第二十一話 海から来た返事
西倉庫を離れても、地面は何度も揺れた。
大きな揺れではない。足を止めていれば、かすかに上下していると分かる程度だった。それでも瓦の外れた屋根や傾いた塀には十分だった。道のどこかで何かが崩れるたび、九人のうち誰かがしゃがみ込んだ。
律は最後尾を歩いた。
耀盌を布で包み、胸へ抱えている。釉に入った白銀のひびは、布の上からでも冷たさが分かった。耳にはまだ声が残っていた。倉庫で聞いた亡者の呼び声。白い狐の爪音。知らない少女が自分を呼ぶ声。
佐和が振り返る。
「今、何が聞こえる」
「瓦が落ちました」
「どこで」
律は周囲を見る。誰も足を止めていない。近くの家も崩れていない。
「分かりません」
「ほな、聞こえたことにしとき。起きたことにはするな」
律は帳面を出そうとしたが、指が震えてうまく開けなかった。佐和が取り上げ、代わりに書く。
〈西倉庫からの帰路。律、瓦の音を聞く。場所と事実は未確認〉
「これでええか」
「俺の名前まで必要ですか」
「誰が聞いたか分からん記録、あんたが一番嫌いやろ」
正しかった。
窯場へ戻ると、畑には負傷者が増えていた。町医者の建物が傷み、診察を続けられなくなったため、比較的空いた場所へ人が運ばれてきたのだ。王仁三郎は額へ布を巻き、戸板を並べて寝床を作っていた。
律の顔を見るなり、老人は耀盌ではなく、連れて帰った人数を数えた。
「九人、全員です」
「怪我は」
「腕の傷が一人。ほかは歩けます」
「倉庫に残った者は」
「いません」
そこでようやく王仁三郎は布包みを受け取り、ひびを確かめた。
「割れたのか」
「まだ使えます」
「器の話ではない。君の方だ」
律は答えようとして、その場に座り込んだ。
眠ったのか、気を失ったのか、自分でも分からない。目を閉じると、地震の前と後が混ざった。崩れる前の倉庫に人が入り、崩れた後の窯場で佐和が茶を淹れる。白い狐が焼け残った門をくぐり、その後ろで、顔の見えない少女が暦を折っていた。
目を覚ますと夜だった。
窯場の屋根は一部が落ち、星が見える。誰かが掛けた外套の上に、土埃が薄く積もっていた。隣には政一が座り、灯火を守っている。
「何時間寝た」
「四時間くらいです」
「揺れは」
「二回。小さいのが」
「火は」
「消しました。窯の中は、たぶん全部駄目です」
政一は最後の一言だけ小さく言った。
律は起き上がり、窯を見た。火口の瓦を外し、温度を落としたため、焼成途中の器は割れているだろう。王仁三郎が何か月も掛けた耀盌も混じっている。
それでも火事にはならなかった。
「政一」
「はい」
「昼、助けを呼んだか」
少年は首を傾げた。「呼びました。咳もした」
「右から?」
「窯の裏です」
律は帳面へ記した。右から聞こえた声は現実。左と背後は回声。こうして一つずつ分けなければ、次に誰かが呼んでも足が動かなくなる。
翌朝から、被害の確認が始まった。
窯場の者が準備した紙は、助かった理由を数えるためのものではなかった。それでも結果は残った。水甕を分けた家では、片方が割れても消火用の水が残った。寝床の棚を移した老婆は、落ちた箱で足を擦っただけだった。染物屋に集まった子供たちは、川沿いの石垣が崩れた道を通らずに済んだ。
間に合わなかった家もある。
東の寺へ続く道で石塀が倒れ、一人が肩を折った。古い長屋では戸口が塞がり、救出まで半日掛かった。町外れの小屋は屋根ごと落ち、住んでいた老人は助からなかった。
安達は死者の名を聞くたび、配った紙を握りしめた。
「もっと強く言っていれば」
律は返事をしなかった。
もっと強く言えば助かったのかもしれない。逆に一か所へ集め、被害を増やしたかもしれない。耀盌を見ても、起きなかった方の答えは確かめられない。
避難所では、律を見るたび次の揺れを尋ねる者が増えた。今夜は寺にいてよいか。家へ布団を取りに戻ってよいか。井戸水を飲んでよいか。律が「分からない」と答えると、隠しているのだと怒る者までいた。
彼は耀盌を使わず、寺の僧や大工と一緒に建物を歩いた。柱に新しい亀裂がある部屋は使わない。井戸は濁りと臭いを確かめる。家へ戻る者は二人で行き、余震が来たら荷物を捨てる。それでも安全とは言い切らなかった。
「未来が見えるのに、何も決めてくれないのか」
そう責めた男も、翌朝には他の避難者と一緒に石灯籠の周りへ縄を張っていた。納得したのかは分からない。律も尋ねなかった。
答えより先に、手を動かせることもあった。
その程度の備えなら、予言を信じない者にもできる。律はそう書き残した。
三日後、海から返事が来た。
封筒ではない。陶土を包んでいた粗い紙の裏に、炭で走り書きされていた。伊勢方面へ向かった荷車の商人が、帰路を断たれ、途中の村から人づてに送ったものだった。
〈手紙、浜の灰屋へ渡した。強く揺れたのち、灰屋の者は山手へ移った。蔵と舟は流された。人は七人おり、六人無事。一人は荷を見に戻り、まだ見つからず〉
律は二度読んだ。
助かった六人より、最後の一人から目を離せなかった。
佐和が紙を横から読む。
「手紙は届いたんやな」
「全員は止められなかった」
「あんたが浜におっても、止められたか分からん」
「でも、戻るなと書いた」
「書いたから、戻った人があんたのせいになるん?」
律は答えられなかった。
王仁三郎は粗紙を囲炉裏のそばへ置き、湿りを乾かした。
「この返事は、成功の証にせん方がよい」
安達が顔を上げる。「六人助かったのにですか」
「手紙だけで助かったのではない。荷車を走らせた者がいる。読んで、山へ移ると決めた者がいる。子を連れた者も、老人を支えた者もいたはずだ」
「では、先生の名は出さない?」
「出して何になる」
王仁三郎は笑わなかった。「次の災いで、私の手紙が来るまで動けぬ者を増やすだけだ」
安達は納得していない顔だった。それでも返事を勝手に写さないと約束した。
律は粗紙の内容を帳面へ移し、最後の一人を〈死亡〉とは書かなかった。〈消息未確認〉とした。海を見た者が戻るまで、勝手に結末を決めたくなかった。
夜、ひびの入った耀盌へ水を張った。
佐和に止められる前に、王仁三郎も同席させた。一人で見ないという約束を守るためだった。
水は白銀のひびで二つに分かれた。
片方には、瓦礫の町と海から離れる人々が映った。もう片方には、応永と書かれた古い暦が沈んでいる。暦の上へ白い狐が乗り、尾で一つの名を隠していた。
律が目を凝らすと、狐は尾を上げた。
賀茂静。
その三文字を見た瞬間、律の胸に、自分のものではない痛みが走った。兄を失う恐怖。無罪を残しても誰にも読まれない焦り。焼けた門の匂い。
水を捨てる。
像は消えたが、名だけが頭に残った。
「先生」
「うむ」
「俺は、この人を知っているんでしょうか」
王仁三郎はすぐに答えなかった。
「知っていると感じたことと、知っていることは別だ。君がいつも人に言っている」
律は濡れた耀盌を拭いた。
白銀のひびは、少し広がっていた。
ひびの奥で、狐の目と同じ色の光が一度だけ瞬いた。




