第三十一話 自分の字を疑う
律は、床の札を拾わなかった。
佐和も店へ踏み込まず、戸口にしゃがんだ。札は帳場から二歩ほど離れた場所で裏返っている。安達の名を書いた面が床へ向き、端に残った銀線だけが弱く明滅していた。
「まず、今あるものを動かさない」
律が言うと、佐和は外にいた近所の者へ、片山を呼ぶよう頼んだ。
安達の字で書かれた一行も、まだ安達の言葉ではない。
〈誰にも言わず、俺一人で確かめる〉
紙は乾物屋の勘定用紙だった。墨も帳場の硯から取ったように見える。筆は見当たらない。床に落ちた札から紙まで、細い墨の点が三つ続いていた。
律は帳面に位置を描いた。佐和が店の外から時刻を読む。近所の証言は、互いに聞かせる前に一人ずつ書いてもらった。
訪ねてきた男は、米屋には巡査に見えた。向かいの老婆には若い坊主に見えた。荷車を引いていた少年は、安達と同じ背丈の商人だったと言う。服の色さえ、紺、鼠、茶に分かれた。
共通していたのは一つだけだった。
男は店へ入る前、軒の昆布を一本ちぎった。
「買うたんやなくて?」佐和が少年に聞く。
「銭は出してへん。縄ごと引っ張って、端を持って入った」
昆布は客を装うためではない。何かの目印に使った可能性がある。
片山が若い巡査を連れて来た。床、帳場、裏口を順に確認し、札と紙を竹の挟みで別々の盆へ載せた。三宅へ報告すれば、店も札もすぐ押収される。それでも今回は隠せない。安達本人が消えている。
「先に筆跡を見ます」律が言った。
「君が判定するのか」
「判定しません。比べます」
安達の帳簿を三冊出した。仕入れ、貸し、配給品。問題の一行と同じ文字を拾う。
〈誰〉の右払いは似ていた。〈一〉はいつも少し右上がり。〈確〉の旁を安達は省略する癖がある。形だけなら本人の字だった。
佐和が紙を横から見た。
「でも、墨が全部同じ濃さや」
安達は一息で長い文を書かない。帳簿でも、言葉の切れ目ごとに筆へ墨を足す。古い記録には必ず濃淡がある。床の一行には、それがなかった。
片山が紙の裏を確かめる。
筆圧もほとんどない。筆先が紙へ触れた深さが、最初から最後まで揃っていた。人が手首を動かせば、わずかに変わるはずだった。
「本人の字を、線だけなぞったみたいです」律は言った。
「手を操られた可能性は」
「あります。写された可能性もあります。まだ、どちらとも決めません」
若い巡査が、裏口近くで筆を見つけた。
安達が普段使うものだった。穂先は乾いている。硯の墨には新しく水を足した跡があったが、筆にはその墨が付いていない。
紙の一行は、店の筆で書かれていなかった。
片山は問題の紙を封じた。
「捜索する。だが人数が足りん」
地震後の見回り、橋の封鎖、物資の警備で、警官は散っている。三宅へ連絡すれば人を出すだろう。その代わり、四枚の札も窯場も警察管理になる。
律は迷った。
札を守るために安達の捜索を遅らせれば、札の規則そのものを裏切る。人を守るための停止権が、持ち主を見捨てる理由になってはいけない。
「三宅警部補へ報告してください」
佐和は何も言わず、うなずいた。
報告を待つ間、律たちは店の外側を調べた。裏口から細い路地へ、昆布の欠片が落ちている。風で飛んだだけかもしれない。だが三つ目の欠片は泥へ踏み込まれ、草履の跡と重なっていた。
安達の草履は右の踵だけ外側が減っている。泥の跡も右へ傾いていた。
本人が歩いた可能性が高い。
足跡は北へ向かい、途中で二人分になった。もう一人は靴。軍靴ほど深くなく、巡査の靴より細い。昆布の欠片は靴跡の側に落ちている。
「安達さんが目印を残したんと違う」佐和が言った。「連れていった方が落としてる」
「わざとかもしれない」
「追わせるため?」
律は答えなかった。
無面は、耀盌の移送票に人の列を作った。今度は昆布で道を作っている。追跡者に見つけてほしい道なら、その先を安全だと思ってはいけない。
片山が戻った。三宅は捜索を許可し、巡査を二人追加した。ただし手順札をすべて現状のまま封じ、勝手に接続しないこと。窯場には一人残ること。命令書には発信時刻が入り、片山が電話で内容を復唱した。
偽命令のあとだからこそ、確認が増えていた。
王仁三郎は窯場へ残った。夜番の老人も札を伏せたまま動かない。律、佐和、片山、巡査二人で北へ向かった。
昆布の道は、古い製糸場へ続いていた。
