第三十二話 明日の日付の命令
製糸場を出る前に、律は四十七枚の紙へ番号を振った。
一枚目から四十六枚目までは、安達を奥へ誘導する命令だった。最後の一枚だけが違う。明日の日付があり、窯場の火を止めれば町が焼けると書かれている。
片山は紙を証拠袋へ入れようとしたが、律が止めた。
「先に写しを作ります。原本が途中で変わっても分かるように」
「墨も乾いていない。急いだ方がいい」
「だからです」
佐和が紙の四隅、墨の濃さ、置かれていた向きを帳面へ描いた。片山と巡査も時刻を記し、安達は自分の字ではないと署名した。本人の筆跡に見える紙へ、本人が否認を書き添える。妙な記録だった。
安達は手順札を懐へ戻さなかった。布で包み、片山に持たせたままにした。
「窯へ戻っても、俺の札は伏せたままや」
「火が本当に危なかったら?」片山が聞く。
「危ないから表へ返す、では止める権利にならん。何が危ないか確かめてから決める」
「確かめる間に燃えたらどうする」
安達は返事に詰まった。
律にも答えはなかった。確認には時間がかかる。火事は待たない。その不均衡を埋めるために未来が欲しくなる。けれど未来を見ようと札をつなげば、無面が用意した問いに自分から入ることになる。
「一つの答えを急ぐ代わりに、危険を分けます」律は言った。「窯、燃料、水路、町への風向き。別々に確かめる。どれかが間違っていても、全員が同じ間違いをしないように」
片山は巡査一人を製糸場へ残し、証拠を守らせた。残る四人は安達を連れて窯場へ戻った。
近づくにつれ、空が赤く見えた。
火事ではない。佐々木窯の登り窯が焚き上げに入り、山裾の煙へ炎が映っている。窯口では政一が薪を運び、王仁三郎が少し離れた椅子から火色を見ていた。夜番の老人は自分の札を伏せたまま、煙道脇に座っている。
「火を止めるな、という紙が出たそうやな」王仁三郎が言った。
知らせは片山の電話より先に届いていた。製糸場から逃げた無面が、途中で窯場の若者と同じ顔になり、同じ言葉を伝えたらしい。本物の若者は裏山で薪を割っていた。
すでに二人が火口を守り、誰にも触らせまいとしていた。
「止めたら町が焼けると言われた」政一は額の汗を拭った。「本当かどうか分からん。けど、今ここで薪を止めて、あとで火事になったら」
「続けて火事になっても同じや」佐和が言う。
律は窯を見た。温度計は千度近くを指している。ここで急に焚くのをやめれば、器の多くは割れる。煙道を閉じれば燃え残りのガスが溜まり、再び空気が入ったとき爆ぜる危険もある。だが薪を足さず、通風を少しずつ絞り、安全に火勢を落とすことはできる。
「火を止める、という言葉が曖昧です」
「屁理屈を言ってる場合か」政一が声を荒らげた。
「薪を入れないことか。火口を閉じることか。窯を水で消すことか。どれをすると町が焼けるのか、紙には書いていない」
命令は強いのに、対象がない。
無面が好む形だった。読んだ者が自分で最も恐ろしい意味を補い、その意味に従って動く。
窯口へ、近所の女が二人駆け込んできた。今度の窯には、地震で家を失った者へ配る飯茶碗も入っているという。焼き損じれば、次に土と燃料が揃うのはいつになるか分からない。
「人を守る言うても、器がなければ明日から何で食べるんです」
政一だけが意地を張っているのではなかった。窯の中にあるのは売り物ばかりではない。割れれば誰かの暮らしへ、そのまま欠けた分が回っていく。
律は温度計の数字を書き取り、火口の前へ細い紙片をかざした。吸い込まれる速さを見る。次に、煙道の脇へ手を近づけ、片山へ時計を読ませた。
「三分ごとに測ります。下がり方が急なら薪を一本戻す。煙が逆流したら全員離れる。器を全部諦める必要はありません」
「そんな細かい加減で、未来に勝てるんか」女の一人が聞いた。
