第三十三話 止める権利
東の寺までは走っても半刻かかる。
律は走らなかった。
夜番の老人に竹管の修理を頼み、貯水槽の水位と触れた時刻を記録してもらった。それから窯場へ戻り、寺の札に反応があったことだけを報告した。
「無面が寺へ入ったんや」政一が言った。「なら今すぐ札を取り返さな」
「本当に表へ返ったか、まだ見ていません」
「感じたんやろ」
「水が落ちた感覚です。誰が、何のために落としたかは分かりません」
佐和が焼成記録の脇へ書き足した。
〈寺の札に反応の可能性。律のみ感知。未確認〉
可能性と書かれると、律の感覚も命令ではなくなる。確かめる必要のある報告になる。
律は、製糸場で見た無面の失敗を思い出した。安達の古い記憶は盗めても、数秒前に交わした会話までは自分のものにできなかった。ならば、顔や声ではなく、その場で更新される問いを使えばよい。
片山は紙の端へ、今夜だけの合言葉を書いた。だが、文字を見られれば終わる。そこで合言葉そのものを答えにせず、電話を受けた者が時刻を告げ、窯場側が帳面の同じ時刻に記された測温値の末尾を返すことにした。数字は三分ごとに変わる。さらに、伝言は必ず二人が別々に復唱する。
「面倒やな」と夜番の老人が言った。
「面倒でええんです」と片山は答えた。「あいつが人の顔を使うなら、人の方は顔だけで信じんようにする」
一度決めた規則も、無面に知られれば古くなる。律は帳面へ有効時刻を書き、夜明けに破棄すると付け加えた。永遠に正しい手順を作るのではない。使える間だけ使い、破られたら止める。その考え方は、札を作ったときには欠けていた。
片山は寺へ巡査を送ることにした。ただし一人では行かせない。近くの消防組から一人、寺の世話人から一人を呼び、三人で札の表裏と周辺の足跡を見る。札には触れず、電話で状態を伝える。
「そんな手順を踏んでいたら遅い」政一が言う。
「一人で行けば、その一人の顔を借りられる」片山は答えた。「さっき見たばかりだ」
政一は黙った。
窯の温度はゆっくり下がり始めていた。薪の投入を三割減らし、二つある火口を交互に休ませる。窯内の器は何枚か割れるだろう。乾いた音が内部から聞こえるたび、政一の頬が引きつった。
王仁三郎は割れた数を記録させた。
「この損を、後でなかったことにしてはいかん。止める手順が正しかったとしても、失ったものは失ったものや」
正しい判断を美談にすれば、次に同じ判断をする者が代価を見落とす。
燃料置き場では、安達と消防組が火の道を寸断していた。導火束を一度に引き抜けば、どこかで擦れて火花が出るかもしれない。十間ごとに土をかぶせ、間の縄を濡らし、切り取った部分を別々の鉄桶へ入れる。
町側では、家ごとに水桶を一つだけ残し、余分を共同の防火桶へ集めた。全員に同じ命令は出さない。逃げられる家は先に老人と子供を移し、屋根へ上れる者だけが濡れむしろを掛ける。
誰かが間違えても、町全体が同じ動きをしないようにした。
律は窯場の壁へ地図を貼った。窯、薪小屋、貯水槽、共同井戸、救援物資置き場。確認できた場所には白石、未確認には黒石を置く。
黒石は寺と、窯場北側の古い乾燥小屋に残った。
乾燥小屋は地震後使われていない。中には割れた棚と藁灰しかないはずだった。ところが戸の錠は新しく傷つき、隙間から細い煙が漏れている。
片山が戸を開けようとした。
「待ってください」律は煙の流れを見た。「外へ出ていない。中へ吸われています」
小屋の奥に通風口がある。戸を開ければ一気に空気が入り、中に溜まった可燃性の煙が燃え上がる可能性があった。
消防組が壁の下部から小さな穴を開けた。熱は強くない。中で燃えているのではなく、燻っている。別の穴から水を霧にして送り、しばらく待つ。煙が薄くなってから戸を外した。
小屋の中央に、火鉢が一つ置かれていた。
炭は赤くない。上に湿った布がかぶせられ、煙だけを出している。その周囲には、粉にした藁と硫黄臭のする塊が輪状に並んでいた。戸を急に開け、布がずれ、空気が入れば燃える仕掛けだった。
火鉢の下に紙がある。
