第二十三話 自分の名を忘れる
寺から戻る途中、律は自分の名を書けなくなった。
忘れたわけではない。
水城律。
頭の中では読める。声にも出せる。ところが帳面へ筆を下ろすと、水の一画目がどちらへ曲がるのか分からなくなる。無理に書けば、見たことのない字になった。
佐和は道端で立ち止まり、帳面を取り上げた。
「手、怪我した?」
「していません」
「ほな、うちの名前を書いて」
律は佐和と書いた。いつもより歪んだが、読める。
「先生は」
出口王仁三郎。これも書けた。
自分の名だけが、紙の上で形を失う。
佐和は笑わなかった。律の代わりに〈水城律〉と書き、その横へ時刻を記した。
「今から、できんようになったことも書くで」
「いちいち?」
「あんた、昨日は自分でそうしてたやろ」
窯場へ着くと、別の異変が待っていた。
配給を受け取るための仮名簿から、水城律の欄が消えている。墨で塗り潰した痕も、紙を切った跡もない。最初からそんな名はなかったように、前後の行が詰まっていた。
窯場の作業帳には、もっと奇妙な空白があった。
窯の温度計を修理した日。釉薬の記録を写した日。偽の移送命令を調べた日。仕事の内容は残っているのに、担当者の欄だけ白い。
夜番の老人は帳面をのぞき込み、首をひねった。
「誰が書いたんだったか」
「俺です」
律が答えると、老人はしばらく彼の顔を見た。
「おまえ、いつからここにいた?」
その問いに、周囲の者も黙った。
政一は地震の前からいたと言う。別の工員は、地震の朝に初めて見た気がすると言う。夜番は一か月前からだと思うが、紹介した者の顔が思い出せない。誰も律を知らないとは言わない。だが知っている範囲が、少しずつ違っていた。
律自身も、亀岡へ来た日のことを思い出せなかった。
駅を降りた。雪はなかった。土の匂いがした。誰かに窯場への道を聞いた。
そこから先がない。
誰が紹介状を書いたのか。最初に王仁三郎と何を話したのか。泊まった部屋はどこだったのか。記憶へ手を伸ばすと、白い紙のような空間が広がる。
「耀盌を使います」
律が棚へ向かうと、王仁三郎が前へ立った。
「何を見る」
「過去です。俺がここへ来た日を」
「あの盌は過去を正しく見せると、確かめたか」
「前世らしい像は出ました」
「らしい、だ」
「このままでは、自分が誰かも証明できません」
王仁三郎は退かなかった。
「証明したい相手は誰だ」
「皆です」
「皆が同じ記憶を持てば、正しいのか」
律は答えられない。
西倉庫で、九人はそれぞれ違う死者の声を聞き、同じ場所へ集められた。生存者名簿では、本人が書いた家族名がそのまま呼び道になった。耀盌に自分の過去を求めれば、無面が用意した過去を見せられるかもしれない。
佐和が作業台へ三枚の紙を置いた。
一枚は彼女の字。地震の日、律が西倉庫へ行ったこと。
一枚は政一の字。窯の裏から自分を救い出した三人の中に、律がいたこと。
最後は夜番の拇印付きで、偽命令書を運んだ御者の特徴と、律が帳面を掲げたことが書かれている。
「来た日が分からんでも、ここにおった日はある」
佐和は言った。「あんた一人の記憶やない。うちらが別々に持ってる」
「皆の記憶も変わり始めています」
「せやから、今覚えてる範囲を今書く。分からんところは分からんままにする」
工員たちは、自分が律と一緒にした仕事を一つずつ書いた。話を合わせないよう、別の部屋で書く。あとから紙を並べると、日付が違うものも、順番が逆のものもあった。
一致したことだけを残す。
律は窯の温度計を直した。偽手紙を紙屋で調べた。地震の日、西倉庫から九人を連れ戻した。耀盌を持っている。未来を見ると、現実にない声を聞くことがある。
