第十五話 手紙は誰の声か
翌朝、手紙は本当に届いていた。
窯場の作業台、その中央に置かれていた。戸は内側から閂をかけたまま。窓の紙障子も破れていない。夜番の老人は一度も居眠りしていないと誓った。それでも白い封筒は、誰かが丁寧に置いたように、盌の隣にあった。
律は、すぐに手を伸ばさなかった。
「触らへんの?」
佐和が薪を抱えたまま言う。
「触る前に、見たことを記録します」
律は帳面を開いた。時刻。戸の状態。夜番の証言。封筒の位置。封の向き。表には、出口王仁三郎の名だけが書かれている。筆は柔らかく、年配の男が書いたように見える。けれど昨日の手紙と同じように、文字の最後だけがわずかに右上へ伸びていた。書き手が急いだのではない。読んだ者の目を、次の一行へ引っ張るための癖だ。
「皆の前で開けますか」
律が聞くと、王仁三郎は首を振った。
「皆の前で開けることと、皆に読ませることは違う。読まれたくないことまで、見世物にしてはいかん」
そこで三人は決めた。封を開けるのは律。内容を最初に読むのは宛名の本人。佐和は封筒の外側と、開封した時刻だけを帳面に記す。意見が割れたら、誰か一人の勘で決めない。小さな取り決めだったが、律には儀式のように思えた。
王仁三郎が封を切った。
中に入っていたのは、一枚の短い便箋だった。
〈旧い友より。今夕、黒門の茶屋にて。人目のない話がある〉
署名は、律の知らない名だった。
王仁三郎は何度かその名を見たあと、便箋を伏せた。
「友人ですか」
「昔、会ったことはある。だが、この名で手紙を寄こす人間は、もう十年以上前に亡くなっている」
作業場の空気が凍った。
佐和は便箋を見ずに、静かに聞く。
「行きます?」
「行かない理由は多い」
王仁三郎は答えた。「だが行かないことで、誰かが困る可能性もある」
律は盌を見た。釉の瞳は閉じている。見ろ、と命じるものではない。律は一度だけ深く息を吸い、盌へ水を注いだ。
水面に、黒門の茶屋が映った。
夕暮れ。人気のない座敷。王仁三郎が一人で座り、便箋の名を呼ぶ。障子の向こうで、誰かが泣く声を出す。次に見えたのは、同じ茶屋の店先。佐和と律が通りの向こうに立ち、店の女将へ「予約の客がいたか」と尋ねる。女将は困ったように首を振る。
そして三つ目の像。
誰も茶屋へ入らない。かわりに、黒門の角に小さな紙片が落ちる。拾った子供が紙を折り、知らない狐の形を作る。
律は水を捨てた。
「どうでした」
佐和の問いに、律は迷った。見えた像をそのまま話せば、先生を怖がらせるかもしれない。黙れば、三人で決めるために盌を使った意味がない。
「一人で行くと、よくないことが起きるかもしれません」
律は言った。「でも、それが必ず起きるとは言えない。茶屋が本当に空かどうか、先に別の方法で確かめたいです」
佐和は腕を組む。
「つまり、あんたは先生に行くなとも、行けとも言わへんのやな」
「言えません。行くのは先生ですから」
王仁三郎は便箋を指で押さえた。
「ならば、茶屋にいるはずの友人について、まず人に尋ねよう。死んだ者が手紙を書いたのなら、書いた者は生きている」
午後、律と佐和は茶屋の近くへ向かった。先生は窯場に残った。待ち合わせの時刻より早く、二人は道の反対側にある豆腐屋で湯気の立つ椀を買い、通りを見張った。隠れるためではない。隠れているつもりの人間を、普通に暮らす人々の目のなかへ置くためだった。
茶屋の女将は、律が尋ねると不思議そうにした。
「予約? 今日はないよ。そもそも、その黒門の茶屋は三年前に火事で閉めた。ここは今、貸し座敷だけや」
便箋に書かれた場所そのものが、もうなかった。
そのとき、通りの奥で老婆が立ち止まった。手には同じ白い封筒を持っている。老婆は誰かに渡す相手を探すように、行き交う人の顔を順に見た。律が近づくと、彼女は安心したように笑った。
「やっと会えた。これを先生へ」
「どなたからですか」
「さあねえ。昨日、家の戸口にあったんだよ。届けたら、息子が戻る気がして」
