表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/57

第三十四話 正しい顔の逮捕状

夜明け前、窯場へ三台の自転車が上がってきた。


先頭は巡査部長の大橋だった。片山が警察へ入ったころからの上役で、右脚を少し引きずる。後ろには若い巡査が二人。三人とも制服で、制帽の徽章も腰の警棒も本物に見えた。


片山は窯場の入口から出なかった。


「そこで止まってください」


大橋は自転車を降り、息を整えた。


「片山、お前が水城律を匿っているという通報が入った。製糸場への不法侵入、放火予備、それから軍需物資の窃取容疑だ」


「誰からの通報です」


「電話では名乗らなかった。だが現場から油を染み込ませた縄が出たそうだな。水城の指紋もあると聞いた」


律は自分の指先を見た。製糸場で紙を扱う前、佐和に言われて布を巻いた。導火束には触れていない。それでも指紋がないことは、ここでは証明にならなかった。誰かが律の触れた茶碗や帳面から写した可能性もある。


片山は測温記録の時刻を告げた。


「今の値を答えてください」


大橋は眉を寄せた。


「何の話だ」


「詰所から聞いていませんか」


「火事場の数字遊びに付き合う暇はない。逮捕状もある」


内ポケットから紙を取り出し、二つ折りのまま掲げる。印影は遠目にも赤かった。


安達が律の前へ出た。


「近づけたらあかん。顔を取られる」


若い巡査の一人が警棒へ手を掛けた。


「公務を妨げるつもりか」


本物らしい怒りだった。


それが最も厄介だった。三人すべてが無面なら、見破れば終わる。だが本物の警察官が偽の命令を信じて来たのなら、彼ら自身に嘘はない。測温値を答えられないのも当然だった。窯場だけで決めた手順は、途中で回線を切られた警察へ届いていない。


「大橋さん」片山は声を落とした。「逮捕状を、地面の石の上へ置いてください。こちらから取りに行きます」


「そんな扱いがあるか」


「今夜、私と同じ顔の者が詰所の電話に出ました」


大橋の後ろで、若い巡査たちが互いを見た。


「疲れているんだ、片山。お前は昔から思い込みが強い」


その言い方を、片山は知っていたらしい。口元がわずかに固くなる。


「私が初めて始末書を書いた理由を覚えていますか」


「酔漢を殴った」


「違います」


大橋の顔に、ほんの短い空白ができた。


「留置人へ勝手に握り飯を渡した。あなたが半分だけ書き直させて、残り半分は自分の監督不行届にした」


「細かいことを試すな」


答えになっていない。


安達が息を呑んだ。だが律は大橋を偽物だと決めなかった。無面は古い記憶を読める。片山の記憶から答えを知っていても、わざと間違えることができる。反対に、本物の大橋が十年前の出来事を忘れていても不思議ではない。


問い一つで人を裁くことは、耀盌へ答えを求めるのと同じだった。


律は逮捕状ではなく、三台の自転車を見た。泥除けに夜露がついている。先頭の一台だけ、前輪に白い土がこびりついていた。町の詰所から窯場までの道は黒土だ。白土があるのは東の寺へ向かう坂だった。


