第二十五話 ひび割れた目
耀盌のひびは、翌朝さらに伸びていた。
西倉庫から戻った夜には、釉の表面を横切る一本だけだった。それが今は底へ回り込み、内側で三つに枝分かれしている。水を入れても漏れない。指でなぞれば、傷の奥から冷たい風が吹くような感触があった。
佐和は盌を明るい場所へ持っていき、裏返した。
「焼き直せへんの」
「普通のひびなら、漆で継ぐことはできる」
王仁三郎が答える。「だが、これは土が割れたのではないらしい」
底の高台は無傷だった。ひびは釉の下へ潜り、土を避けて銀色の線だけを残している。まるで器の内側に、別の薄い器が重なっているようだった。
律は触れなかった。
名を奪われかけてから、耀盌で自分の過去を確かめたい気持ちは弱くなった。代わりに気になっているのは、西倉庫で六つの椀へ白い道が映ったことだった。
普通の茶碗には天目がない。それでも一人につき次の一歩だけなら、未来の枝を分けられた。
「もう一度、試したいです」
佐和の眉が上がる。
「割れたばっかりやで」
「だから、何が割れたのか確かめます」
「何人巻き込む気」
「最初は俺一人で」
「却下」
即答だった。
王仁三郎も佐和に賛成した。一人で使えば、律が倒れたとき何が起きたか分からない。そこで窯場の作業を止めずにできる、小さな試験を考えた。
地震で壊れた棚や板を使い、畑に短い道を作る。曲がり角は二つ。足元には土の塊と空の木箱を置く。目隠しをした者が入口に立ち、耀盌とつないだ普通の椀へ水を張る。水面に道が出ても、進むかどうかは本人が決める。
参加したのは政一だった。
「俺、こういうの得意です」
「一度もやったことないやろ」佐和が言う。
「初めてだから、得意かもしれないです」
少年の理屈に、夜番の老人が笑った。
律は試験前に、見える可能性のあるものを説明した。足元の道。転ぶ姿。まだ起きていない声。関係のない記憶が混じる危険。気分が悪くなれば、すぐ目隠しを外してよい。
「誰かの裸とか見えます?」
「見えたことはない」
「絶対?」
「絶対とは言えない」
政一はしばらく悩んだ末、見えても黙っているという条件で同意した。
普通の椀を三つ用意した。いずれも地震で縁が欠け、売り物にならないものだ。入口、曲がり角、出口に一つずつ置く。耀盌は道から離れた作業台に置き、律が指を添えた。
水面に白い線が出る。
入口の椀には右へ半歩。政一が半歩進むと、線は消えた。次の椀には、しゃがむ姿が映る。少年は従わず、立ったまま進んだ。
板の端へ額をぶつけた。
「痛っ!」
「見えたのに、なんでしゃがまへんの」
「本当にぶつかるか、確かめたくて」
佐和は呆れ、律は帳面へ〈観測者は予見に従わない選択も可能〉と書いた。その横へ〈ただし政一は試験後にたんこぶ〉と付け足す。
二度目は夜番が参加した。
老人は白い線を一度見ただけで、「面倒だ」と目隠しを外した。それから自分の目で木箱を避け、出口まで歩いた。
「盌はいらんかったな」
これも結果だった。
三度目は佐和が道を変え、律には配置を知らせなかった。政一のときと同じ白線が出たが、その先には木箱が置かれている。律が驚いて指を離すと、線は緑へ変わり、箱を突き抜けた。
「罠やな」
佐和は進まなかった。
西倉庫で無面が残した道が、耀盌の中に混じっている。白い線だから安全とは限らない。未来像の色や形を合図に使えば、相手も同じ合図を真似できる。
「なら、何を見ればいいんです」政一が聞く。
律は答えを探した。
「道だけではなく、今ある物も一緒に確かめる。椀に右と出ても、右に箱が見えるなら止まる。見えたものを、目の代わりにしない」
「目隠しの試験で言うことちゃうな」
佐和が木箱をどかした。
午後には、規則が五つに増えた。
耀盌を見る者は、自分で同意する。遠い未来や他人の私事は見ようとしない。映すのは次の動作まで。現実の障害物を別の人が確認する。見えた道に従わなくても責めない。
規則を決めたあと、道の配置を十二回変えた。
律は作業台から動かず、佐和と夜番が交代で木箱や板を置く。参加者も政一だけではなく、工員三人が順番に入った。白い線が実際に歩ける方向と合ったのは七回。何も映らなかったのが三回。残る二回は、障害物のある方へ線が伸びた。
二回とも緑ではなかった。
無面の偽道は、もう白い線まで真似ている。
「七回も当たるなら、使えるやろ」
安達が言った。
「十二回のうち二回、箱へぶつかります」律は答えた。
「戦なら、七回当たるだけでも大したものだ」
「残りの人は、外れた二回に入るかもしれません」
「何も知らずに十二回ぶつかるよりましだ」
安達の考えも、間違いとは言い切れなかった。律が黙ると、王仁三郎が試験の紙を二つに分けた。片方には映った線、もう片方には実際の障害物と参加者の選択を記す。一枚だけ読めば七回の成功に見える。二枚を並べれば、三回の沈黙と二回の誤りも残る。
「使う者は、当たった数だけ持って行きたがる」
老人は安達を責めずに言った。「外れた紙を持つ者も要る」
佐和は別の問題を出した。
「次の一歩だけ言うても、その人がどこへ行こうとしてるかは見えるんやろ。厠へ行く途中かもしれへんし、誰にも会いたない時かもしれへん」
政一が急に真面目な顔になった。
「裸より、そっちの方が嫌かも」
耀盌を見る前に、目的まで話す必要はないことにした。参加者は「この道を通りたい」とだけ伝える。観測する側は、理由を尋ねない。水面に関係のない像が出た場合、内容を帳面へ写さず、像が混入した事実だけを記す。
「忘れられますか」工員の一人が聞いた。
「見たものを完全には忘れられません」
律は正直に答えた。「だから、見られたくない人は使わないでください」
便利になるほど参加者が増えると思っていた安達は、規則の多さに顔をしかめた。だが試験へ参加した工員の一人は、もう使いたくないと言った。律たちは理由を聞かず、その名を次の参加表から外した。
安達は、それでは神託にならないと言った。
佐和は「せやからええんや」と返した。
試験を終えて水を捨てると、耀盌の底から小さな銀片が浮いた。
釉の欠片ではない。薄い輪の一部に見える。指先ほどの大きさしかなく、縁には肉眼で読めない刻みが並んでいる。律が近づくと、右目の奥が熱を持った。
銀片の周りへ、応永の暦が一瞬だけ映る。
賀茂静が紙を折っている。白い狐が見守り、暦の余白に何かを隠す。少女は顔を上げ、律のいる方を見た。
〈全部を見るな〉
声は聞こえなかった。それでも唇の動きだけは読めた。
律が手を伸ばす前に、銀片は水の消えた盌底へ沈んだ。釉と土の間へ入り、見えなくなる。
白銀のひびも、一本だけ閉じた。
王仁三郎はしばらく盌を見ていた。
「器の中に、器ではないものがある」
「取り出せますか」
「取り出すべきか、先に決めた方がよい」
その夜、町役場から通知が届いた。
地震を予告したとの風聞、生存者名簿の改変、窯場で行われている集団占視について、翌朝、警察と役場が事情を確認する。
通知書は本物だった。
少なくとも役場の受付番号と印は、田所が確認した。