「未来には勝てません。今ここにある火を、見た分だけ扱います」
律は答えながら、自分の声がひどく頼りなく聞こえた。札なら、正しいか間違いかを一行で告げてくれる。現実は三分ごとに測り直し、そのたび責任が増える。それでも、間違いに気づいたとき引き返せるのは、このやり方だけだった。
女たちは納得した顔をしなかった。それでも一人は井戸へ走り、もう一人は割れても使える器を選り分けるため、藁と木箱を運び始めた。
政一は窯詰めの図を広げた。上段には薄手の皿、中央には飯茶碗、下段には厚い水甕が入っている。急な温度差に弱い上段を守ろうとすれば、火を長く保たねばならない。だが水甕は、地震で井戸を失った集落へ明朝運ぶ品だった。
「全部を救う順番はないんやな」
律が言うと、政一はしばらく図を睨み、上段の皿へ自分で斜線を引いた。
「皿はまた焼ける。水を運ぶ甕を残す」
誰かに命じられたのではない。損を引き受ける者が、何を残すかを決めた。律はその時刻と理由も焼成記録へ書かせた。
王仁三郎は焼成記録を政一から受け取った。
「器を守るなら焚き続けたい。人を守るなら、器は割れてもよい」
「先生、今回の耀盌も入っています」
「盌に町を焼かせるわけにはいかん」
焚き続けるとも、今すぐ消すとも言わなかった。まず火口ごとの薪投入を記録し、十分ごとに量を減らす。煙道は閉じ切らず、温度の下がり方を二人で読む。水は窯へ掛けず、周囲の屋根と薪置き場へ回す。
それが仮の手順になった。
安達の札は伏せたまま。夜番の札も伏せたまま。耀盌の力は使えない。
佐和と政一は窯に残った。安達と片山は燃料置き場を調べる。律は夜番の老人と水路へ向かった。王仁三郎は作業場で、全員の報告が混ざらないよう別々の紙へ記録する。
燃料置き場には薪、木炭、少量の石炭が分けて積まれていた。戦時中で油は貴重だ。窯場が持つ灯油は二缶だけで、どちらも封が切られていない。
ただし床に、黒い粉が筋になって落ちていた。
安達が指で触れず、白紙を当てて採る。石炭粉に見えた。筋は薪小屋から外へ伸び、乾いた草の中を通って町側の坂へ続いている。
「火の道や」片山が言った。
「まだ火はない」安達は答えた。
黒い筋を追うと、途中に継ぎ目があった。古い麻縄をほぐし、石炭粉と油を擦り込んだ導火の束が、落ち葉の下へ隠されている。窯場から飛んだ火の粉でも、誰かが煙草を捨てても燃え移る。
さらに坂下には、地震後に集めた救援用の薪と乾草が積まれていた。その先は家並みだった。
紙の命令どおり火を焚き続ければ、風向きが変わったとき火の粉が導火束へ届く。町は本当に焼けるかもしれない。
ならば火を止めれば安全なのか。
水路へ向かった律は、途中で答えを見つけた。
防火用の貯水槽から窯場へ引く竹管が、三か所で外されていた。水は畑へ流れ、貯水槽の水位が下がっている。外れた継ぎ目には新しい泥が付き、誰かが今日触ったことが分かる。
夜番の老人が山側を見上げた。
「火を怖がって窯へ水を掛けたら、ここにはもう残らん」
町側の共同井戸も、地震で石組みが崩れたままだ。窯を乱暴に消そうとすれば、限られた水を使い切る。そのあと別の場所へ火が付けば消せない。
無面は一つの予言を当てようとしているのではなかった。
焚き続けても危ない。急いで消しても危ない。どちらを選んでも、残った仕掛けに火を付ければ「予言は正しかった」と言える。
律は貯水槽へ戻り、竹管を直そうとした。だが一つ目の継ぎ手に手を掛けたとき、右目の奥が冷えた。
未来の像ではない。
四枚の札のうち、どれか一枚へ水が落ちた感覚だった。
窯場にいる佐和ではない。夜番の札は老人の懐で伏せられている。安達の札は片山が持っている。
残る一枚は、東の寺に置いた紙の写しだった。
誰かが、律たちの知らない場所で札を表へ返そうとしている。




