第十九話 地面が鳴る
昭和十九年十二月七日の午後、最初に割れたのは佐和の湯呑だった。
作業台から落ちたのではない。台そのものが横へ跳ね、縁へ置かれていた湯呑を弾き飛ばした。床へぶつかった器は二つに割れ、まだ熱い茶が律の足袋へ掛かった。
熱いと思うより先に、窯場全体が軋んだ。
梁が鳴る。瓦がずれる。土壁から白い粉が噴き、目の前が曇った。律は作業台につかまったが、台が逃げるように動く。立っていられず膝をついた。
「窯から離れ!」
佐和の声が飛んだ。
若い工員が火口へ走ろうとしていた。焼成中の窯を守ろうとしたのだ。佐和はその襟をつかみ、床へ引き倒した。直後、窯脇へ積まれていた古い瓦が崩れ、火口の前へ落ちた。
数日前まで薪はそこに積まれていた。
移していなければ、瓦だけでは済まなかった。
律は四つ這いで壁際へ進んだ。頭の中では、まだ起きていない崩落がいくつも重なっている。右の梁が落ちる。左の棚が倒れる。背後から火が出る。どれも目の前の光景と同じ鮮明さで迫った。
何を避ければよいのか、分からない。
「律!」
佐和が叫ぶ。「今、どこが崩れた!」
今。
その一語で、律は床を見た。
右の梁はまだある。左の棚は壁へ縄で固定されている。倒れたのは入口近くの土壁だ。夜番の老人が、その向こうで尻もちをついている。
「入口です。夜番さんがいる!」
律と工員二人が這って向かった。土壁は腰ほどの高さまで崩れ、老人の左脚を埋めている。律は土塊へ手を掛けたが、佐和に止められた。
「余震が来る。梁を先に支えるで」
短い角材を斜めに入れ、三人で荷重を受ける。老人は痛みを訴えたが、意識はある。足首の周りから小さな土塊を除き、最後に二人が肩を持って引き出した。
その途中で、二度目の揺れが来た。
最初より短い。だが支えた角材が外れ、律の肩へ梁の重みが落ちた。腕が痺れる。工員が横から押し戻し、佐和が老人を引きずった。四人が離れた直後、入口の庇が崩れた。
外へ出る道は、半分塞がった。
それでも完全には閉じていない。薪を移した場所に、人一人が通れる隙間が残っていた。
窯場の者は、点検のとき決めた順で外へ出た。歩ける者が先に走るのではなく、近くにいる者同士で声を掛ける。外へ出た者は名前を呼び、返事を聞いてから土塀のない畑へ移る。
王仁三郎が最後まで中に残っていた。
老人は棚の下に立ち、布に包まれた耀盌を片手で押さえている。棚は縄で壁へ固定されていたが、上段から器がいくつも落ちた。額に細い傷があり、血が眉まで流れていた。
「先生、盌を捨ててください!」
律が叫ぶ。
「捨てるほど邪魔ではない」
「今それを言いますか!」
王仁三郎は布包みを懐へ入れ、律の肩を借りて外へ出た。
畑から町を見ると、屋根瓦の落ちる音があちこちから続いていた。煙も一本上がっている。空襲警報は鳴っていない。誰も上空を見なかった。人々は地面を見て、家族の名を呼び、開かない戸を叩いている。
佐和は東西に分けていた水甕を確かめた。西側の二つは倒れて割れたが、東側は残っている。工員が桶へ水を汲み、煙の見える家へ運んだ。
「全員いるか!」
夜番の老人が座り込んだまま怒鳴った。
名を数える。
一人足りない。
窯場で働く十六歳の政一がいなかった。さっきまで火口へ走ろうとしていた少年だ。佐和が窯の裏へ戻りかけ、律が止める。
「一人で入らない」
「分かってる。あんたと若いの一人、来て」
三人は庇の隙間から入り直した。中は土埃で暗い。律の耳には、政一が助けを呼ぶ声が三方向から聞こえた。天目の回声が現実へ混じっている。
「返事して!」
