第二十七話 使わないための手順
片山が帰ったあと、窯場の者は作業台を囲んだ。
翌朝までに、耀盌を使う条件を書く。
言葉にすれば簡単だが、最初の一行で止まった。
〈耀盌は、人を救うために使用する〉
安達が書いた文を、律は消した。
「なぜだ。人を害するためと書くよりいいだろう」
「救うの意味を、使う人が決められます。嫌がる人を閉じ込めても、安全な場所へ救ったと言える」
「では、何と書く」
律は筆を持ったまま考えた。
佐和が横から紙を引き寄せる。
〈使う前に、何を見たいか書く〉
「これでええやろ」
「理由は書かなくていいんですか」政一が聞く。
「理由まで長々書いてる間に、屋根落ちたらどうすんの」
「でも、目的が嘘だったら」
「嘘かどうか、盌では決められへん」
一行目はそれで残った。
二行目には、見える範囲を書く。律は〈次の一歩まで〉を主張した。安達は短すぎると言い、夜番は一歩で十分だと言う。王仁三郎は、一歩という言葉も曖昧だと指摘した。
「荷車なら、一歩はどれほどだ」
「なら、次の動作まで」
「息を吸うのも動作だぞ」
「先生、今は言葉遊びをしてる場合では」
「曖昧な言葉は、持って行く者に都合よく広がる」
結局、〈事前に決めた一つの動作、または一か所の危険まで〉となった。屋根から出る、戸を開く、梁が落ちるかを見る。空襲全体や戦争の勝敗は、一つに含めない。
三行目で、また揉めた。
本人の同意なしに使わない。
「西倉庫で、声に操られてた人から同意を取れた?」
佐和に問われ、律は黙った。
「取れていません」
「ほな、あの人らは助けん方がよかった?」
「そうではありません」
「意識のない人もいる。子供もいる」
安達がここぞと加わる。「非常時に全員の許しを待つのは無理だ」
律は同意の条文を消したくなかった。けれど例外を一つも置かなければ、守れない規則になる。
話し合いの末、本人の心や過去を見ない形へ分けた。意識がない者の周囲で梁が落ちるか、火が回るかを見ることはできる。本人が何を選ぶか、どこへ行きたいかを勝手に読んではならない。緊急使用のあとには、見た内容と理由を本人か家族へ知らせる。
「家族がおらん人は」夜番が聞く。
「その場にいた人へ知らせます」
「皆死んだら」
「帳面に残す」
「帳面も燃えたら」
律は夜番を睨んだ。
老人は悪びれない。「抜け道を考えろと言うたのは、おまえだ」
紙だけでは残らない。
そこで同じ手順を四枚作ることにした。一枚は紙。二枚は素焼き札。最後の一枚は、窯場から離れた寺の帳面へ写す。文言が変わるときは、どの写しを、誰が、いつ直したかを余白へ書く。
律は〈正本〉を決めなかった。
一枚だけを本物にすれば、奪われたとき、それが全員の規則になる。四枚の内容が違った場合は、耀盌を使わず、まず違いを確かめる。
「急いでる時に違ってたら?」政一が聞く。
「盌なしで動きます」
「使えるのに?」
「使えるか分からないからです」
政一は納得していない顔だった。律も、これが正しいとは言い切れなかった。規則のせいで救えない人が出る可能性はある。けれど規則を外した瞬間、誰かが自分の恐怖を全員の未来として押しつける。
四枚は、同じ場所で一人が写さなかった。
律が元の案を読み上げ、佐和、夜番、安達が別々の机で書く。互いの紙を見ない。書き終えたところで並べると、すでに三か所違っていた。
律の紙には〈本人または家族へ知らせる〉。安達は〈本人および家族〉と写している。夜番の札には、緊急使用後に知らせるという一文そのものが抜けていた。佐和は〈外れた結果も残す〉の横へ、勝手に〈恥ずかしくても〉と足していた。
「最後のはいらないでしょう」律が言う。
「当たった話ばっかりしたがる人がおるから要る」
安達が視線を逸らした。
一字違うだけで、対象が変わる。本人か家族のどちらかへ知らせればよいのか、両方が揃うまで知らせられないのか。地震の夜なら、その差で半日止まることもある。
四人は文を短くした。
〈使用後、本人へ伝える。本人に伝えられない場合、その理由と、代わりに誰へ伝えたかを書く〉
家族という言葉を外した。家族がいることを前提にしないためだった。
抜けた一文は夜番が自分で刻み直した。佐和の〈恥ずかしくても〉は本文から消し、余白へ署名付きで残した。
「規則に感想を書くな」夜番が言う。
「余白やからええやん」
「後でどっちが規則か分からん」
「ほな線引いとく」
二人が土札へ太い線を刻む間に、小さな余震が来た。
灯火が揺れ、棚の器が鳴る。政一が反射的に耀盌へ水を入れようとしたが、律が止めた。梁は昼に点検済みで、全員が出口を知っている。佐和が屋根を確認し、夜番が火口を閉じる。盌を使わないまま、揺れは収まった。
政一は水差しを持ったまま立っていた。
「使わなくてよかったんですか」
「今の危険は、見れば分かりました」
「でも、もっと大きくなるかもしれなかった」
「そのときは畑へ出ます。未来を見るより早い」
手順には、使う条件だけでなく、使わない場合も記録することになった。耀盌なしで避けられた危険を残さなければ、後からすべての安全が器のおかげに見えてしまう。
王仁三郎は、その一文を最初に読み直した。
「使わなかった記録は、器を持つ者が一番捨てたがる」
律は片山へ渡す紙の冒頭に、今夜の余震を書き足した。
片山へ渡す文には、外れた記録も添えた。
十二回の試験。白線と現実が合った七回。何も見えなかった三回。誤った二回。参加を途中でやめた工員の名は本人の希望で伏せ、参加者一名が試験中に頭をぶつけたことも書いた。
「そこ、要ります?」
政一が自分のたんこぶを触る。
「要ります」
「俺が勝手に進んだんですよ」
「予見を見た人が、わざと逆を試したくなることも記録です」
佐和は笑いを堪えながら、負傷は軽微と付け足した。
夜半、素焼き札を窯へ入れた。
本焼きする時間はない。低い温度で乾かし、文字が崩れない程度に固める。地震で傷んだ窯は火の回りが均一でなく、佐和と政一が交代で見張った。
律は耀盌を作業台へ置き、ひびを観察した。
火が札の文字を焼くたび、盌底の銀片が淡く光る。紙へ書いたときには反応しなかった。土へ刻み、火を通したときだけ、細い線がひびから伸びて四枚の札へ向かう。
「これ、つながってませんか」
律が言うと、王仁三郎は札を窯から出さずに見た。
「つながっているように見えることと、何が移ったかは別だ」
「先生まで俺みたいな言い方を」
「便利なので借りた」
耀盌の水面に、賀茂静の姿が一瞬映った。
彼女は何かの術式を紙へ閉じ込め、最後の一行だけ自分の手で消している。その横では白い狐が、別の紙をくわえて走り去った。律には意味が分からない。ただ、全部を一つへ置かなかったことだけは見て取れた。
夜明け前、四枚の写しが揃った。
紙は律。素焼き札は佐和と夜番。寺へ運ぶ控えは安達が持つ。王仁三郎は何も持たなかった。
「先生の器なのに?」
「私が持てば、皆が私の言葉を正本にしたがる」
老人は耀盌だけを布で包んだ。
門の外で、自動車の音がした。
片山が言っていた府の担当者は、夜が明けきる前に到着した。




