第二話 暦注の余白
翌朝、静は兄の席に座らなかった。
兄の席は書室の中央にあり、窓から入る光が最もよく紙へ落ちる。そこへ女が座れば、使用人も弟子も言葉にしないまま眉をひそめるだろう。静はいつものように端の文机へ座り、昨日まで定棟が整理していた暦注の束を開いた。兄が戻るまで、家の仕事は止められない。止まれば、彼がここにいないことだけが大きくなる。
「姉君」
定棟の若い弟子、藤次が戸口に立っていた。まだ十六で、髪を結う手つきだけが一人前の少年である。
「御所から、案巻を渡せと言われました。陰陽助殿の机にあったものを、すべて」
「誰が来るのですか」
「検非違使の者と……御所の験者だそうです」
静は筆を置いた。「名前は」
藤次は首を振った。「名乗らなかったそうです」
名乗らない者が帳面を取りに来る。兄なら、その時点で門を閉めただろう。だが静にその権限はない。彼女は一番上の束を開き、余白を見た。
十二年前の暦注。七年前。三年前。将軍家に病が出た月、京で火事が続いた月、北山の寺で僧が消えた月。奇妙なことに、災いの前に出された暦には、必ず小さな点が一つ増えていた。句読点でも、墨の飛沫でもない。右下の余白、紙の繊維が少し粗い場所に、瞳孔のような黒点がある。
静は十七枚を並べた。
点は年ごとに増えている。
「藤次。兄上は、この点について何か言ったことは」
「いえ。暦の余白なんて、誰も見ません」
「だから書けるのです」
静は紙を窓へかざした。朝日が薄い和紙を透かした瞬間、最後の黒点がじわりと開いた。
紙の裏に、廊下があった。
ありえないほど長い廊下だった。壁は紙より薄く、奥へ行くほど折りたたまれている。左右の戸には、文字が書かれていた。〈御所北門〉〈橋〉〈高天良覚〉〈賀茂定棟〉。最後の戸だけ、まだ濡れた墨で書かれている。
〈賀茂静〉。
「姉君?」
藤次の声で、紙はただの紙に戻った。静は指を放したが、掌には紙の冷たさが残った。
『観る者は、観られる』
昨夜の男の声が、頭の奥で繰り返された。
彼女は兄から預かった黒曜石の鏡を取り出した。鏡面の亀裂へ、先ほどの紙をかざす。すると亀裂の向こうに、紙の裏の廊下が今度ははっきり映った。戸の前に、何かが立っている。
灰色の狩衣。緑の目。
男は紙の向こうから、静のほうを見ていた。
静は鏡を伏せた。
「何かありましたか」藤次が尋ねた。
「何も」
嘘を言った瞬間、机の上の墨壺が小さく震えた。彼女の影だけが、朝の光と逆へ伸びた。
門を叩く音がした。
検非違使の二人と、白い狩衣の男が入ってきた。男は四十ほどに見え、額に汗ひとつなく、声も柔らかい。
「御所より、御気遣い申し上げる。私は案の整理を任された者、薄影と申す」
静はその名に反応しなかった。反応を待っている目だったからだ。
薄影は兄の机の前に立ち、整然と重ねられた紙を撫でた。「陰陽助殿は、長らく狐の術に関心をお持ちでしたな」
「兄は暦と祭式を扱います」
「関心と罪は別です。もちろん」
言葉は穏やかだった。だが静は、彼の指が紙へ触れるたび、余白の黒点が一つずつ濃くなるのを見た。薄影は証拠を探していない。証拠になる形へ、帳面を並べ直している。
「その紙は昨日まで無かったものです」静は言った。
検非違使の一人が顔をしかめた。「女が何を言う」
薄影は笑った。「よい。写し手の目は侮れません。どれです」
静は迷った。指せば紙を持ち去られる。黙れば、兄の帳面すべてが同じ扱いになる。彼女は一枚ではなく、束の端を指した。
「墨の色が違います。家の墨ではありません」
薄影は紙を持ち上げた。顔には何の変化もない。しかし鏡を袖の中でわずかに傾けると、男の影だけが紙の裏へ伸びていた。廊下の向こうで、緑の目がこちらを瞬いた。
