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第三十話 空の器

耀盌は、亀岡から離れた臨時の警察詰所へ運び込まれていた。


元は街道沿いの公会堂で、地震後は物資の集積所と事情聴取の部屋を兼ねている。窓には板が打たれ、入口に警官が二人立っていた。


律、佐和、王仁三郎、片山が同じ部屋へ入った。三宅は机の向こうに座り、封をした木箱を睨んでいる。役場の書記は別室で休んでいた。車の中で亡くなった母親の声を聞き、箱を開けようとしたため、片山が止めたという。


「君たちは、中身を入れ替えたな」


三宅は挨拶もせず言った。


「触れていません」律が答える。


「提出した直後にひびが消えた。移送中には、箱から声がした。橋へ誘導する偽命令まで現れた。偶然で済むか」


「済みません。だから調べます」


「調べるのはこちらだ」


三宅は木箱を指した。「封を開けろ」


片山が動かなかった。


箱の封には三宅、片山、王仁三郎の印がある。証拠物の移送中に異常があったため、開封理由、時刻、立会人を記録してからでなければ開けないと言う。


「声がしているんだぞ」


「だから記録します。開けたあと、声が止まれば、中に原因があったことになる。先に破れば、誰が何をしたか残りません」


三宅は怒鳴りかけ、やめた。


律は片山が無面を信じたのではないと分かっていた。自分の印を勝手に使われた男は、次も同じことをされたくないだけだ。それで十分だった。


開封の前に、全員が聞こえる声を別々に書いた。


三宅は兄。片山は誰も聞こえない。王仁三郎は子供の笑い声。佐和は母。律には賀茂静が暦を読む声がする。


「同じ声やないんやな」佐和が言う。


「箱の中に人がいるわけではない」片山が記す。


「まだ開けていません」律は言った。「箱の外から、そう聞こえるというだけです」


佐和が横目で睨む。「今それ要る?」


「要ります」


開封時刻を記録し、三人が封の状態を確認した。


片山が縄を切る。


蓋を持ち上げた瞬間、全員の声が止んだ。


布包みを解く。


耀盌は提出時と同じ形だった。ひびは消えている。水を張っても、釉には天井が映るだけだ。黒い瞳は開かない。律が指を近づけても、右目は反応しなかった。


ただの器になっている。


箱を開けた状態で、移送中の出来事を一人ずつ話した。


運転手は、分岐の手前で制服姿の巡査に止められたと言う。巡査は北の橋が安全だと説明し、迂回命令を渡した。三宅には、その男が府の警察部で何度も見た部下に見えた。役場の書記には、地震で亡くなった兄に見えた。片山だけは知らない顔だった。


「だから照会した」片山が言う。


三宅は苦い顔をした。「私には、たしかに部下の柴田だった」


「柴田巡査は今日、府庁にいます」


同行の若い警官が確認した。


迂回命令の紙には正式な様式が使われ、印もあった。だが、発信時刻の欄が空白だった。急いでいる者なら見落とす。片山は、そこが気になって車を止めたという。


声が始まったのは、その後だ。


三宅は兄から、命令を疑うなと言われた。書記は母に、耀盌を開ければ橋の安全が分かると言われた。運転手は何も聞かず、かわりに道の先が明るく見え、進めると思った。


同じ働きかけでも、形は違う。


片山は全員の証言を別々の紙へ書かせ、互いに見せる前に封じた。無面の存在を認めたわけではない。ただ、口裏を合わせたと後で言われないためだった。


律はそのやり方を帳面へ写した。


三宅は律の顔を見た。


「力を抜いたのか」


「抜けたところは見ました。俺が動かしたわけではありません」


「どこへ行った」


律は、ここで黙れば完全な隠蔽になると分かっていた。


帳面の写しを出した。


耀盌提出後、四枚の手順札に銀線が現れたこと。移動か共鳴か未確認だったこと。警察への報告を、その夜まで保留したこと。佐和、夜番、安達の印もある。


三宅は最後まで読み、紙を机へ叩きつけた。


「なぜすぐ報告しなかった」


「札まで持っていかれると思ったからです」


「当然だ」


「だから迷いました」


「迷えば、命令を保留できるのか」


「できません。保留した事実を記録しました」


三宅は立ち上がった。「四枚すべて提出させる」


「一枚は今、伏せられています」


「何?」


律は、四枚が揃わなければ接続しないことを説明した。夜番が自分の意志で停止している。彼に表へ返せと命じれば、手順札に刻んだ停止権を最初の使用で破ることになる。


「その老人一人が、国家の使用を止められると?」


「今の仕組みでは」


三宅は呆れたように笑った。


片山は笑わなかった。


「巡査部長、まさか認める気か」


「認めるかどうか以前に、三枚では動かんのでしょう」


「老人を連れて来ればいい」


「連れて来ても、伏せたままなら同じです」


三宅の目が冷たくなる。


人間を拘束し、札を表へ向けさせることはできる。指をつかんで水を落とさせることもできる。だがそれをした瞬間、この器を人の選択に使うという説明はすべて嘘になる。


王仁三郎が静かに口を開いた。


「提出させるなら、一枚ずつ、持つ者に理由を示して求めるべきでしょう」


「拒否すれば」


「拒否した記録を残す」


「それで戦争が待つと思うか」


「戦争が待たぬからこそ、誰が急がせたか残るのです」


三宅は返事をしなかった。


そのとき、木箱の底で紙が動いた。


耀盌の下に、提出時にはなかった細い紙片が貼りついている。片山が素手で触れず、竹の挟みで取った。


証拠物の移送票だった。


耀盌を誰が受け取り、誰が運び、どこで保管するか。三宅、片山、運転手、書記の名が順に並ぶ。その名を結ぶように、緑の線が這っていた。


無面が追っていたのは、空になった耀盌だけではない。


器を預かった人間の列だった。


「この紙から声がしていた可能性があります」律が言う。


三宅は顔をしかめた。「紙が声を出すものか」


「出さないなら、切り離しても問題ありません」


片山が移送票を別の陶箱へ入れた。原本を破らず、外から見える状態で蓋をする。緑の線が弱まり、三宅の表情からわずかに力が抜けた。


「今、何か聞こえていましたか」佐和が問う。


三宅は答えなかった。


兄の声が止んだのだろう。


空の耀盌は、その日のうちに別の保管庫へ移されることになった。移送票は新しく作り、氏名は必要な担当者だけに分けて持たせる。三宅は四枚の札の提出命令を撤回しなかったが、即時の連行は見送った。


律たちは日暮れ前に窯場へ戻った。


乾物屋の戸が開いていた。


佐和が先に入ろうとし、律が止めた。二人は裏口と窓を外から確かめ、近所の者に最後に安達を見た時刻を聞いた。昼過ぎ、店を閉める姿を見た者がいる。その後、男が一人訪ねたという証言があったが、顔の特徴は誰も同じに覚えていなかった。


店内に安達はいない。昆布も干し芋もそのままなのに、帳場だけが荒らされている。床には裏返った手順札が落ち、銀線が途中で切れていた。


札の裏へ、安達の字で一行ある。


〈誰にも言わず、俺一人で確かめる〉


律はその字を見て、すぐに安達の決断だとは思わなかった。


本人が書いたかどうか、まだ誰も確認していない。


店の軒では、切れた昆布の縄だけが風に揺れていた。

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