佐和の手が、律の袖を掴んだ。老婆の言葉には嘘がない。けれど彼女の首筋から、盌で見たのと同じ細い緑の線が伸びていた。誰かに命令されたのではない。喪ったものを返してほしいという願いに、別のものが寄り添っている。
律は封筒を受け取らなかった。
「息子さんは、どこへ行かれたんですか」
老婆の目が揺れた。「兵隊に取られて……手紙も来ない」
律は頷いた。何も返せない自分が腹立たしかった。緑の線を切れればいい。見えるものを全部追い払えればいい。だが、そんな力を持った者が、他人の悲しみに勝手に触れてよいはずもない。
「ここに、窯場の住所を書きます」
律は帳面の端を破り、老婆へ渡した。「何か届いたら、触らずに知らせてください。あなたが悪いわけではありません」
老婆は紙を握ったまま泣き出した。佐和は何も言わず、彼女の腕を支えた。
帰り道、二通目の封筒は風に飛ばされ、側溝へ落ちた。律は拾わなかった。封筒の周りには、見えないほど細い緑の光が残っていた。
その夜、帳面には新しい項目が増えた。
〈予見:会わない相手の名を使い、相手の望みを足場にして、手紙は届く〉
〈確認:便箋の場所はすでに失われていた。配達者は内容を知らず、個人的な願いを抱えていた〉
律は最後に、小さく書き添えた。
〈対策:封を恐れない。届ける人を、一人にしない〉
盌の底では、瞳が見えなかった。
けれど窯場の外、焼け残った門の影に、誰かが次の便箋を書いていた。
翌日、律と佐和は町の紙屋を回った。封筒そのものを追うためではない。同じ紙を扱った人がいないか、同じ筆跡を見た人がいないか、普通の問いとして聞くためだ。最初の二軒では何も分からなかった。三軒目の小さな店で、帳場にいた少年が律の持つ便箋の端を見て、顔を上げた。
「それ、昨日も見た」
少年は言った。「知らないおじさんが、似た紙を十枚くらい買っていった。病気の人に手紙を出すんだって。お釣りはいらないって」
「どんな人だった?」
少年はしばらく考えた。
「最初は、兵隊さんみたいだった。でも、店を出るころには、うちの父ちゃんに似てた」
佐和がしゃがみ込み、少年と同じ高さで尋ねる。
「その人、何か困ってるように見えた?」
「うん。誰も自分の話を聞いてくれないって言ってた」
律は胸の奥が冷えた。緑の線は、悲しんでいる人のそばにだけ現れるわけではない。聞いてほしいと願う人、自分が正しいと分かってほしい人、役目を果たしたい人。その小さな隙間へ、相手は「おまえだけは分かる」と言って入り込む。
紙屋の主人は、紙を売った客の名を知らなかった。だが釣銭の硬貨を一枚、見慣れないものだと取り分けていた。律が硬貨に触れると、耀盌を使わなくても、指先がかすかに痺れた。表面には、爪で引っ掻いたような細い傷が七つある。
「これは預かれますか」
律が尋ねると、主人は怪訝そうに眉を寄せた。
「何に使う」
「分かりません。でも、返す相手が現れたら、皆がいるところで返したい」
主人はすぐには頷かなかった。佐和が事情を簡単に説明する。手紙に困っている人がいること。紙屋が悪いと決めつけるつもりはないこと。硬貨を隠すのではなく、受け取った日時と客の特徴を帳面へ残したいこと。
やがて主人は古いそろばんを脇へ寄せ、紙切れを一枚出した。
「なら、うちも書く。売った紙が誰かを困らせるなら、売ったことまで消したくない」
店を出ると、佐和は小さく息を吐いた。
「あんた、前より人に説明するようになったな」
「見えたものを言っても、誰も困るだけですから」
「見えたものを隠しても、あんたが一人で困る」
律は答えられなかった。
佐和は続けた。「せやから、見えたことと、分かることを分けて話し。うちらが信じるかは、うちらで決める」
それは厳しい言葉だった。でも律には、初めて盌の瞳を怖がらずにいられる言葉でもあった。
その夜、帳面の余白に七つの輪を描こうとして、律はやめた。代わりに、紙屋の主人の名、少年の証言、硬貨の傷をそのまま記した。誰かの秘密を暴くためではない。次に同じ手紙が来たとき、誰かが一人で「自分だけが狙われた」と思わないために。