地震で屋根の一部が落ち、今は物資置き場にも使われていない。門には立入禁止の縄が張られている。昆布の端が、その縄へ結ばれていた。
律はすぐ入らなかった。
建物を一周し、出口を三つ確認した。片山が巡査を別々に配置する。佐和は近くの家へ、最後に人を見た時刻を聞いた。
一人の農婦が、安達を見ていた。
「誰かと話しながら入っていった」
「相手の顔は」
「安達さん本人やった」
同じ顔が二人、並んでいたという。
律は入口の縄を切らず、緩んだ柱の隙間から中を見た。
製糸場の床には、紙が並んでいる。
すべて安達の字だった。
〈左の戸を開けろ〉
〈井戸の前で待て〉
〈呼ばれても返事をするな〉
〈次の紙だけを信じろ〉
命令が一枚ずつ奥へ続いている。安達はその列をたどったらしい。足跡も紙の前で止まり、次へ向かっていた。
「自分の字なら信じると思ったんや」佐和が低く言う。
「違う。自分の字だから、疑うために一人で来たのかもしれない」
どちらも推測だった。
片山は紙を踏まないよう板を渡した。全員が同じ入口から一列に入れば、一つの罠でまとめて止められる。巡査一人を外へ残し、三人は別の隙間から入った。
律と佐和は右。片山は中央。もう一人の巡査は裏口。
呼びかける言葉も決めた。
「安達さん」と名前だけを呼ばない。無面が同じ声で返せるからだ。
佐和が帳簿から一つ選んだ。
「去年の冬、うちが踏み倒した干し芋の代金、いくら?」
「踏み倒したん?」律が聞く。
「払った。三日遅れた」
本人なら怒って訂正する。
製糸場の奥で何かが倒れた。
「踏み倒してへん!」
安達の声だった。
「銀二十銭、三日遅れや! 利息まで昆布で取ったやろ!」佐和が叫ぶ。
「あれは利息やない、正月の余りや!」
返事の内容は合っている。だが無面が安達の記憶を読んでいる可能性は残る。
律は次の確認をした。
「今、右手に何を持っていますか」
沈黙。
「分からん」
「見ないで答えてください」
「持ってる感じはする。けど、見たら紙や。握ると縄や」
関係がずらされている。
声の方へ近づくと、古い繭置き場の柱に安達が縛られていた。縄は一本しかないのに、本人は両手両足を動かせない。右手には何も持っていない。足元へ、同じ筆跡の紙が何十枚も散っていた。
その向かいに、もう一人の安達が座っている。
同じ顔。同じ着物。右踵の減った草履まで同じだった。
ただし影が逆へ伸びている。
無面は律たちを見て、安達の声で言った。
「遅かったな」
片山が拳銃を抜いた。
律は手を上げて止める。
二人の安達が同時に叫んだ。
「そいつが偽物や!」
佐和は迷わなかった。
「去年の干し芋、銀二十銭やない」
柱の安達が怒鳴る。
「お前が今言うたんやろ!」
座った安達は、ほんの一瞬だけ黙った。
偽の確認だった。
正しい答えを知っているかではなく、さっきの会話を自分の経験として覚えているか。無面は古い記憶を写せても、数十秒前に別の場所で交わした言葉をまだ自分へ結びつけていない。
片山が柱側へ走った。
無面の顔が崩れる。安達の頬の下から緑の筋が浮き、身体が糸の束のように細くなった。拳銃が一発鳴る。弾は柱へ当たり、無面は繭棚の陰へ消えた。
律は追わなかった。
安達の縄を切る。見た目は一本だが、本人の感覚には幾重にも巻かれている。佐和が一本ずつ数え、実際に触れている箇所だけを言わせた。
「首にはない。胸にもない。右手首に一本。左は自由」
言葉で身体との関係を戻すと、安達は立てるようになった。
無面は裏口から逃げた。外の巡査は、安達が一人で出てきたと思い、呼び止めなかった。顔だけで確認したためだった。
製糸場には、安達の筆跡を写した紙が四十七枚残った。
本人が書いたものは一枚もない。
墨は同じ濃さ。筆圧も同じ。けれど最後の一枚だけ、まだ乾いていなかった。
そこには明日の日付が書かれている。
〈窯場の火を止めるな。消せば、町が焼ける〉
予言か、命令か、脅しなのか。
律は紙を裏返した。
自分の字で書かれていても、未来から来たように見えても、それだけでは表へ向ける理由にならない。
安達は自分の手順札を拾い、泥を拭った。
「俺が伏せる」
「理由は?」律が聞く。
「俺の字を使う奴がいる。今の俺には、俺の命令まで信用できん」
札は裏のまま、銀線を失った。
遠くの窯場では、夜の火が上がり始めていた。




