第十三話 焼け残った門
昭和十九年の冬、亀岡の朝は土の匂いがした。
空襲の噂は町の外から毎日のように流れ込み、配給所の列は長くなり、窯場へ運ばれる薪は去年より細くなった。それでも火を絶やせない窯があった。焼き物を作るためだけではない。火を守る人間がまだここにいる、と確かめるために。
水城律は、冷えた指先で窯の温度計を叩いた。
針は三度目の停止で、ようやく少し動いた。数値は信用できない。昨日は二百を指したまま、炉の内側では釉が沸き、今日になって五十まで下がったのに、薪の燃え方だけは妙に強い。律は背中の工具袋から細い針金を出し、ガラス管の根元を外した。
「また壊したん?」
背後から声が飛んだ。
振り返ると、土で白くなった頬の女が、両腕に薪を抱えて立っていた。佐和。窯場でいちばん腕のいい陶工で、いちばん遠慮のない人だった。律より十ほど年上で、戦前からこの場所に残っている。誰かが「先生のそばにいると面倒だ」と囁いても、彼女は毎朝同じ時刻に土を捏ねた。
「壊したんじゃない。壊れていた」
「それを直せへんかったら、同じことや」
「厳しいですね」
「数字に文句を言う前に、火の色を見なさい」
佐和は炉口を顎で示した。律は黙って覗く。炎は青ではなく、わずかに黄が混じっている。空気の通りが悪い。温度計の故障と決めつけたが、煙道の奥に煤が溜まっているのかもしれない。
律は工具袋を置いた。
「分かりました。俺の負けです」
「勝ち負けやない。火は見た分だけ、こっちを見返してくる」
その言葉が、なぜか胸に刺さった。
見た分だけ、見返してくる。
理由のない既視感が、律の頭の奥をかすめた。濡れた紙。黒い石。七つの輪。名を呼ばれない誰かの背中。いつからか、眠りに落ちる直前だけ、知らない少女の手が紙を折る光景を夢に見るようになっていた。目を覚ませば何も覚えていない。ただ、誰かの命令を急いで信じてはならない、という感覚だけが残る。
「律くん」
佐和が怪訝そうに眉を寄せた。「聞いてる?」
「聞いてます。煙道を先に見ます」
窯場の奥には、焼け残った門があった。
かつて教団の施設へ続いていたという黒い木の門で、片方の扉は外され、柱には古い釘穴がいくつも残っている。誰かが壊したものを、誰かが直しかけて、途中でやめたような門だった。律は朝ごと、その前を通るたびに足を止める。門の向こうに何かがあるわけではない。草の伸びた空き地と、崩れた壁と、雨水の溜まる石畳があるだけだ。
なのに今日だけ、門の下に一人の男が立っていた。
軍服ではない。古びた外套を着た、痩せた中年の男。手には封をした手紙を持っている。律と目が合うと、男は不自然なほど丁寧に頭を下げた。
「出口先生に、お目通りを願いたい」
窯場の空気が少し固くなった。
律はここへ来てまだ三か月だった。老いた信徒が、食べ物や手紙を持って訪ねてくることは珍しくない。けれど人々は来る前に、必ず少し迷う。門の前で周囲を見回し、何度か息を整え、自分の足で中へ入る。この男には迷いがなかった。迷いの形だけを、後から貼りつけたように見えた。
「先生は作業中です」
律が言うと、男はすぐに頷いた。
「では、これだけでも」
差し出された手紙の封は、普通の糊で閉じられていた。だが律の指が近づいた瞬間、耳の奥で鈴のような音が鳴る。視界の端に、見えないはずの線が伸びた。手紙から門へ、門から町道へ、さらにどこか遠い場所へ。
線の色は、夢のなかの雨ではなかった。
冷たい、緑だった。
律は手紙を受け取らなかった。
「中身を改めます」
男の笑みが、ほんのわずか遅れた。
「信徒の私信です」
「なら、差出人の名を帳面へ記します。規則ですから」
律は嘘をついた。そんな規則はない。だが窯場の入口には、出入りした人の名を記す古い帳面があり、佐和が薪を置きながらこちらを見ている。男は一瞬だけ門の影へ目を向けた。その動きは、誰かに許可を求めたように見えた。
