第三十四話 正しい顔の逮捕状
夜明け前、窯場へ三台の自転車が上がってきた。
先頭は巡査部長の大橋だった。片山が警察へ入ったころからの上役で、右脚を少し引きずる。後ろには若い巡査が二人。三人とも制服で、制帽の徽章も腰の警棒も本物に見えた。
片山は窯場の入口から出なかった。
「そこで止まってください」
大橋は自転車を降り、息を整えた。
「片山、お前が水城律を匿っているという通報が入った。製糸場への不法侵入、放火予備、それから軍需物資の窃取容疑だ」
「誰からの通報です」
「電話では名乗らなかった。だが現場から油を染み込ませた縄が出たそうだな。水城の指紋もあると聞いた」
律は自分の指先を見た。製糸場で紙を扱う前、佐和に言われて布を巻いた。導火束には触れていない。それでも指紋がないことは、ここでは証明にならなかった。誰かが律の触れた茶碗や帳面から写した可能性もある。
片山は測温記録の時刻を告げた。
「今の値を答えてください」
大橋は眉を寄せた。
「何の話だ」
「詰所から聞いていませんか」
「火事場の数字遊びに付き合う暇はない。逮捕状もある」
内ポケットから紙を取り出し、二つ折りのまま掲げる。印影は遠目にも赤かった。
安達が律の前へ出た。
「近づけたらあかん。顔を取られる」
若い巡査の一人が警棒へ手を掛けた。
「公務を妨げるつもりか」
本物らしい怒りだった。
それが最も厄介だった。三人すべてが無面なら、見破れば終わる。だが本物の警察官が偽の命令を信じて来たのなら、彼ら自身に嘘はない。測温値を答えられないのも当然だった。窯場だけで決めた手順は、途中で回線を切られた警察へ届いていない。
「大橋さん」片山は声を落とした。「逮捕状を、地面の石の上へ置いてください。こちらから取りに行きます」
「そんな扱いがあるか」
「今夜、私と同じ顔の者が詰所の電話に出ました」
大橋の後ろで、若い巡査たちが互いを見た。
「疲れているんだ、片山。お前は昔から思い込みが強い」
その言い方を、片山は知っていたらしい。口元がわずかに固くなる。
「私が初めて始末書を書いた理由を覚えていますか」
「酔漢を殴った」
「違います」
大橋の顔に、ほんの短い空白ができた。
「留置人へ勝手に握り飯を渡した。あなたが半分だけ書き直させて、残り半分は自分の監督不行届にした」
「細かいことを試すな」
答えになっていない。
安達が息を呑んだ。だが律は大橋を偽物だと決めなかった。無面は古い記憶を読める。片山の記憶から答えを知っていても、わざと間違えることができる。反対に、本物の大橋が十年前の出来事を忘れていても不思議ではない。
問い一つで人を裁くことは、耀盌へ答えを求めるのと同じだった。
律は逮捕状ではなく、三台の自転車を見た。泥除けに夜露がついている。先頭の一台だけ、前輪に白い土がこびりついていた。町の詰所から窯場までの道は黒土だ。白土があるのは東の寺へ向かう坂だった。
「大橋さんは寺へ寄りましたか」
「寄っていない」
「その自転車だけ、寺の坂の土がついています」
大橋は振り返らなかった。
若い巡査の一人が前輪を見た。
「部長、俺たちと合流する前、どこにいたんです」
「詰所だ」
「でも、その自転車は署の裏に置いてあったものじゃない。寺の駐在が使う型です」
大橋の右脚から、引きずる癖が消えた。
一歩だけだった。
次の瞬間には、また右脚を引いている。しかし一度見えた違いは戻らない。
片山が若い二人へ言った。
「逮捕状を受け取った場所と時刻を、別々の紙に書け。相談するな」
大橋が怒鳴った。
「命令を聞け! 水城を拘束しろ!」
若い巡査は動かなかった。一人が帳面を出し、もう一人が鉛筆を探す。命令へ逆らったのではない。命令が成立した経路を確かめようとした。
大橋は逮捕状を投げた。
紙は地面へ落ちず、途中で広がった。内側から細い緑の粉が舞う。
「伏せろ!」