「よく見ていますね、静殿」
薄影は初めて、彼女を名で呼んだ。
誰も名を告げていない。
静は背筋を伸ばした。「写し手ですから」
「それだけですか」
「それ以上なら、役所が先に褒めるでしょう」
藤次が息を呑んだ。検非違使は笑わなかった。薄影だけが、少し楽しそうに目を細めた。
「その通りです」
彼は帳面を半分だけ持って出ていった。残った束は、なぜか一番古い暦だけだった。静はそれを開いた。余白の点は十八になっていた。
最後の一点の下に、細い文字が浮かんだ。
〈北山、三日後。狐はまだ一匹生きている〉
紙はすぐに白へ戻った。
静は藤次に言った。「家の者には、私は寺へ写経に行くと伝えて」
「兄上のことで、今出歩くのですか」
「だからです」
「危ないです」
「危なくない日付を、誰かが全部書き替えたのでしょう」
藤次は何も言えなかった。
静は鏡と古い暦を包み、薬草籠へ入れた。鏡は冷たく、紙は軽かった。けれど、その二つの間には、誰かが帳面の外から書き込んだ道がある。
兄を救うには、その道を見に行かなければならない。
屋敷を出る前、静は庭の井戸で手を洗った。水面に自分の顔が映る。疲れた若い女の顔だった。けれど水面の影は、ほんの一瞬だけ、彼女より先に瞬きをした。
静は桶を落とした。大きな音が庭に響く。使用人が駆け寄ると、彼女は手を切ったふりをした。鏡を井戸へ向けると、底には緑の火があり、そのそばに細い狐の骨が沈んでいる。鏡を外せば、ただの暗い水だった。彼女は石を一つ落とした。水音は遅れて返る。その間、誰かが低い声で一、二、三と数え、四で止まった。
静は井戸に蓋をした。開ければ説明できないものが増える。けれど閉じても、なかったことにはならない。古い暦の端に、方角と時刻を書きつける。
藤次が問うた。「姉君、何を書いているのです」
「戻るための印です」
「どこから」
静は答えなかった。紙の裏の廊下も、井戸の底の火も、兄が捕らえられたことと同じ帳面に綴じられている。それだけは確かだった。
彼女は藤次に、古い暦の写しを三部取るよう命じた。一部は寺へ、一部は市の紙屋へ、一部は藤次自身の着物の裏へ隠す。少年は怯えたが、静が「燃えたら、内容でなく紙を失ったことにして」と言うと、黙って頷いた。真実を一つの場所に置かない。兄が誰にも教えず実行していた術を、静は初めて自分のものとして使った。
その夜、静は兄の衣を一枚だけ選んだ。流罪になれば、衣さえ戻らないかもしれない。彼女は袖の内側へ、井戸で見た火と紙の廊下の絵を小さく縫い込んだ。誰かに帳面を奪われても、記録が全部なくなるわけではない。
出発の前、藤次が門の陰から小さな木札を差し出した。定棟が使っていた方位札の余りだった。
「持っていってください。北が分からなくなったときのために」
静は受け取った。「北は分かるわ。分からないのは、北で誰が待っているかよ」
「それでも、帰ってきてください」
静は返事の代わりに、藤次の着物の襟を整えた。戻れなかったときの言葉を、今ここで渡したくはなかった。
門を出ると、朝の京はすでに昨日の噂を忘れ、新しい噂を求めていた。静はその流れに背を向けた。北へ行くのは狐を追うためだけではない。帳面の余白へ勝手に書き込んだ手を、初めてこちらから見に行くためだった。
静は門の外で一度だけ振り返った。屋敷の屋根は低い朝日に濡れ、書室の窓はまだ暗い。ここは兄が戻る場所であり、戻らなければならない理由でもある。鏡は胸元で冷たかったが、その冷たさは恐怖だけではなかった。誰かが書いた筋書きを読むなら、自分の歩いた跡も残さなければならない。静は方位札を握り直し、北へ続く道へ足を踏み出した。




