第十七話 予言を配らない
翌朝には、火事の話が町へ広がっていた。
西の倉庫へ器を運ぶ命令が偽物だったことも、荷車の御者が途中で顔を変えたことも、正確には伝わっていない。人の口を渡るうちに、王仁三郎が偽役人を呪い返したとか、窯場の茶盌が勝手に火を消したとか、ずいぶん景気のよい話になっていた。
昼前、窯場へ安達という男が来た。
五十を過ぎた痩せた男で、以前は王仁三郎のもとへ出入りしていたらしい。今は乾物屋を営み、表向きは窯場と距離を置いている。彼は入口で何度も背後を確かめてから、懐より薄い紙束を出した。
紙の一番上には、大きな字でこう書いてあった。
〈近く大地震あり。火を慎み、神示に従って備えるべし〉
律は最後まで読まず、紙を机へ戻した。
「これは配れません」
「なぜだ」
安達は声を抑えた。「火のあとに地が鳴ると、盌に出たのだろう。昨夜ここにいた者から聞いた。ならば知らせねば、人が死ぬ」
「いつですか」
「それを先生に聞きに来た」
「場所は」
「だから、盌で」
「何日に、どの町で、どれほど揺れるか。盌には一つも出ていません」
安達の顔に苛立ちが浮かんだ。
「分からぬからこそ、広く知らせるのではないか」
「この紙を読んだ人は、何をすればいいんです」
「神示に従う」
「誰の言葉を神示と呼ぶんです」
安達は答えず、王仁三郎を見た。
老人は土を練る手を止めなかった。指の間で赤土を押し、ひびを潰し、しばらくしてからようやく顔を上げた。
「私の名を書けば、人は読むだろう」
「先生」
律が遮ると、王仁三郎は片手を上げた。
「読むから正しい、とは言っておらん。だが名を書かず、何も知らせず、あとで災いが起きたなら、黙った者にも悔いは残る」
安達は力強く頷いた。味方を得たと思ったらしい。
律は腹が立った。耀盌を見たのは自分だ。耳の奥に、まだ瓦が崩れる音が残っている。夜中に目を覚ますたび、あの赤い文字が瞼の裏へ浮かぶ。黙っていたいわけではない。
怖いのは、紙にした瞬間、分からないことまで分かった顔になることだった。
「地震が来なければ?」
律は安達の紙を指した。「先生は嘘つきになる。来年、別の危険を知らせても誰も聞かない。地震が来たとしても、この紙には逃げる場所が書いていない。『神示に従え』だけなら、偽物が続きを書けます」
偽命令書を見たばかりの窯場で、その言葉を軽く扱える者はいなかった。
佐和が紙束を取り上げた。
「うちやったら、これ読んでも困るわ。火を慎め言われても、窯の火は消されへん。家に帰れとも、ここに集まれとも書いてない。結局、声の大きい人の言うとおりになるだけや」
安達は唇を噛んだ。「では、どう書く」
「今から決めます」
律は答えた。
その日の仕事を止め、窯場にいる者で危ない場所を歩いた。
登り窯の脇には、使っていない薪が高く積まれている。揺れれば通路へ崩れる。水甕は一か所に集められ、梁が落ちれば全部割れる。土蔵の戸は湿気で膨らみ、内側から押すだけでは開かない。夜番の寝床の上には重い棚があり、そこへ釉薬の瓶が並んでいた。
どれも予言がなくても危ない。
佐和は薪を二つに分け、水甕を窯場の東西へ移した。若い工員たちは土蔵の戸を削り、外からも開けられる縄を付けた。夜番は自分の寝床を動かすのを嫌がったが、棚から瓶が一つ落ちて枕の横で割れると、黙って布団を引きずった。
律は一つずつ帳面へ書いた。
〈地震が来る〉ではない。
〈薪が通路を塞ぐ〉
〈水甕が同時に割れる〉
〈土蔵の戸が開かない〉
それなら、見たことのない人にも確かめられる。
夕方、四人は新しい紙を作った。題は〈窯場と家の点検覚え〉。大地震も神示も書かなかった。棚の上に重い物を置かないこと。寝床から戸口までの道を空けること。水を一か所へ集めないこと。強く揺れたあと、火や海を見に戻らないこと。家族で別々の場所にいる場合、迎えに走る前に落ち合う場所を決めること。
「海?」
佐和が筆を止めた。「ここから海は遠いで」
「盌に映りました」
律は答えた。「でも、どこの海か分かりません」
安達が身を乗り出す。「それこそ書くべきだ。大波が来ると」
「大波とは見えていません。海面と、崩れた瓦です。同じ場所かどうかも分からない」
「それでは海辺の者が逃げ遅れる」
「大波が来ると決めて港へ人を集めたら、別の危険に巻き込まれるかもしれません」
話はまた振り出しへ戻った。
王仁三郎が筆を取り、海についての一文を書き直した。
〈海辺で強い揺れを感じたら、様子を見に浜へ出ず、高い方へ移る〉
律はそれを読んだ。いつ、どこで地震が起きるとは書いていない。けれど起きたとき、何をしないかは選べる。
「これなら」
「君の予見を信じぬ者にも使える」
王仁三郎は筆を置いた。「信じる者だけ助かる知らせでは、備えとは呼べん」
安達は不満そうだった。神示の二文字が消えれば、誰も紙をありがたがらないと思っているのだろう。それでも彼は乾物屋の名を書き、近所へ配る分を引き受けた。
紙の最後には、王仁三郎一人の名を置かなかった。窯場責任者、火番、佐和、律、安達。点検に参加した者が、それぞれ自分で確かめた項目の横へ署名した。
「俺の名も出すんですか」
律が聞くと、佐和は呆れた顔をした。
「書いた本人が隠れてどうすんの」
「監視に拾われます」
「うちの名も拾われる。先生の名なんか、とっくに向こうの帳面からはみ出してるわ」
王仁三郎は笑った。「はみ出した名は、書き足す場所に困るな」
「笑い事やありません」
佐和はそう言いながら、自分の名の横へ拇印を押した。
配った紙は、予想ほど歓迎されなかった。
紙不足の時代に余計なことを書くなと怒る者もいた。空襲の備えだけで手一杯だと突き返す者もいた。家の棚を動かすには男手がいる、と受け取らない老婆もいた。佐和はその家へ上がり込み、本人に置き場所を聞いてから、近所の娘と二人で棚を低い壁際へ移した。
紙を捨てた者も、水甕の置き場は変えた。
律はそれでよいと思った。紙を信じてもらう必要はない。戸が開けばいい。倒れる棚が一つ減ればいい。
夕刻には、近所の子供たちにも落ち合う場所を聞いた。大人が決めた東の寺を嫌がり、川沿いの近道を選ぶ子が多かった。実際に歩くと、近道には背の高い石垣が続き、荷車が一台倒れただけで通れなくなる。律が危ないから通るなと言うと、十二歳の少年が「寺まで遠すぎる」と言い返した。
そこで道を禁じるのではなく、途中の染物屋を第二の待ち合わせ場所にした。店主は最初迷惑そうにしたが、子供が勝手に川へ探しに来るよりましだと、軒先を貸した。紙へ書いた避難路は、歩いてみるたび形を変えた。
夜、安達がもう一度窯場へ来た。
彼の手にあったのは、昼に配ったものとよく似た紙だった。題も署名も同じ。ただし、最後に一行増えている。
〈揺れののち、指示を受けるため西倉庫前へ集合せよ〉
「私は書いていない」
安達は青ざめていた。「店先に置いた束の中へ、いつの間にか混じっていた」
律は紙へ触れなかった。
一行だけ、墨が乾いていない。その文字の周りには、細い緑の糸が絡んでいる。
無面は、予言を止めようとしているのではない。
予言の続きを、自分で書こうとしていた。




