第四十四話 帰還信号を信じるな
笑ったのは、遺体ではなかった。
口角を引いた緑の糸が、首の後ろから顎へ通っている。交換機の中で小さな輪が回り、糸を巻き取ったのだ。
それでも、見た者には死者が笑ったようにしか見えない。
大橋は拳銃を下ろした。
「人形仕掛けか」
「そう見えます」佐和がカンテラを近づけた。「でも、声まで全部仕掛けとは限らない」
田正雄の喉には振動があった。空気を押し出して音を作っている。死体を蓄音機の筒のように使い、交換機の向こうから届く声へ、人間の口と喉を与えていた。
片山が帰還糸をもう一度引いた。
今度は一度。
地上へ質問を送る合図ではない。ただ張力を確かめるための短い引きだった。
向こうからも、一度返る。
「真似しとる」大橋が言った。
糸の先に人がいるのか、途中で装置につながれたのかは分からない。決めた合図を繰り返すほど、相手に規則を教える。
「糸を切るか」片山が尋ねた。
「帰り道まで失います」律は通路を振り返った。「張った糸と壁の白布、両方を比べて戻ります。返事はもう使わない」
地上では詰所が燃えている。
地下の〈警察〉線を切れば消火できるという証拠はない。むしろ交換機を調べる間に、火が記録と人を奪う。
大橋は撤退を決めた。
ただし証拠をすべて持ち出そうとはしなかった。十年分の暗号表は重く、束を崩せば元の順序も失われる。最新三日分だけを、佐和と片山が別々の布へ包む。田正雄の身分証と、椅子の下の紙は大橋が預かる。
律は〈接続候補〉の一覧を持たなかった。
片山の名がある紙を、本人と同じ経路で運べば、途中で失われたとき疑いが片山へ集中する。佐和が写し、大橋が原本を封じ、片山は触れないことにした。
「俺を信用してへんからか」片山が聞く。
「信用するかどうかを、運び方に使わないためです」
片山は納得した顔をしなかった。それでも原本から手を離した。
交換機をそのままにする印として、四人は入口側の床へ細い灰の線を引いた。誰かが追ってくれば乱れる。扉はないため封鎖できないが、触れられた痕跡は残せる。
田正雄の遺体は置いていく。
佐和は白布を顔へ掛けようとしたが、途中でやめた。布が緑糸へ絡めば、装置を動かすかもしれない。代わりに遺体の姿勢、糸の位置、口の開き方を描いた。
「戻ってきたとき違っていたら分かる」
四人が円形室を出ると、壁の顔が一斉に目を閉じた。
通路の白布は一つ目、二つ目とも同じ位置にある。三つ目だけ、結び目が逆になっていた。
最後尾の片山が足を止めた。
「入るとき、俺が結んだ。輪は壁側やった」
今は通路側にある。
誰かが触れた。
前方には律、佐和、大橋。後方は交換室。途中の窪みから人が出られる幅はない。
佐和が結び目へ鏡を近づけた。白布の裏に、緑の粉が一筋ついている。
「糸をたどらせて、私たちの手順を覚えてる」
帰還糸は道しるべであると同時に、交換機を入口まで導く一本の線になっていた。
「切るしかない」大橋が言った。
「全部ではなく、今いる位置より後ろだけ」律が答えた。
前方の道しるべは残し、通過した区間の糸を一つずつ外す。切った端はその場へ捨てず、金属缶へ巻き取った。緑の粉がついた部分は別の瓶へ入れる。
帰路を進むたび、自分たちの後ろから道が消える。
四つ目の白布を過ぎたところで、前方から足音がした。
カンテラの光に、安達が現れた。
「早う! 詰所が燃えとる!」
両手は空だった。入る前に残した炭の手形と同じだ。服も声も、頬の傷も安達だった。
それでも大橋は近づけなかった。
「石黒はどこや」
「地上で先生と消火に回った。俺は呼びに戻った」
「戻るなと決めたはずや」佐和が言う。
「二時間待っとったら詰所が全部焼ける!」
正しい理由だった。
正しいからこそ、無面にも使える。