律が叫ぶより先に、佐和が濡れむしろを投げた。粉を包み、地面へ押さえる。風下にいた政一が咳き込み、膝をついた。安達と消防組の男が彼を火口の反対側へ引きずる。
大橋の制服が揺れた。
顔の皮膚が水面のように波打ち、片山になり、佐和になり、律になった。どれも一呼吸しか保たない。最後に大橋へ戻ると、無面は若い巡査の腕をつかんだ。
巡査の目が緑に濁る。
「水城律を確保しろ」
今度の命令は、無面の声ではなかった。つかまれた巡査自身の声で、もう一人へ繰り返された。
残った巡査が警棒を抜く。片山が間へ入った。
「杉本、俺を見ろ。命令を受けた時刻は」
「四時十二分」
「誰から受けた」
「大橋巡査部長」
「その人が大橋だと、何で確かめた」
杉本の警棒が止まった。
無面はつかんだ巡査を突き飛ばし、薪小屋の屋根へ跳んだ。人間の脚では届かない高さだった。緑の粉を吸った政一が、突然火口へ走り出す。
「止めたら町が焼ける!」
同じ言葉を叫びながら薪を抱える。安達が腰へ組みついた。政一は細身の体から想像できない力で振り払い、燃えさしをつかもうとした。
律の右目は何も見せなかった。
耀盌も札もない。
あるのは、政一が右手を火へ伸ばし、左足へ体重を移したという現在だけだった。
律は左から肩を入れた。政一の腕を止めるのではなく、踏み出す足をずらす。二人で灰の上へ倒れた。熱が頬を焼く。
佐和が政一の口と鼻へ濡れ布を当てた。老人が窯の通風を一段絞る。誰も律の指示を待たなかった。それぞれが見えた危険に、自分の範囲で手を出した。
屋根の上で、無面が笑った。
大橋の声、片山の声、王仁三郎の声が重なる。
『止める権利を配れば、誰も進めなくなる』
律は政一を押さえたまま答えた。
「進むことを決める権利も、返しているだけだ」
無面の首が傾いた。
その一瞬、東の空が白み、輪郭が透けた。皮膚の下に緑色の細い骨格が見える。佐和が投げた鉄桶が屋根瓦を割ったが、無面は煙道を蹴り、裏山へ消えた。
追おうとした杉本を片山が止める。
「先に、お前たちが本物か確かめる」
「逃げます!」
「追う命令を出した俺が本物かも、まだ確かめていない」
片山自身がそう言い、警棒と拳銃を地面へ置いた。若い巡査二人にも同じことを求める。無面に触れられた巡査は震えながら従った。目の緑は薄れているが、どこまで戻ったか分からない。
王仁三郎が三人を別々の場所へ座らせた。
無面につかまれた巡査は、自分の名を言えた。家の場所も、昨夜食べた物も覚えている。ところが片山が「水城律を逮捕する必要はあるか」と尋ねると、本人の意思とは無関係に口が動いた。
「必要だ」
言った直後、巡査は自分の口を両手で押さえた。
「違う。今のは俺やない」
もう一度尋ねても同じだった。理由を聞けば、放火、窃盗、逃亡の恐れと、命令書にあった言葉が順番に出てくる。自分で考え直そうとするほど顔色が悪くなり、最後には吐いた。
佐和は彼を犯罪者のように縛らせなかった。警棒だけを預かり、毛布を掛け、質問を止めた。
「答えを引き出すたび、あいつの命令を中で読み直させてる」
片山は杉本にも巡査を監視させず、消防組の夫婦へ預けた。仲間だからこそ、正常に戻ったと信じたくなる。その願いは確認の代わりにならない。
「いつまで外すんです」杉本が聞いた。
「分からん。分からん間は、武器と命令から外す」
処罰ではなく、回復するまで権限を預ける。だが本人にとっては、制服を脱がされるのと同じ痛みがある。巡査は毛布の下で歯を食いしばり、それでも頷いた。
「顔を疑い続ければ、人は最後に自分の顔まで信じられんようになる」
「では、何を信じればいいんです」律が聞いた。
「一人の中に答えを置かんことやろな」
朝の光の中で、逮捕状を包んだ濡れむしろが小さく動いた。
佐和が火箸で端を上げる。
中の紙は溶けていた。赤い印だけが泥の上に残り、そこから細い緑の根が伸びている。
根は窯場ではなく、三台の自転車が来た道へ向かっていた。
詰所の方角だった。