〈窯場の火を止めた〉
時刻は一時間後。
まだ起きていない出来事が、過去形で書かれていた。
「あいつは未来を知ってるんやない」安達が言った。「書いた通りに、俺らを動かそうとしてる」
無面に本当に未来を見る力がないとは、まだ断言できない。それでも少なくとも、この二枚は観測ではなく手順だった。命令を未来形や過去形へ変え、従わなければ災害が起こるよう仕掛けている。
律は二枚目にも番号を振った。
〈未来記録二。発見時点で未発生。火鉢と可燃物を併置。記述どおりの結果を作る仕掛けあり〉
署名は律一人にしなかった。片山、安達、消防組の男がそれぞれ見た範囲だけを書いた。
そのとき寺から電話が入った。
紙の札は表を向いていた。
水滴も一つ落ちている。だが寺の僧は誰も触れていない。戸は内側から閉まり、窓の桟には細い緑の毛が挟まっていた。
もっと奇妙なのは、札に書かれた手順が一行変わっていたことだった。
元は、四枚の内容が違う場合、耀盌を使わず違いを確かめる。
今はこうなっている。
〈四枚の内容が違う場合、多数の札に従う〉
一枚だけを書き換えた者は、多数決を命じていた。
安達が自分の札を取り出す。伏せたままだ。夜番も同じ。佐和の札も窯場で裏を向いている。
表向きは寺の一枚だけ。それでも銀線は、寺から窯場の方角へ少しずつ伸びていた。規則を書き換えた札が、接続していない残り三枚へ自分の文を写そうとしている。
「裏返していても侵されるのか」片山が言った。
律は佐和の札を確かめた。表の文字に変化はない。裏面の持ち主名の横へ、見覚えのない小さな点が一つ増えている。
まだ書き換えではない。侵入の跡だった。
「四枚を壊すしかない」政一が言った。
王仁三郎は首を振らなかった。守れとも言わなかった。
「持ち主が決めることや」
佐和は自分の札を手に取った。夜番も懐から出す。安達はしばらく伏せた札を見ていた。
「壊したら、もう未来は見えへん」政一が言う。
「今も見えてへん」安達は答えた。「見えてるふりをした命令に追い回されてるだけや」
彼は札を地面へ置き、金槌を取った。
律が止める前に、一度振り下ろす。
素焼き札は二つに割れた。
銀線が切れる。
寺から伸びていた緑の線も、窯場まであと数間のところで止まった。
佐和はすぐには割らなかった。札の表と裏を紙へ写し、最後に自分が壊すと記録した。夜番も、亡き妻の声が聞こえたこと、それでも自分の判断で止めることを書いた。
二枚目、三枚目が割れる。
残る寺の札は、遠くで一度強く光り、そのまま沈黙した。
右目の奥から冷たさが消えた。
律は未来を失ったのかもしれない。
窯の中で、また一枚、器が割れた。
町はまだ燃えていない。
それが札を壊した結果なのか、皆で火の道を切った結果なのか。今夜だけでは分からない。
分からないまま、誰が何をしたかは残っている。
夜半を過ぎたころ、窯の温度は安全なところまで下がった。貯水槽も半分残った。町側の黒石はすべて白へ替わった。
最後まで黒いままなのは、地図の外だった。
製糸場から逃げた無面が、どこへ向かったか。
東の寺で札を書き換えたあと、誰の顔を借りたか。
片山が警察詰所へ電話をかけた。
受話器の向こうから、自分の声が返ってきた。
『水城律を確保した。窯場の者は動かすな』
片山は合言葉を聞かなかった。先に現在時刻を尋ねた。
向こうは正しい時刻を答えた。
片山が焼成記録の数字を求めると、二秒だけ沈黙があった。それから、ひとつ前の測温値が返ってきた。
声も、時刻も、警察の言い回しも正しい。三分前までの情報だけが正しく、今の値を知らない。
片山は何も答えず、受話器を置いた。すぐに回線を切るよう巡査へ命じ、今の応答を一語ずつ紙へ残した。
「弱点はある」律が言った。
「今夜だけの弱点や」
片山は偽の命令書を見たときより険しい顔をしていた。見破れたことは、安心する理由にならない。無面は次に、三分の遅れを埋めようとする。
無面はもう、札を必要としていなかった。
人間の命令系統そのものへ入ろうとしている。




