第十四話 釉の瞳
律は盌を取り落としかけた。
黒い釉の底にあった瞳は、瞬きをしたように見えた。人の目ではない。鏡に映る自分の目でもない。ひび割れた黒曜石の奥で、誰かがこちらを見返している――そんな感覚だけが、指先から腕へ走った。
「それ、失敗作やで」
佐和の声で、律は現実へ引き戻された。
「焼いてもいないのに釉が沈みすぎた。先生が面白がって残してたけど、売り物にはならへん」
「誰が作ったんですか」
「分からん。土も釉も、昔の残りを混ぜたんやろ。いまは物を捨てる余裕なんかないしな」
律は盌を光へかざした。黒い表面には自分の顔が映る。疲れた若い男の顔。右目の下に煤がつき、前髪は汗で額に張りついている。けれど角度を変えると、映り込むはずのないものが見えた。
雨の夜の橋。白い狐。石欄に並んだ七つの輪。
知らない記憶なのに、胸が痛んだ。
盌の縁を指でなぞると、細い文字が浮かんだ。
〈見えたことを、誰のために使う〉
律は息を止めた。
文字はすぐに消えた。代わりに、窯場の全景が釉の底へ映る。佐和が土を捏ねる手。炉へ薪を入れる少年。帳面を抱えた律自身。そして門の外、さっき去ったはずの男が、まだ壁の陰にいる姿。
男の手のなかには、あの手紙がある。
次の瞬間、映像が三つに分かれた。
一つでは、律が手紙を受け取る。夜、窯場の屋根裏で針金のような音が鳴り、見張りが増える。
一つでは、佐和が男を追い出す。数日後、佐和の弟が徴用先で問題を起こしたという知らせが届く。
最後の一つでは、誰も手紙に触れない。男は門の外で待ち続け、夕暮れ前に別の顔で町へ消える。
律は盌を伏せた。映像は消えたが、心臓の音だけが残る。
「律くん?」
「佐和さん。さっきの男、まだ近くにいます」
佐和はすぐに笑わなかった。
「見たん?」
「……たぶん」
「たぶん、で人を怖がらせるんは好きやない」
律は頷いた。その通りだと思った。自分が見たものを、佐和に信じさせる権利はない。だから彼は盌を抱えたまま、ゆっくり言葉を選んだ。
「門の外にいるか、見に行ってもいいですか。佐和さんは来なくていい。もし本当にいるなら、帳面に書いて、他の人にも見てもらいます」
佐和はしばらく彼を見た。それから土を拭った手で、火箸を一本取った。
「あんた一人に行かせるとは、言うてへん」
二人が門へ近づくと、男は本当にそこにいた。
今度は魚売りの格好をしている。籠には干からびた鰯が数匹入っていた。律が盌を取り出すと、釉の瞳がまた開く。男の顔の上に、薄い別の顔が何枚も重なって見えた。老人、女、若い兵士、泣きそうな子供。そのどれにも、同じ緑の線が首筋から伸びている。
「あなたは、誰ですか」
律が問うと、魚売りは首を傾げた。
「腹を空かせた者に魚を売る者です」
「さっきは、先生へ手紙を渡しに来た」
「人は一日に、幾つも用を持てる」
「そうですね」
律は認めた。「だから、名前を一つに決めろとは言わない。ただ、窯場へ入るなら、何をしに来たのか、皆の前で言ってください」
魚売りの目が、初めて律をまっすぐ見た。
「おまえは、見えるのか」
問われた瞬間、盌の釉が熱くなった。数えきれない声が頭へ流れ込む。命令。願い。泣き声。誰かに言われたから、と言い訳する人々の声。その奥に、紙を折る指と、白い狐の遠い影があった。
律は膝をつきかけた。
佐和が、何も聞かずに彼の腕を掴む。
「返事はせんでええ」
その一言で、声が少し遠のいた。
魚売りは笑った。笑い方だけが、門の下で会った外套の男と同じだった。
「ならば、いずれ自分で答えることになる」
男は籠を置き、夕方の人波へ紛れた。佐和が追おうとしたが、律は首を振った。盌の底には、追った先で佐和が一人になる枝が見えていた。けれどそのことを言えば、また彼女の選択を奪ってしまう。
「追わないでください」
律は言った。「代わりに、窯場の人に、今夜は一人で帰らないよう頼みましょう。理由は……変な男がいた。それで十分です」
佐和は火箸を下ろした。
「それなら、皆にも分かる」
夕方、窯場の人々は薪を早めに片づけ、二人ずつで帰ることにした。誰も盌の目の話は知らない。誰も、見えない緑の線を信じたわけではない。ただ、知らない男が門の外にいたという、確かめられる事実を共有しただけだ。
