第二十六話 予言を出せという役人
警察から来た片山巡査部長は、無面ではなかった。
律は最初にそこを確かめた。
冬の日差しは窯場の南から入り、片山の影は北へ伸びている。首筋に緑の線はない。窯場の名を尋ねたときも、誰かの声を真似るような間はなかった。
四十前後の痩せた男で、制服の肘に補修布が当てられている。同行者は役場の若い書記一人だけ。武装した者を並べて威圧する様子はないが、窯場へ入るなり、出口、窓、人数を順に確認した。
「まず地震を予告した文書を見せてもらう」
律は〈窯場と家の点検覚え〉を出した。
片山は最初から最後まで読み、机へ置く。
「大地震が来るとは書いていない」
「分からなかったので」
「だが海辺へ同じ趣旨の手紙を送った」
安達が口を開きかけ、王仁三郎が先に答えた。
「取引先へ、揺れた後の注意を書いた。控えもある」
片山は控えと、海から届いた粗紙を見比べた。
「六人助かった、と町で話している者がいる」
「一人は消息が分かっていません」律が言う。
「助かった六人は事実か」
「返事にそう書かれているだけです。現地では確認していません」
安達は堪えきれず、横から口を挟んだ。
「それでも手紙がなければ、六人は浜に残ったかもしれん。窯場を疑う前に、役所でも同じ紙を配ればいい」
片山は彼を見た。「地震の前に、この話を警察へ届けたか」
「流言で捕まると思った」
「ならば今になって、なぜ役所の名を欲しがる」
安達は口を閉じた。
助かった話が広まれば、紙へ権威を付けたくなる。外れたときの責任は、その権威へ渡したくなる。律は自分にも同じ気持ちがあると気づき、何も言わなかった。
片山が律を見る。
「君は、何を聞いても断言しないな」
「断言できることが少ないので」
「それで人を動かした?」
「紙を読んだ人が決めました」
片山は不機嫌そうに鼻から息を吐いた。役人にとって、誰が命じたのか分からない行動ほど扱いに困るものはない。
次に、生存者名簿を分けた理由を聞いた。
律は亡者の声や緑の糸を、そのまま話さなかった。見ていない者へ先に結論を渡せば、地震予言と同じになる。代わりに確認できる事実を並べた。
家族名を書いた直後、複数人がその家族に呼ばれたと訴えたこと。井戸へ走った子供がいたこと。田所は正式な命令を受けずに用紙を運んだこと。用紙を渡した人物について、田所が名前を思い出せないこと。
田所本人も呼ばれていた。
「間違いありません」
彼は片山の前で頭を下げた。「私は役場の印を見て、いつもの庶務係だと思いました。顔も知っていたはずです。ですが今は、誰だったのか説明できません」
「疲労で記憶が混乱した可能性は」
「あります」
田所は認めた。「それでも、命令書が存在しないことは確認できます」
片山は書記に記録させた。
「耀盌を見せてもらう」
窯場の空気が固くなった。
王仁三郎は拒まなかった。布を解き、ひびの入った黒い盌を机へ置く。片山は手袋をせずに持ち上げ、表と底を調べた。
「これで地震を見たのか」
「水面に、海と瓦が映りました」律が答える。
「次の地震は」
「分かりません」
「空襲は」
「見ようとしたことがありません」
「見れば分かるのか」
「分かるとは言えません」
片山は盌を机へ戻した。
「上は、使える情報なら報告しろと言うだろう。次にどこが攻撃されるか、輸送路のどこが切れるか。君が本当に先を見られるなら、個人で抱える話ではない」
律は片山の影をもう一度見た。正常だ。
だからこそ、返事に迷った。
無面に言わされているのではない。戦争の中で、人を守る仕事をしてきた者が、自分の判断で耀盌を使おうとしている。
「見えた枝を報告したら、外れた枝はどうなります」
「外れたなら訂正する」
「報告を受けて兵や物資を動かせば、その時点で未来は変わります。外れたのか、動かしたから避けたのか、区別できません」
「それでも、何もしないよりましな場合がある」
「あります」
片山は少し驚いたようだった。全面的に拒絶されると思っていたらしい。
律は続けた。「だから、耀盌だけ渡すことはできません。見た条件、見えなかった部分、誰が判断したか。全部残せる場所でなければ使わない」
「君が条件を決めるのか」
「使う人と、影響を受ける人で決めます」
「空襲の前に町中へ同意を聞く気か」
「間に合わないなら、見ない方がよい場合もあります」
片山の顔が険しくなった。
そのとき、屋根の上で音がした。
小さな余震だった。
土壁の粉が落ち、修理途中の梁がずれた。役場の書記が立ち上がり、出口へ走ろうとする。律の目には二つの像が重なった。書記がそのまま戸口へ出て、外れた瓦を頭に受ける像。机の下へ入った直後、梁が落ちる像。
どちらも起きていない。
「止まって!」
律は叫び、すぐに言い直した。
「戸口の瓦が動いています。右の畑側から出てください。梁は佐和さんが見て!」
佐和は上を見た。「こっちはまだ持つ。机から離れて、壁際へ!」
片山は書記の腕をつかみ、畑側の窓から外へ出した。全員が離れたあと、戸口の瓦が二枚落ちた。梁は落ちなかった。
揺れが収まり、片山は瓦を見た。
「今のも、盌で見たのか」
「いいえ。瓦がずれたのは目で見ました。梁が落ちる方は、起きていません」
「起きないと分かっていた?」
「分かりません。だから佐和さんに確かめてもらいました」
片山はしばらく黙っていた。
取調べを再開する前に、若い書記が鞄から一枚の調書を出した。
「巡査部長。これ、すでに綴じられています」
日付は昨日。作成者は片山。被聴取人は水城律。
内容には、律が地震を予知したと認め、今後すべての予見を警察へ報告し、耀盌を任意提出することに同意したとある。末尾には、水城律の署名まであった。
律は自分の名を筆で書けない。
片山の顔色が変わる。
「私は、昨日ここへ来ていない」
「俺も調書を受けていません」
「だが、この印は本物だ」
片山は腰の印入れを確かめた。封は切られていない。同行した書記も、印が使われた記録はないと言う。
調書の紙から、緑の線が一本伸びた。
律だけでなく、佐和にも見えたらしい。彼女が息を呑む。
片山には見えていない。
それでも彼は、調書を破らなかった。机へ平らに置き、書記へ命じた。
「この紙と、今日の記録を別々に封じる。私の上役へ渡す前に、役場と寺で写しを取れ。水城君にも一部持たせる」
「信じるんですか」律が聞く。
「君を信じたわけではない」
片山は答えた。「私が押していない印を、私の同意として使われるのが気に入らん」
事情聴取は終わらなかった。
耀盌の提出も保留になっただけだ。
帰り際、片山は翌日、府の担当者が来る可能性を告げた。
「次は私ほど話を聞かんかもしれない。器を隠せば、逃亡と見なされる」
「隠さなければ、持っていかれます」
「その可能性はある」
片山は否定しなかった。
門を出る前に一度振り返る。
「今夜のうちに、君たちの条件を書け。予言ではなく、器を使う手順としてだ。私は読んだ記録を残す」
律はひびの入った耀盌を見た。
器の中では、見えない銀片が冷たく光っていた。




