第二十二話 生存者名簿
地震から五日後、東の寺に生存者名簿が置かれた。
家を失った者、家族を捜す者、別の避難先へ移った者。それぞれの名と居場所を書き、行き違いを減らすための帳面だった。寺の僧と町役場の書記が一人ずつ座り、訪ねてきた者の話を聞いている。
律も必要なものだと思った。
窯場で使った点検帳と同じく、情報が分かれているより、一か所で確かめられる方がよい。少なくとも最初は、そう考えた。
昼前、息子を待つ老婆が寺へ来た。
「倉庫で声を聞いたことも書くのかい」
「それは別に記録します」
律は答えた。「ここには今いる場所を書いてください。息子さんは、帰還の知らせが確認できるまで消息不明です」
「死んだとは書かない?」
「確認していませんから」
老婆は安心したような、困ったような顔をした。消息不明という言葉は、望みを残す。残しすぎることもある。律には、どちらが優しいのか分からなかった。
午後、役場から田所と名乗る男が来た。
丸眼鏡を掛けた小柄な書記で、寺に置かれた帳面では形式が揃わないと言い、印刷された用紙を何十枚も机へ並べた。氏名、年齢、住所、家族、負傷の有無、現在地。欄は細かく分かれ、書きやすい。
「軍の家族照会にも使う。漏れなく書いてもらいたい」
僧は助かると言った。避難者も列を作った。
律は用紙を一枚取り、紙質を確かめた。役場で使うものと似ている。印もある。田所の説明にも不自然な点はなかった。
それでも、首筋が痺れた。
天目ではない。
耀盌は窯場に置いてきた。見えたのは、用紙へ名を書いた女の影から、細い緑の糸が伸びる瞬間だった。
「書くのを止めてください」
律が言うと、田所は眼鏡越しに彼を見た。
「理由は」
「確認します。役場から誰が来ると聞いていたか、寺の方に」
「今は非常時だ。手続きが前後することはある」
「だから確認します」
列の者たちがざわめいた。
地震の直後から、律たちが妙な紙を調べていることは知られている。神通力で偽物を見抜く少年だと話す者もいる。田所はその噂を利用するように、穏やかな声を出した。
「君の心配は分かる。しかし名簿がなければ、配給も家族照会も遅れる。未来を見る人には不要でも、普通の者には役所の記録が要る」
律は言葉に詰まった。
名簿そのものを否定したいわけではない。配給にも捜索にも必要だ。ここで全部止めれば、本当に困る人が出る。
佐和なら、見えたことと分かることを分けろと言う。
「田所さんの身分と、用紙の出所を確認するまで、家族欄は空けてください」
律は列へ向き直った。「今いる人の名と、今夜いる場所だけ書く。行方不明の家族は、本人の名簿と分けます」
「勝手に形式を変えるな」
田所の声が低くなった。
用紙の文字が、かすかに動いた。
〈家族〉の欄から緑の糸が伸び、書いた者の影へ入る。誰かが母の名を書く。糸がもう一本増える。出征中の息子を書く。遠くへ向かう線が生まれる。亡くなった夫の名まで書けば、倉庫で聞いた声と同じものが紙の裏へ貼りついた。
この名簿は、人を捜すための道であると同時に、無面が声を届けるための道になる。
「家族欄を閉じてください!」
律が用紙を伏せる。
その瞬間、寺の本堂から子供の泣き声がした。
「お父ちゃんが井戸にいる!」
八歳ほどの男児が裸足で飛び出し、境内の外へ走る。父親の名は、たった今、母親が家族欄へ書いたばかりだった。
佐和が門前で捕まえた。
「井戸のどこや」
「下から呼んでる!」
「お父ちゃん、井戸掘りなん?」
「違う。兵隊」
佐和は子供を抱きしめた。男児は暴れ、井戸へ行くと叫び続ける。
寺のあちこちで、別の声が始まった。
母を呼ぶ女。家の下に祖父がいると言う老人。西の畑に夫が立っていると外へ出る者。名簿に書かれた家族の数だけ、緑の糸が本堂から伸びていく。
律は田所を見た。
男は怯えていた。
演技には見えない。自分の持ってきた用紙に何が起きているのか、本当に知らない顔だった。
「誰から、この紙を受け取りました」
「役場の、庶務の者だ」
「名前は」
「知っている顔だった。毎日見る……」
田所はそこで黙った。
毎日見るのに、名が出ない。
律は用紙を破ろうとした。だが紙には、すでに何十人もの名がある。破れば糸が切れるのか、名前だけが別の場所へ残るのか分からない。地震後の居場所を記した本当の情報まで失われる。
「燃やしたらあかんの」
佐和が子供を僧へ預けながら聞く。
「分かりません」
「ほな、分ける?」
律は彼女を見た。
佐和は窯場から持ってきた小さな素焼き札を見せた。避難先を示すため、家ごとに配ろうとしていたものだ。
「紙一枚に、皆の家族を集めたから声が通るんやろ。名前を家へ返したらどうや」
確証はない。
だが西倉庫では、一人ずつ影の輪から離れたとき、声が弱まった。
律は名簿を机へ固定し、勝手に持ち去られないよう僧に見張りを頼んだ。それから本人か同居家族の同意を取り、一家族ずつ自分たちの欄を別紙へ写した。元の欄には居場所を示す番号だけ残し、家族の名は墨で塗る。写した紙は二つ折りにして本人へ返し、素焼き札には避難先と照合番号だけを刻んだ。
時間が掛かった。
声に耐えられず、今すぐ名を消してくれと泣く者もいた。配給が止まるのを恐れ、何も変えたくない者もいた。律は全員へ同じ方法を強制できなかった。消したい者は消し、残したい者の欄には濡れ布を被せ、緑の糸が弱まるか観察した。
夕方までに、家族名の大半が中央の用紙から離れた。
本堂を満たしていた声は、少しずつ遠のいた。
素焼き札も一人へ預けきりにはしなかった。家に一枚、寺に同じ番号を一枚置き、町役場には番号と人数だけを伝える。誰がどこにいるか知りたい場合は、寺と家の両方で確かめる。手間は増えたが、名簿一冊を奪われても、全員の家族へ一度に声を送る道は作れない。
炭屋の主人は自分の札を見て、「商売の付け札みたいだ」と苦笑した。老婆は息子の名を書いた紙を懐へ入れ、今度は誰にも渡さなかった。
寺の机には、名前のない人数だけが残った。
田所は最後まで手伝った。自分が運んだ用紙で子供が井戸へ走ったことに、顔を上げられないでいる。
「私は、役所の仕事をしただけだ」
誰に向けたでもなく呟いた。
「そうです」律は答えた。「だから、誰が渡したかを役所で確かめてください。あなた一人のせいにしたら、渡した者が残ります」
日が暮れる前、本物の役場職員が寺へ来た。
田所の所属は確認できた。だが生存者名簿の用紙を持ち出す命令は出ていない。彼に紙を渡したという庶務係は、三日前から負傷して自宅にいるという。
田所は唇を震わせた。
「では、あれは誰だった」
律は答えなかった。
片付けの最中、未使用の用紙が一枚見つかった。
氏名欄には、すでに文字が印刷されていた。
水城律。
年齢も住所も空白のまま、現在地の欄に〈亀岡・佐々木窯〉とある。そして生存、負傷、死亡と並んだ選択肢の下で、〈行方不明〉だけに黒い丸が付いていた。
日付欄は空いている。
紙の裏には、細い字で一行だけ書かれていた。
〈次は、おまえが自分の名を忘れる〉




