第二十話 西倉庫の声
「中へ入った人はいますか!」
佐和の声に、九人は振り向かなかった。
倉庫の梁が軋んでいる。余震が来なくても崩れるかもしれない。律は一人ずつ名を呼んだ。安達から聞いた炭屋の主人。息子を待つ老婆。腕を怪我した女。知っている名には反応があったが、返事はどれも遅い。
「もうすぐ出てくる」
炭屋の主人が呟いた。「弟が帳場の奥にいる」
「弟さんは、いつから倉庫に?」
「今朝からだ」
「この倉庫は先月から閉まっています」
「でも、声がする」
たしかに声はした。
律にも聞こえる。崩れた屋根の下から、幾人もの声が名前を呼んでいた。助けてくれ。ここにいる。暗い。早く来い。声は互いに重ならず、聞く者ごとに一番会いたい相手の調子で届く。
そして律には、自分の名を呼ぶ女の声が聞こえた。
知らないはずの声だった。
それなのに、胸の奥が痛んだ。秋の京都。折れた暦。白い狐。焼け残った門。自分の記憶ではない光景が一度に押し寄せる。
「静」
口から名がこぼれた。
佐和が律の頬を叩いた。
「誰や、それ」
痛みで景色が戻る。
「分かりません」
「分からん人について行ったらあかん」
「子供に言うみたいに」
「今のあんたは子供より危ない」
言い返せなかった。
律は耀盌を地面へ置いた。布を解くと、曜黒の釉に空が映る。釉の瞳は開いていたが、水を張っていないため未来像は現れない。そのかわり、倉庫から伸びる緑の線だけが、黒い面へくっきり映った。
線は九人へ向かっているのではない。
足元の紙から人の影へ入り、影を通って倉庫へ戻っている。九人が声を聞くたび、倉庫内の何かが輪郭を得ていた。
「紙から離れてください!」
律が叫ぶ。
誰も動かない。
佐和は一番近い偽紙へ濡れ布を被せた。緑の光が弱まり、腕を怪我した女が大きく息を吸う。だが布の下から細い糸が伸び、佐和の手首へ巻きついた。
「お母ちゃん」
佐和の顔から血の気が引いた。
律は彼女の母を知らない。生きているのか、亡くなっているのかも聞いたことがない。佐和は倉庫へ一歩進み、次の一歩で止まった。
「うちの母は、そんな上品な呼び方せえへん」
彼女は歯を食いしばり、濡れ布ごと紙を踏んだ。
緑の糸が切れた。
「声が似てるだけや。腹立つほど、似てるだけや」
声が本物でないと分かっても、涙は止まらない。佐和は袖で顔を拭き、残る紙を睨んだ。
「一枚ずつやるで」
「九枚あります。触れるたび声が移る」
「ほな、触らん方法を考え」
倉庫脇には、避難点検で運んだ小さな水桶が二つ残っていた。誰かが事前に置いたものではない。近所の家から火消しのために運ばれ、そのままになっている。律は桶の水を見て、耀盌を見た。
王仁三郎の言葉を思い出す。
見るためだけに持つのではない。
律は空になった茶碗や飯椀を集めるよう、意識の戻った三人へ頼んだ。炭屋の主人はまだ弟の声を聞いていたが、佐和が店の名と今朝会った時刻を繰り返すと、ようやく近所の家へ走った。
欠けた椀が六つ集まった。
どれも耀盌ではない。名もない日用品だ。律はそれらを倉庫前へ半円に並べ、桶の水を少しずつ注いだ。中央に耀盌を置く。
「何をするん」
「分かりません」
「またそれか」
「でも、盌一つで九人を見るよりましです」
耀盌を通して遠い未来を読むと、枝は律一人の中へ流れ込む。ならば遠くを見ない。今ここで一人が踏み出す、次の一歩だけを、それぞれの水面へ分ける。
律は釉の縁へ指を置いた。
黒い瞳が開く。