「……また日を改めます」
男は手紙を引っ込めた。
去り際、外套の裾が風に翻った。その下の地面に、緑色の光が一滴だけ落ちる。雪ではない。水でもない。律が瞬きをしたときには、光は消えていた。
男が見えなくなるまで待ってから、佐和は腕を組んだ。
「今の、ほんまに規則なん?」
「いいえ」
「ほな、なんで止めた」
律は答えを探した。自分でも分からない。手紙を受け取れば何かが起きる、と見たのか。見たのは未来ではなく、相手の仕掛けた道筋なのか。説明できない不安を、人に命令する理由にはしたくなかった。
「俺が受け取りたくなかったからです」
佐和は呆れた顔をした。だがしばらくして、小さく頷いた。
「それなら、次からそう言い。変な理屈で人を止めるより、よほどましや」
律はその言葉を覚えた。
昼過ぎ、煙道の掃除を終えた彼は、倉庫の隅に積まれた失敗作の山を片づけていた。欠けた皿、歪んだ壺、釉の割れた茶盌。そのなかに、一つだけ妙に冷たい盌があった。
まだ焼かれていないはずなのに、表面は夜の水面のように黒く光っている。
律が指先を触れたとき、盌の底で、七つの輪が一度だけ赤く灯った。
そして黒い釉の奥に、瞳が開いた。
律は盌を布で包み、誰にも見られないよう胸へ抱えた。壊れ物を運ぶというより、逃げ出しそうな夢を押さえ込むような手つきだった。
作業場の奥には、昼でも薄暗い小部屋がある。そこに、出口王仁三郎は座っていた。机の上には半分だけ焼かれた器の下絵と、土で汚れた手拭いと、誰かから届いたらしい野菜が並んでいる。人々が大げさな呼び名で語りたがる人物なのに、律の前にいる老人は、欠けた刷毛の穂先を黙々と整えていた。
「先生」
律が声をかけると、老人は顔を上げた。
「温度計は直ったか」
「まだです。代わりに、変な盌が出てきました」
律は包みを開いた。盌の釉は、もうただの黒に戻っている。瞳も輪もない。自分だけがおかしくなったのだと言われれば、否定できなかった。
王仁三郎はすぐには触れなかった。しばらく眺め、それから湯呑の水を一滴、縁に落とす。水は黒い釉を滑り、底へ落ちる前に細く二つに分かれた。
「器は、見る者に見たいものを返す」
「俺は、何を見たいんでしょう」
「それは自分で決めることだ」
答えになっていないようで、律には少し救いだった。もし老人が「これは天の啓示だ」と言えば、律はたぶん盌を投げ捨てた。見えないものを見たからといって、他人の人生を決めるほど偉くなった覚えはない。
「門の外に、妙な男がいました」
律は、見えた緑の線については言わなかった。代わりに、男が迷わず現れ、ありもしない規則を持ち出すとすぐ引いたことを話した。
王仁三郎は刷毛を置いた。
「なら、今夜は戸を二重に閉めよう。皆で帰るようにする。理由は、君が見た男が怪しかったからでいい」
「俺の勘だけで?」
「勘を絶対の言葉にしてはいかん。しかし、勘を持った者が責任まで捨てる必要もない。まず確かめられることをしなさい」
律は盌を見た。
「これは、何なんですか」
「分からないものを、すぐ名前で縛るな。名前は便利だが、ときどき人を命令に変える」
その瞬間、律の耳の奥で、紙を折る乾いた音がした。
老人にも聞こえたのか、王仁三郎はわずかに目を細めた。しかし問いたださない。代わりに、作業台の端へ古い帳面を置いた。
「明日から、窯の火と出入りの時刻を書いておきなさい。器が何かを見せるなら、見せたことと、実際に起きたことを並べておく。外れたなら外れたと書く。そうすれば、君も器も、嘘に使われにくくなる」
律は帳面を受け取った。
表紙には名前がなかった。けれど指先が触れたとき、紙の隅に雨粒のような丸い染みが七つ、薄く浮かんだ気がした。




