた。


「疑うためではなく、どこから命令が変わったか知るためです」片山が答えた。


男は唇を噛んだ。


「同じことや。命令どおり来ただけなのに、あとで共犯みたいに言われる」


大橋は頭を下げた。


「共犯とは書かん。だが、命令どおりに来たことも消さん。俺の印で人を動かした責任は、俺の側にもある」


防空係の男たちはすぐには納得しなかった。それでも担架を地面へ置き、受け取った時刻と相手を一人ずつ書き始めた。命令の道筋は、悪人を一人見つけるためではなく、善意がどこで利用されたかを残すためのものになった。


「その命令は偽物です。移動を――」


律は言葉を切った。


全員が彼を見た。


欠片の文章が、頭の中で続きを待っている。


佐和が律の頬を叩いた。


強くはない。迷いを慰めるためでもなかった。


「言葉を替えれば責任が消えると思うな」


「分かってる」


「なら、何が危ないかを見る」


産婆長の志乃は、役場の男から命令書を取り上げた。


「患者を動かすかは、うちが決める。あんたらは担架を置いて待ちな」


律が命令を止めたのではない。だから安全だ、と誰も言わなかった。志乃は病棟のひび、患者の容体、横穴壕までの道を、それぞれ別の者に見に行かせた。


横穴壕へ向かった安達が、十分もしないうちに戻ってきた。


「中に炭を焚いた跡がある。入口は開いとるのに、奥へ行くと息が苦しい」


片山たちは濡れ布を当て、壕へ入った。奥には火鉢が六つ並び、炭が赤く残っている。換気穴は土嚢で塞がれていた。患者を運び込んで入口を閉じれば、火がなくても一酸化炭素が溜まる。


壁に、産院の患者名が書かれていた。


九人。


その横へ数字が振られている。


一から九ではない。


すべて〈一〉だった。


誰が死んでも、一人分として数えるつもりだった。


律は病棟へ戻った。


「避難命令を撤回してください」


今度は言い切った。


志乃が律を見る。


「理由は」


「避難先に炭と閉鎖された換気口があります。移動の方が危険です。ただし、本館の壁が崩れる危険は別に調べてください」


「分かった。産院の責任で撤回する」


誰が止めたかを曖昧にはしなかった。律が危険を報告し、志乃が患者を預かる者として決めた。二人とも紙へ名前を書いた。


その瞬間、病棟の奥で鐘が鳴った。


一度だけだった。


赤ん坊が泣き出す。女たちの声が重なる。律は廊下を走った。


鳴ったのは患者を呼ぶ手振り鐘ではない。炊事場の壁に掛かった電話のベルだった。受話器は外れ、床に落ちている。そこから緑色の糸が伸び、戸棚の裏へ入っていた。


戸棚をどけると、若い小使いが倒れていた。


口を塞がれ、両手を縛られている。首には緑の糸が二重に巻きつき、電話のベルが動くたび締まる仕掛けだった。


まだ息がある。


片山が電話線を切ろうとした。


「待って」佐和が糸を見た。「線を引けば首も締まる」


糸は銅線へ直接結ばれ、壁の碍子を通っている。外から電話をかければベルの振動で巻き上がる。切断しようとして張力を変えても、結び目が首へ食い込む。


志乃が小使いの肩を支えた。安達が戸棚を壊し、糸を固定している木枠ごと外す。律は糸の下へ薄い金属板を差し込んだ。手が震え、皮膚を傷つける。


ベルが二度目を鳴らしかけた。


外で大橋が電柱の引込線を斧で断った。


火花が散り、電話が沈黙する。


緑の糸は止まった。


小使いが激しく咳き込んだ。


死者は増えなかった。


配給所へ戻ると、瓶の下の欠片には新しい文字が浮かんでいた。


〈一人目は、まだ死んでいない〉


野村の死を数えたはずの〈一〉は消えていた。


無面は規則を守っているのではない。


律が信じるまで、規則の方を書き換えるつもりだった。

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