律は安達へ、袋の石の傷を描くよう求めなかった。無面が帰還糸を通じ、地上の会話まで拾っている可能性がある。
「一緒には歩きません。安達さんは十間前を、僕たちは後ろを行きます。途中で振り返らないで」
「俺を疑うんか」
「疑ったまま、同じ出口へ帰ります」
安達は唇を噛み、前を向いた。
歩き方は本人と同じだった。途中で咳をする癖も、右肩だけ少し下がる姿勢も。律はそれを証拠にしなかった。
偽の安達は、通路の番号を正確に避けた。三つ目の白布で一度立ち止まり、緑の粉がついた結び目には触れない。そこが発見済みだと知っている動きだった。
「地上で、帰還糸を引いたのは誰です」律が十間後ろから聞いた。
「俺や。火が出たから二度引いた」
「二度は無事到着の合図です」
「焦って間違えた」
人間なら間違える。無面なら、覚えた合図を正確に返せる。どちらの答えも証明にはならなかった。
佐和が別の問いを投げた。
「石黒さんは、火を見て最初に何をした?」
「先生を呼んだ」
地上へ戻った者なら知っているはずの出来事だ。だが無面が帰還糸を通して音を拾っていたなら、答えられる。
「先生は何を言った?」
「地下の連中を呼び戻せ、と」
大橋が律を見た。
王仁三郎がそう命じるとは思えなかった。入口を封鎖する役を引き受け、安達自身の希望も記録している。それでも「先生なら絶対に言わない」は、人物への信頼を証拠へ変える危険がある。
律は問いを続けなかった。
偽物を言葉で追い詰めれば、次に使う標本を精密にする材料を与える。今は距離を保ち、出口まで同行させる。それ以上の目的を持たない。
入口の光が見えた。
安達が先に地上へ出る。
王仁三郎と石黒、消防組の二人が待っていた。そこにも安達がいた。
二人の安達が向かい合う。
地下から出た方が後ずさった。
地上の安達は、炭で汚れた両手を上げた。
「俺は戻ってへん」
石黒も証言した。
地下から糸が二度引かれたとき、二人はすでに入口から離れ、消火用の水桶を運んでいた。王仁三郎は糸へ近づいていない。消防組の二人も同じだった。
「ほな、誰が返した」地上の安達が言った。
入口脇の糸を調べると、石壁の隙間へ緑の細糸が結ばれていた。人が引いたのではない。地下の交換機から伸びた糸が帰還糸へ絡み、こちらの引きを感じて同じ回数だけ返していた。
二度の平安合図は、無面が人間の規則を理解した証拠ですらなかった。
入力された回数を、そのまま返しただけだった。
それを律たちが「誰かが無事だ」と解釈した。
「意味を作ったのは、こっちか」片山が呟いた。
規則を盗まれたというより、反応へ自分たちで意味を与え、信じた。耀盌の予言と同じ構造だった。
律は緑糸との結び目を切り取らせ、時刻と状態を瓶へ記した。帰還糸そのものも廃棄しない。失敗した道具として残す。次に同じ方法を使う者が、なぜ安全でなかったかを読めるようにするためだった。
地下の安達の顔が崩れた。
緑の皮膚が現れるより早く、大橋が飛びついた。無面は細い体を折るようにかわし、崩落斜面へ跳ぶ。
片山が追おうとする。
町から黒煙が上がっていた。
律は叫んだ。
「追わない! 先に詰所です!」
その瞬間、右目に〈二〉が浮かんだ。
無面が振り返る。
律の声で笑った。
『二人目を選んだな』
本物の安達が、自分と同じ背中を見送っていた。
「あれが何かしたら、また俺のしたことになるんか」
「だから、ここにいた時刻と見た人を残します」律は答えた。
「残しても、信じてもらえへんかもしれん」
「それでも、あいつの記録だけにはしない」
安達は炭で汚れた手を下ろさず、石黒と王仁三郎が時刻を書くまでその場を動かなかった。潔白を一度証明するのではなく、奪われた時間を一つずつ取り戻すしかなかった。
律は足を止めなかった。
誰を数えるかは、無面に決めさせない。