「大橋さんは寺へ寄りましたか」


「寄っていない」


「その自転車だけ、寺の坂の土がついています」


大橋は振り返らなかった。


若い巡査の一人が前輪を見た。


「部長、俺たちと合流する前、どこにいたんです」


「詰所だ」


「でも、その自転車は署の裏に置いてあったものじゃない。寺の駐在が使う型です」


大橋の右脚から、引きずる癖が消えた。


一歩だけだった。


次の瞬間には、また右脚を引いている。しかし一度見えた違いは戻らない。


片山が若い二人へ言った。


「逮捕状を受け取った場所と時刻を、別々の紙に書け。相談するな」


大橋が怒鳴った。


「命令を聞け! 水城を拘束しろ!」


若い巡査は動かなかった。一人が帳面を出し、もう一人が鉛筆を探す。命令へ逆らったのではない。命令が成立した経路を確かめようとした。


大橋は逮捕状を投げた。


紙は地面へ落ちず、途中で広がった。内側から細い緑の粉が舞う。


「伏せろ!」


律が叫ぶより先に、佐和が濡れむしろを投げた。粉を包み、地面へ押さえる。風下にいた政一が咳き込み、膝をついた。安達と消防組の男が彼を火口の反対側へ引きずる。


大橋の制服が揺れた。


顔の皮膚が水面のように波打ち、片山になり、佐和になり、律になった。どれも一呼吸しか保たない。最後に大橋へ戻ると、無面は若い巡査の腕をつかんだ。


巡査の目が緑に濁る。


「水城律を確保しろ」


今度の命令は、無面の声ではなかった。つかまれた巡査自身の声で、もう一人へ繰り返された。


残った巡査が警棒を抜く。片山が間へ入った。


「杉本、俺を見ろ。命令を受けた時刻は」


「四時十二分」


「誰から受けた」


「大橋巡査部長」


「その人が大橋だと、何で確かめた」


杉本の警棒が止まった。


無面はつかんだ巡査を突き飛ばし、薪小屋の屋根へ跳んだ。人間の脚では届かない高さだった。緑の粉を吸った政一が、突然火口へ走り出す。


「止めたら町が焼ける!」


同じ言葉を叫びながら薪を抱える。安達が腰へ組みついた。政一は細身の体から想像できない力で振り払い、燃えさしをつかもうとした。


律の右目は何も見せなかった。


耀盌も札もない。


あるのは、政一が右手を火へ伸ばし、左足へ体重を移したという現在だけだった。


律は左から肩を入れた。政一の腕を止めるのではなく、踏み出す足をずらす。二人で灰の上へ倒れた。熱が頬を焼く。


佐和が政一の口と鼻へ濡れ布を当てた。老人が窯の通風を一段絞る。誰も律の指示を待たなかった。それぞれが見えた危険に、自分の範囲で手を出した。


屋根の上で、無面が笑った。


大橋の声、片山の声、王仁三郎の声が重なる。


『止める権利を配れば、誰も進めなくなる』


律は政一を押さえたまま答えた。


「進むことを決める権利も、返しているだけだ」


無面の首が傾いた。


その一瞬、東の空が白み、輪郭が透けた。皮膚の下に緑色の細い骨格が見える。佐和が投げた鉄桶が屋根瓦を割ったが、無面は煙道を蹴り、裏山へ消えた。


追おうとした杉本を片山が止める。


「先に、お前たちが本物か確かめる」


「逃げます!」


「追う命令を出した俺が本物かも、まだ確かめていない」


片山自身がそう言い、警棒と拳銃を地面へ置いた。若い巡査二人にも同じことを求める。無面に触れられた巡査は震えながら従った。目の緑は薄れているが、どこまで戻ったか分からない。


王仁三郎が三人を別々の場所へ座らせた。


無面につかまれた巡査は、自分の名を言えた。家の場所も、昨夜食べた物も覚えている。ところが片山が「水城律を逮捕する必要はあるか」と尋ねると、本人の意思とは無関係に口が動いた。


「必要だ」


言った直後、巡査は自分の口を両手で押さえた。


「違う。今のは俺やない」


もう一度尋ねても同じだった。理由を聞けば、放火、窃盗、逃亡の恐れと、命令書にあった言葉が順番に出てくる。自分で考え直そうとするほど顔色が悪くなり、最後には吐いた。


佐和は彼を犯罪者のように縛らせなかった。警棒だけを預かり、毛布を掛け、質問を止めた。


「答えを引き出すたび、あいつの命令を中で読み直させてる」


片山は杉本にも巡査を監視させず、消防組の夫婦へ預けた。仲間だからこそ、正常に戻ったと信じたくなる。その願いは確認の代わりにならない。


「いつまで外すんです」杉本が聞いた。


「分からん。分からん間は、武器と命令から外す」


処罰ではなく、回復するまで権限を預ける。だが本人にとっては、制服を脱がされるのと同じ痛みがある。巡査は毛布の下で歯を食いしばり、それでも頷いた。


「顔を疑い続ければ、人は最後に自分の顔まで信じられんようになる」


「では、何を信じればいいんです」律が聞いた。


「一人の中に答えを置かんことやろな」


朝の光の中で、逮捕状を包んだ濡れむしろが小さく動いた。


佐和が火箸で端を上げる。


中の紙は溶けていた。赤い印だけが泥の上に残り、そこから細い緑の根が伸びている。


根は窯場ではなく、三台の自転車が来た道へ向かっていた。


詰所の方角だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