律は作業場の隅で黒い盌を見つめた。
釉の奥に、細い亀裂が一つ走っている。その形は、雨の夜に誰かが折った紙の、最初の折り目に似ていた。
盌は何も答えない。
だが律は知っていた。
見えたものを信じろ、とは言われていない。
見えたものを、誰かの選ぶ余地を残したまま、どう確かめるか。
それを問われているのだと。
その夜、律は王仁三郎から渡された帳面を開いた。
表紙の内側に、昼の出来事を書きつける。門の外の男。手紙。魚売りの姿。見えた三つの枝。そして、佐和が火箸を持って隣に立ったこと。頭のなかに残った像と、実際に起きたことを、別の欄へ分けて記した。
像の欄には、こう書いた。
〈手紙を受け取れば、夜に屋根裏で針金の音が鳴る〉
実際の欄には、こう書く。
〈手紙は受け取らなかった。屋根裏は未確認〉
それだけのことなのに、律は妙に疲れた。見えたものを先に答えとして書きたくなる。そうすれば、自分だけは迷わずに済むからだ。だが帳面は、未来の欄を空白にしたまま待っている。空白は不安だった。しかし、そこに他人の選択が入る余地もある。
戸を叩く音がした。
佐和だった。片手に小さな飯盒、もう片手に火箸ではなく木の棒を持っている。
「先生が、晩の見回りは二人でせえ言うた」
「先生が?」
「さあ。律くんの勘を、皆で確かめるんやろ」
二人は窯場を一周した。炉の火は弱く、薪棚の影には猫が一匹いるだけだった。門の内側には、新しい泥の跡があった。靴ではない。細い裸足のような跡が、門から倉庫まで続き、そこで急に消えている。
佐和がしゃがみ込んだ。
「子供の足か?」
律は盌を取り出した。釉の瞳が、今度はゆっくり開く。
泥の跡の上に、二つの光景が重なった。
一つは、見回りを終えて二人が部屋へ戻る姿。何も起きない。
もう一つは、佐和が跡を追って倉庫の扉を開ける。中から緑の光が噴き、彼女の顔が一瞬、知らない誰かのものに変わる。
律は盌を閉じるように両手で覆った。
「扉は、開けないで」
佐和はすぐには従わなかった。「また見たん?」
「見た。でも、これが当たるとは限らない」
「なら、どうする」
律は周囲を見た。倉庫の戸は古いが、外から閂をかけられる。窯場には夜番の老人がいる。皆を呼べば、扉を開けずに中の様子を確かめられる。大げさかもしれない。だが、誰か一人を危険な場所へ入らせるよりはいい。
「戸を閉めて、先生と夜番を呼びましょう。中に誰かいるなら、声をかける。出てこなければ、朝まで待つ」
「朝まで?」
「夜に、俺たちだけで決めるよりいい」
佐和は口元を曲げた。
「あんた、変なところで臆病やな」
「それは褒め言葉として受け取ります」
二人が戸へ近づくと、内側からかすかな咳払いがした。
「困るなあ」
声は、昼の魚売りのものだった。だが続く言葉は佐和の弟の声になり、その次には王仁三郎の声になった。
「扉を開けなさい。君は私を信じるだろう?」
佐和の表情が凍った。
律は帳面を思い出した。見えたものを、すぐ答えにしてはいけない。けれど確認できる声まで、放っておく理由にもならない。
「中の人へ」
律は戸の前で言った。
「ここは窯場です。名と用件を、あなた自身の声で言ってください。出るなら、外にいる全員が見える場所へ出てください」
しばらく沈黙が続いた。
倉庫の隙間から、緑の糸が一本だけ漏れた。律のこめかみが痛む。糸は彼の中にある「急いで答えを出したい」という気持ちへ触れ、扉を開けろと囁いた。
そのとき、佐和が木の棒で地面を強く叩いた。
「返事せえへん人に、こっちが先に名乗る必要はない」
彼女の声は震えていた。それでも、扉の前から離れなかった。
夜番と王仁三郎が提灯を持って駆けつけたころ、倉庫の中の気配は消えていた。皆で戸を開けると、そこには古い薪と、昼の手紙の封だけが落ちていた。誰も触れず、佐和が布で包む。
律は帳面へ書いた。
〈像:倉庫の扉を開ければ、佐和の顔が変わる〉
〈実際:扉は一人で開けなかった。中には誰もいなかった。封筒だけが残った〉
二つの欄の間には、まだ何も結論を書けない。
黒い盌の底で、瞳が一度だけ律を見た。
そして、見知らぬ声が紙を擦るように囁いた。
『次は、手紙が自分で届く』