生まれた場所も、本名かどうかも、誰も確かめられない。
「水城律って名前自体、偽物かもしれません」
政一が不安そうに言った。
「そうかもしれない」
律は答えた。
口にすると、思ったほど怖くなかった。元から公式の記録では仮の身分だ。名が偽物でも、政一を助けた日まで消えるわけではない。
午後、佐和と二人で駅へ行った。
亀岡へ着いた日が分かれば、切符の記録や駅員の記憶が残っているかもしれない。戦時中の小さな駅で、旅客一人ずつの名を控えているはずはなかったが、不審な若者が大きな荷を持って歩いていれば、誰かが覚えている可能性はある。
駅員は律の顔を見て、首を傾げた。
「見たことはある。窯場から使いに来た人だろう」
「初めて来た日は覚えていますか」
「さあ。春だったか、秋だったか」
律が来たのは冬だ。
貨物台帳には窯場宛ての陶土と薪が記されていた。その余白に、王仁三郎の助手が荷を受け取ったという短い書き込みがある。署名だけが水で濡れたように滲み、読めなかった。紙は乾いている。前後の文字も無事だった。
佐和が滲みへ指を近づける。
「緑の線、見える?」
「今は見えません」
「見えへんかったら、安全?」
「分かりません」
駅員が二人の会話を不審そうに聞いている。律は台帳を持ち出さず、頁と行だけを自分の帳面へ記した。佐和にも同じ内容を別紙へ書いてもらう。
次に、律が最初の数日泊まったと思われる木賃宿を訪ねた。
女将は彼の顔を知っていた。しかし泊めた覚えはないと言う。二階の端部屋へ案内されると、壁の釘に古い手拭いが掛かっていた。律の荷物にあるものと同じ柄だった。畳の隙間からは、彼が使っている筆と同じ太さの竹軸が出てきた。
「誰の部屋でした」
「空いてたよ。ずっと」
女将はそう答え、直後に顔を曇らせた。
「いや、若い人がいたような……あんたじゃなくて、もっと背の低い」
佐和が律の袖を引いた。
これ以上尋ねれば、女将は答えを作る。無面がいなくても、人は空白を前にすると、何かで埋めたくなる。
帰り道、律は自分の懐を全部調べた。
小銭。折れた鉛筆。窯場の鍵。出所の分からない切符が一枚。切符には日付も駅名もなく、鋏を入れた穴だけが残っている。自分が来た証拠のようで、どこから来た証拠にもならなかった。
「怖い?」
佐和が聞いた。
「はい」
「何が一番」
「忘れることより、空いたところへ都合のいい話を入れてしまうことが」
「ほな、今日は入れんと帰ろ」
佐和は切符を律へ返さず、自分の財布へ入れた。律が明日その存在を忘れても、一人分の記憶だけで消えないようにするためだった。
その夜、配給所から使いが来た。
水城律を名乗る者が東の寺に現れ、消えた名簿を復元しているという。役場の田所も、その人物こそ数日前に自分と話した律だと証言しているらしい。
「どんな顔です」
律が聞くと、使いの男は目の前の彼を見た。
「あなたと同じだ」
窯場の者が一斉に黙った。
王仁三郎は耀盌を布で包み、棚から下ろした。
「持って行くんですか」
「置いていけば、留守の者が困る」
「俺が偽物なら?」
「ならば、本物を見に行くまでだ」
佐和が火箸を腰へ差し、政一も後ろについてきた。律は止めようとしたが、二人とも聞かなかった。
東の寺は、地震後の炊き出しで人が多い。
本堂前の机に、もう一人の水城律が座っていた。
同じ外套。同じ髪。同じ顔。右手には墨が付き、律が書けなくなった〈水城律〉の四文字を、迷いなく名簿へ記している。
相手が顔を上げた。
「遅かったな」
声まで同じだった。
「偽物は、もうここに居場所がない」