頭蓋の内側へ、叫び声が押し寄せた。九人の過去と、九人が望む未来。帰ってくる息子。生きていた弟。瓦礫の下で待つ子。そこへ、秋の京都で白い狐を追う少女の記憶まで混じる。
律は未来を選ばなかった。
ただ、今立っている地面だけを探した。
崩れた瓦。傾いた柱。紙の位置。東の畑へ抜ける道。佐和の足。自分の呼吸。
「次の一歩だけ」
声に出した。「見える人は、次の一歩だけ見てください。その先を信じなくていい」
六つの椀の水面に、白い線が現れた。
一本は右へ。一本は後ろへ。二本はその場にしゃがむ。残りは互いの方へ伸びた。立っていた人々が、自分の近くにある水面を見る。亡者の顔も、遠い救済も映らない。今いる場所から、緑の紙を踏まずに離れる短い道だけがある。
老婆が最初に動いた。
水面の線に従い、半歩右へ出る。そこで線は消えた。
「もうないよ」
「次は自分で選んでください」律は答えた。「東の畑へ行くか、ここに残るか」
老婆は迷い、佐和の方へ歩いた。
一人が動くと、影のつながりが切れた。倉庫の声が一つ減る。残る者も椀をのぞき、半歩、一歩と紙から離れた。佐和と意識の戻った者が支え、倒れた塀から遠ざける。
七人目が離れたとき、倉庫の奥で何かが怒鳴った。
人の声ではなかった。
梁と梁を擦り合わせ、そこへ無理に言葉を通したような音だった。
「未来を分けるな」
緑の紙が一斉に燃えた。
火は熱くない。だが水面に映っていた白い線が黒く染まり、六つの椀が次々に割れた。破片が跳ね、律の指を切る。耀盌だけは割れず、その底から細い光が立ち上がった。
倉庫の傾いた柱の陰に、人が立っている。
御者の顔だった。
瞬きをすると、紙屋の少年の父になった。次は炭屋の弟。息子を待つ老婆の前では、軍服を着た若者に変わる。
老婆が息を呑んだ。
「母さん」
若者が手を伸ばす。
律は老婆の前へ立った。
「その人が息子さんなら、あなたを何と呼びます」
老婆の目から涙が落ちた。
「おっかあ、と」
目の前の若者は、もう一度「母さん」と呼んだ。
老婆は両手で耳を塞いだ。
無面の顔が崩れた。
皮膚の下に別の顔が何枚も重なり、どれも最後まで形を保てない。緑の目だけが、耀盌を見ている。
「それを渡せ」
「誰の命令です」
「おまえが知れば、従うのか」
「知ってから決めます」
無面は笑った。
倉庫の屋根が大きく沈んだ。
余震が来た。
地面が上下し、残っていた瓦が滑り落ちる。律は耀盌を抱えたまま倒れた。佐和が老婆を引き、炭屋の主人が腕を怪我した女を支える。無面だけは揺れの中で立っていた。足元から伸びた影が、地面ではなく耀盌へ向かっている。
律の手から布包みが滑った。
無面の指が伸びる。
その間へ、白い狐が飛び込んだ。
実体はない。耀盌の釉面から跳ねた一瞬の像だった。狐は無面の手へ噛みつき、緑の影を引き裂いた。律の耳に、知らない少女の声が届く。
〈命令ではなく、問え〉
次の瞬間、狐は消えた。
無面が初めて悲鳴を上げる。右手の輪郭が崩れ、何人もの指が重なって地面へこぼれた。だが倒れない。緑の目を細め、律の顔を覚えるように見つめた。
「二度目も、同じ目を選んだ」
その言葉を残し、無面は崩れた倉庫の暗がりへ退いた。
追う余裕はなかった。
屋根が落ちる。
律たちは畑へ走った。最後の一人が離れた直後、西倉庫の正面が崩れ、偽の避難紙も、緑の影も土煙の中へ消えた。
耀盌は律の腕の中にあった。
割れてはいない。
黒い釉の瞳を横切るように、細い白銀のひびが一本走っていた。




