第十八話 逃げ道に番号をつける
偽の一行が見つかった夜、律たちは配った紙を回収しなかった。
回収すれば、どの家に偽物が入ったか分からなくなる。何より、戸を開け、水を分け、棚を下ろすという中身まで消えてしまう。
代わりに安達の店へ人を集めた。
紙を受け取った者には、持っている一枚をそのまま持参してもらう。来られない家へは二人一組で訪ねた。律は一枚ずつ並べ、紙の裁ち方、墨のにじみ、署名を確かめた。
偽物は七枚あった。
どれにも西倉庫への集合が書き足されている。五枚は同じ筆跡だったが、残る二枚は持ち主本人の字だった。
「私は、書いた覚えがない」
炭屋の主人が自分の筆跡を見て、声を震わせた。「だが、たしかに俺の字だ」
もう一人は、息子を出征させた老婆だった。黒門の茶屋へ手紙を届けようとした、あの人である。彼女は紙を胸へ抱き、何度も首を振った。
「夜中に、息子が帰ってきた気がしたんだよ。倉庫へ行けば会えるって。夢だと思って……起きたら、この字があった」
誰も二人を責められなかった。
無面は偽の紙を作るだけではない。人が自分で書いたと思えるところまで、願いや不安を押してくる。筆跡が本人のものなら、家族は疑わない。律の天目がなければ、ただの書き足しとして扱われただろう。
佐和は七枚を燃やそうとした。
律が止めた。
「残します」
「また誰かが拾うで」
「墨のところだけ切って、釉薬の瓶へ封じます。誰の家に入ったかも、本人の許しを得て記録する」
炭屋の主人はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「俺の名も書け。忘れたことまで隠されたら、次も自分を疑う」
老婆は名を出したくないと言った。律はその希望をそのまま記し、住所も書かなかった。同じ被害を受けても、同じ残し方を選ぶ必要はない。
紙の照合が終わるころ、外は白み始めていた。
佐和が七枚の本物を机へ戻し、ため息をつく。
「見分け方を決めなあかんな。毎回あんたが緑の糸を見るわけにもいかへん」
「番号を付けます」
律は言った。
紙に通し番号を振り、配った相手を一人の帳面へまとめる。それだけでは帳面が奪われたときに終わる。そこで番号を三つに分けた。最初の数字は紙を作った場所。次の印は内容を確認した人。最後は受け取った家が自分で決める印にする。
佐和は渋い顔をした。
「ややこしい」
「ややこしくないと、真似されます」
「受け取る人も分からんかったら意味ないやろ」
結局、もっと簡単な方法になった。
紙の右下を、それぞれ違う形に切る。配る相手の家で、その切れ端を保管してもらう。避難先や集合場所が書き足された紙を見つけたら、切れ端と合わせる。形が合っても、書き足しについて家族の誰も覚えていなければ、近所の二人へ確認する。
律は番号も残したかったが、夜番の老人に「役所の書類みたいで嫌だ」と言われ、諦めた。
「題は番号の話なのに」と佐和が笑う。
「まだ題なんて付いてません」
「あんた、顔に書いてあるで」
律は鏡を見なかった。
避難先も一か所にしないことにした。東の寺、西の畑、川向こうの竹林。家ごとに近い場所を二つ選び、道が塞がれた場合は無理に合流しない。王仁三郎は窯場へ人を集める案を退けた。
「ここには先生がいるから、皆が来たがります」
律が言うと、老人は少しだけ寂しそうに頷いた。
「集まることで安心する者もいる」
「窯場が崩れたら、安心ごと下敷きになります」
「厳しい助手だ」
「臨時の雑役です」
「では、雑役の言うとおりにしよう」
窯場の外へ知らせを運ぶには、別の問題があった。
耀盌に映った海が、どこの海か分からない。亀岡だけ備えても、像が伊勢や熊野の沿岸なら届かない。安達は知り合いの商人へ一斉に手紙を出そうとしたが、戦時下で「大地震」「大波」と書けば、流言として止められる恐れがある。
王仁三郎は陶土と薪の取引帳を開いた。
窯場には、海辺から土や灰を運んだ商人の名が残っている。伊勢方面へ戻る荷車も、数日中に一本出るという。律は取引の礼状として短い文を書いた。
〈強い揺れの後は、荷を守るため浜へ戻らず、人を高い場所へ移してください。火を消し、倒れた家へ一人で入らぬよう願います〉
予言とは書かない。日時も書かない。受け取った者が笑って捨てても、それで罪に問われるような内容ではなかった。
荷車を出す商人は、文面を読んで首を傾げた。
「縁起でもないな。揺れてから読む手紙か」
「着いた日に読んでください」
「急ぎか?」
律は答えに詰まった。
耀盌には日付がない。今すぐ走れと言えば、また予見が命令になる。遅くてもよいと言えば、海の像が頭から離れない。
「急いでほしいです。でも、道で馬を潰さないでください」
商人は律の顔を見て、ふっと笑った。
「難しい頼み方をする兄ちゃんだ」
「すみません」
「謝るくらいなら、干し芋を一袋くれ。道中の飯が足りん」
安達が店から干し芋を持ってきた。商人は一袋では足りないと言い、二袋取った。佐和が高いと文句を言い、最後は王仁三郎が作りかけの小皿を一枚付けることで話がまとまった。
荷車が去ったあと、律は耀盌を見た。
水面に荷車の後ろ姿が映る。道は途中で三つに分かれた。一つは検問で止まり、一つは車輪が壊れ、最後の一つだけが海へ続いている。だが、どの道を商人が選ぶかは見えない。
律は追いかけなかった。
手紙を預けるところまでは自分が決めた。道を選ぶのは商人だ。そう言い聞かせても、胸の中の焦りは消えなかった。
その晩から、律の耳には地鳴りが残るようになった。
実際には誰も聞いていない。釉薬を混ぜる音、薪を割る音、遠くを走る列車の音。その下へ、まだ起きていない低い響きが重なる。眠ろうとすると瓦の割れる音がして、目を開ければ天井は無事だった。
耀盌を使いすぎた代償だと、律には分かっていた。
それでも朝になると水を張った。
佐和に見つかり、盌を取り上げられた。
「今日は見たらあかん」
「変わった枝があるかもしれません」
「昨日もそう言うた」
「手紙が届くかだけでも」
「届かへん枝を見たら、あんたは馬より先に走る気か」
律は黙った。
佐和は耀盌を布で包み、王仁三郎へ渡した。老人はそれを棚の一番上へ置く。
「未来を見ない日に、しておく仕事もある」
「未来を見なければ、何を直せばいいか分かりません」
「昨日書いた帳面を読めばよい。今日の窯場は、昨日見た未来より具体的だ」
律は不承不承、点検へ戻った。
土蔵の縄を引く。水甕の蓋を確かめる。細い路地に積まれた薪をどかす。東の寺まで実際に歩き、途中の石塀が崩れた場合の回り道を探す。盌を見なくても、危ないものはいくらでもあった。
昼過ぎ、点検を終えた佐和が茶を淹れた。
「何も起きひんかったら、この数日、丸ごと無駄やったと思う?」
律は土だらけの手を見た。
「思いません。でも、俺がそう思わなくても、周りは次から聞かなくなるかもしれない」
「ほな、次も棚を一緒に動かしたらええ」
佐和は湯呑を作業台へ置いた。
茶の表面が、細かく震えた。
律は顔を上げる。
窯の火は静かだった。荷車も、列車も通っていない。棚の上で、布に包まれた耀盌が低い音を立てた。
一度。
間を置いて、もう一度。
次の瞬間、地面の下で、巨大な戸が開いた。