佐和が叫ぶ。
右奥から咳が返った。
律には左からも声が聞こえたが、佐和は迷わず右へ進んだ。釉薬棚の下で、政一がうずくまっている。固定した棚は倒れていない。代わりに、落ちた土壁が逃げ道を塞いでいた。少年は両腕で頭を守り、顔に切り傷があるだけだった。
「火を見ないと」
外へ出されながら、政一は言った。「窯が割れたら、全部駄目になる」
佐和は少年の頭を一度だけ叩いた。
「器は焼き直せる。あんたは窯へ入れたら死ぬ」
火口は瓦で塞がれ、空気の流れが弱まっていた。完全に安全ではないが、すぐに炎が噴き出す状態でもない。周囲の燃える物は移してある。今できるのは、人を外へ出して待つことだった。
町の確認へ出た者が戻り始めた。
東の寺では石灯籠が倒れたが、境内は使える。西の畑も無事。川向こうの竹林へ通じる橋は、欄干の一部が落ちて渡れない。染物屋には、東の寺まで行けなかった子供が六人集まっていた。
分けた避難先が、一つずつ人を受け止めていた。
土蔵の戸へ付けた縄も役に立った。揺れで敷居が歪み、中にいた女工二人は内側から戸を開けられなかった。外を通った豆腐屋が縄を見つけ、近所の者と引いて隙間を作ったという。律が話を聞いたとき、二人はもう東の寺に着き、片方は知らない子供へ自分の上着を掛けていた。
助かった理由を、誰も耀盌とは呼ばなかった。ただ、縄があったから開いた。それで十分だった。
だが西倉庫へ向かった者もいた。
安達が息を切らし、偽の紙を握って戻ってきた。
「店の客が三人、揺れた直後に西へ走った。止めたが、家族が待っていると言って聞かん。他の通りからも人が向かっている」
「何人です」
「分からん。十人はいないと思う」
律は炭屋の主人と、息子を待つ老婆の顔を思い出した。
佐和が濡れ布を肩へ掛ける。「行くで」
「余震が来ます」
「来るかもしれん。せやから二人で行く」
王仁三郎も立ち上がった。
「先生は残ってください」律は即座に言った。「額も切れています」
「盌が必要だろう」
「見れば、また現実と混ざります」
「見るためだけに持つのではない」
老人は懐から布包みを出した。「あれは、ここにいる者が未来を信じるための器ではない。見えている声と、聞こえている声を分けるのにも使える」
律は受け取らなかった。
そのとき、畑の端にいた女が突然歩き出した。腕に怪我をしている。家族は東の寺にいるはずなのに、西の道へ向かっている。
「どこへ行くんです」
律が追いつくと、女はぼんやり笑った。
「父が呼んでる。倉庫の下にいるんだって」
彼女の父は三年前に亡くなっていた。
首筋に、緑の線が見えた。
律はようやく布包みを受け取った。
「先生はここで、人の名前を確認してください。知らない顔が来ても、一人で中へ入れないで」
「君も、一人で未来へ入るな」
「佐和さんがいます」
「うち、あんたのお守り役になった覚えないで」
「では、互いに見張りましょう」
佐和は返事の代わりに、律の背中を押した。
西倉庫へ続く道には、瓦と土塊が散らばっていた。二人は塀から離れ、畑を横切った。途中で三人を連れ戻したが、誰も自分が操られているとは思っていない。夫の声を聞いた。子供が待つと言われた。役所の指示だと思った。それぞれ別の理由で、同じ場所へ向かっていた。
倉庫が見えた。
屋根の半分が落ち、柱が一本傾いている。その前に九人が立っていた。
誰も助けを求めていない。
崩れた建物へ向かって静かに耳を澄ませ、瓦の下から聞こえる声を待っている。
九人の足元では、書き足された避難紙が緑に光っていた。




