第十六話 火の道を外す
三通目の手紙は、封筒ではなく命令書だった。
二日後の朝、町役場の印が押された紙が窯場へ届いた。差出し人は軍需係。内容は簡潔だった。窯場に残る器と記録の一部を、保管のため西の倉庫へ移すこと。あわせて、作業に詳しい者二名と、出口王仁三郎本人も同行すること。
誰が見ても、もっともらしい紙だった。
佐和は命令書を机へ置いた。
「今度は、ほんまの規則かもしれへん」
律は頷いた。「だからこそ、先に確かめたいです」
命令書の端には、役場の印がある。日付も合っている。運送の時刻も、荷車の台数も書かれている。ただ、律の目には一つだけ妙な点があった。保管先として記された西の倉庫は、去年の水害で屋根が落ち、今は使われていないはずだった。
彼はそのことを、すぐに“偽造の証拠”とは言わなかった。人の記憶が間違っていることもある。倉庫が直されたのかもしれない。だから佐和に頼み、近くの米屋へ確かめに行ってもらった。米屋は西の倉庫の鍵を管理している親類を知っている。
「俺はどうする」
夜番の老人が聞く。
「荷の目録を作ってください。運ぶ物と、運ばない物を、皆で決めたいです」
律が答えると、老人は意外そうに目を瞬いた。
「命令なら、選べんだろう」
「選べないことと、何を渡したか分からなくなることは別です」
王仁三郎は命令書を読み、静かに笑った。
「いい帳面の使い方を覚えた」
昼前、佐和が戻ってきた。頬に土ではなく、冷たい汗をつけている。
「西の倉庫は直ってへん。鍵も、先月から誰も開けてないって」
命令書は偽物である可能性が高くなった。しかし、だからといって紙を破り捨てれば終わりではない。相手は、誰がどう反応するかを見ている。
律は耀盌に水を張った。
水面には、荷車が映った。雨のない道。荷台に乗せられた箱。隣に座る王仁三郎。律と佐和は後ろを歩く。峠へ差しかかったところで、荷車の車輪が外れる。そこから先は、緑の靄に覆われて見えなかった。
別の枝には、律が命令書を破り、門を閉める姿があった。夕方、窯場の外に制服姿の男たちが立つ。誰が抗ったかを尋ね、皆の名を書き留める。
最後の枝には、荷車が来る前に、窯場の人々が器を別々の家へ運ぶ姿が見えた。荷台は空の箱ばかりを載せて西へ向かう。だが、その枝の最後に何があるのかは、黒い水面が揺れて読めない。
律は盌を伏せた。
「荷を隠すんですか」
佐和が聞く。
「隠すと言えば、俺が決めることになります」
律は言った。「運びたくない器がある人は、自分の名前で持ち帰ってください。窯場のものを全部、誰か一人の判断で渡さないようにしたい」
佐和は少し考えたあと、作業場の皆へ声をかけた。欠けた器でも、土の配合帳でも、誰かにとっては守りたいものがある。陶工たちは迷いながら、それぞれに選んだ。若い工員は亡父の残した窯札を懐へ入れ、夜番は古い火当番の帳面を自宅へ預ける。王仁三郎は、自分の下絵を一枚だけ残し、他は佐和に渡した。
「先生は、行かないんですか」
律が問う。
「私は、役場へ確かめに行く」
「危ないかもしれません」
「君が見た危なさを、私の理由にしてはいかん。紙が本物なら、確かめる責任がある。偽物なら、誰が使ったかを残す責任がある」
律は反論できなかった。
午後、約束の時刻に荷車が来た。御者は若い男で、律の知らない顔だった。命令書を差し出すと、男はすぐに荷を見ようとした。空の箱が並んでいることには、気づかないふりをした。
律は帳面を開いた。
「積んだ物の確認をお願いします」
御者は眉をひそめる。「急いでいる」
「急ぐなら、なおさらです。西の倉庫に届くまで、誰が何を預かったか書きます」
御者の首筋に、緑の線が灯った。
「書くな」
声が低くなった。若い男の声ではない。命令書の紙から聞こえる、紙を擦るような声だった。
律の手が震える。耀盌は作業台の上にある。今ここで見れば、正しい枝を選べるかもしれない。でも、見た枝に縛られれば、皆の選択をまた自分が決めてしまう。
律は帳面を閉じなかった。
「書きます」
彼は静かに言った。「あなたが困るなら、ここにいる皆にも、その理由を説明してください」
佐和が律の隣に立った。夜番が門のそばに立った。窯場の人々も、仕事の手を止めて見ている。誰も魔法を知らない。誰も緑の線を見ていない。それでも、紙に書かれた命令を、そのまま渡す必要はないと理解していた。
御者は笑った。
笑みが、昼の魚売りと同じ形になった。
「火は、道を選べない」
そう言い残して、男は荷車の手綱を引いた。車輪は動かなかった。泥にはまり込んだように、空の箱を積んだ荷台は門の前で止まる。
その瞬間、倉庫の方角から、乾いた破裂音が響いた。
窯の火ではない。
誰かが、別の火をつけた音だった。
一瞬、皆が同じ方向へ走りかけた。
律の頭には、耀盌の水面がなくても分かることがあった。火の音を聞いた人間は、火を消すために集まる。集まれば、門の前は空く。荷車は、誰にも見られず中へ入れる。あるいは、誰か一人を暗い場所へ誘い出せる。
「待ってください」
律は声を張った。
御者が薄く笑うのを、彼は見た。
「佐和さん、二人だけ連れて火を見に。水場からの道を開けてください。残りの人は門の内側にいて、誰も一人にならないで」
「分かった」
佐和は迷わず頷いた。命令されたからではない。状況を聞き、人数を見て、自分でそれが妥当だと決めたからだ。彼女は火箸を放り、濡れ布を持つ二人の陶工を連れて倉庫の方へ走る。夜番は門の前へ木の棒を渡し、若い工員は空の箱を荷車から降ろしはじめた。
火は、使われていない薪棚の脇で燃えていた。
油を染み込ませた布が、古い藁へ投げ込まれている。大きな火ではない。しかし放っておけば、乾いた梁に移る。佐和たちは水を掛け、土を被せ、誰も倉庫の奥へ入らないまま火を消した。火元のそばには、見覚えのない小さな瓶が落ちていた。
律は門の内側からその様子を見ていた。耀盌を使う余裕はなかった。代わりに帳面へ、時刻と人数と、火を見つけた場所を書いた。手が震えて字が歪む。
御者は、いつの間にか荷車へ乗っていた。
「積荷は空だ」
律が言う。「西の倉庫も使われていない。あなたは誰の命令で来たんですか」
御者の顔が、また違う顔になった。若い男。外套の中年。魚売り。紙屋で話した少年の父親。重なる顔のどれもが、ほんの一瞬だけ律を見た。
「火は、誰のものでもない」
声は笑っていた。「だから、燃えたあとには、誰の責任も残らない」
「残ります」
律は帳面を掲げた。「ここに書く。見た人がいる。消したくても、全部は消せない」
緑の糸が御者の首筋から伸び、帳面の文字をなぞった。律の視界が歪む。文字が黒い虫のように動き、佐和の名、夜番の名、窯場の若者の名を、今すぐ消せと囁く。
そのとき、門の外から王仁三郎の声がした。
「律くん。紙は一人で持たなくていい」
役場から戻った老人は、手に新しい写しを持っていた。役場の軍需係へ確かめたところ、この窯場へ移送命令は出ていない。西の倉庫は閉鎖されたままだという、短い回答が記されている。
王仁三郎はそれを佐和へ渡した。佐和は読み、夜番へ見せ、さらに窯場の皆で内容を確認した。律の帳面だけではない。紙屋の証言だけでもない。幾つもの小さな記録が、偽の命令書を挟むように並んだ。
御者の笑みが消えた。
荷車の車輪が、ひとりでに軋む。地面に残った緑の光が、車軸へ吸い込まれた。次の瞬間、荷車は門の外へ走り出した。誰も追わなかった。追えば、相手の用意した暗い道へ入るかもしれない。代わりに佐和が、御者の顔、荷車の傷、去った方角を声に出して記し、皆がそれぞれ覚えた。
火が消えたあと、窯場には焦げた油の匂いが残った。
佐和は濡れた髪を払って、律の帳面を見た。
「これ、いつか誰かに見せるん?」
「見せられる形にしておきます」
「今は?」
「今は、皆で持ちます」
律は答えた。
夜、耀盌に水を注ぐと、黒い釉の瞳は初めて泣いているように見えた。水面には、遠い海と、崩れる瓦と、火の消えた窯場が映った。そこには日付がない。誰が助かるかも、誰が傷つくかも書かれていない。
ただ、赤い線で一つだけ記されていた。
〈火の次に、地面が鳴る〉




