表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/59

第三話 北へ走る足跡

北山へ向かう道は、京の噂から少しずつ遠ざかる。


御所に近い町では、良覚が狐を使って将軍を呪ったという話が、もう裁きの終わったことのように語られていた。北へ行くほど、人々は別のものを恐れていた。山から降りる狼。夜に鳴く石。山寺の古い井戸。恐れは土地ごとに姿を変えるが、誰かを指さしたがるところだけは同じだった。


静は頭巾を深くかぶり、薬草籠を腕に掛けて歩いた。籠の底には黒曜石の鏡、古い暦、乾いた飯、細い縄、火打石が入っている。武器はない。武器を持てば、女の一人旅はますます説明を求められる。


里を外れたところで、薬売りの老女に呼び止められた。


「娘さん、北へ行くなら日が落ちる前に戻りな。夜の狐は追うもんじゃない」


「追うのではありません。連れていかれた理由を見ます」


老女は目を細めた。「理由を見た者は、大抵、理由のほうに見つかる」


静は返事をしなかった。老女はため息をつき、懐から干し芋を一つ取り出して渡した。


「腹が減ったときは、怖いものが賢く見える。先に食べな」


北山の入り口には、小さな石仏が並んでいた。その一体だけ、顔に緑色の苔が濃く付いている。静は橋で見た欠片を思い出し、近づかずに鏡を向けた。


鏡面の亀裂が、横ではなく縦に開いた。


石仏の前に足跡がある。狐のものではない。裸足の人の跡でもない。三本の細い爪が、地面を浅く引っかいている。足跡は山道の外れまで続き、途中で二つに分かれていた。


ひとつは北へ。もうひとつは、来た道へ戻っている。


静は戻る足跡を見た。土は乾いている。昨日より古い。北へ向かう跡は、今朝の雨を踏んでいる。


「同じ者が、二度通った」


鏡の奥で、紙の廊下が揺れた。新しい戸が一枚、現れる。


〈白夜〉。


静はその名を声に出さなかった。名は呼ぶためだけにあるのではない。呼ばれた者を縛ることもある、と兄は昔言った。


山道の先で、かすかな鳴き声がした。


狐の声だった。だが助けを求める声ではない。喉を押さえつけられ、鳴きたいのに鳴けない声だ。


静は足を止めた。木々の隙間に、古い炭焼き小屋が見える。戸は半分落ち、屋根には苔が生えている。周囲の地面には札が埋められていた。紙は雨に濡れているのに、墨だけは黒々と残り、同じ文字を繰り返している。


〈従え〉。


〈従え〉。


〈従え〉。


静は鏡を手に取った。亀裂の向こうでは、札の一枚一枚から細い糸が伸びている。糸は小屋の中へ集まり、さらに紙の裏の廊下へ続いていた。術は狐を閉じ込めているだけではない。誰かが、狐の行動を帳面へ書き込むように命じている。


「白夜」


小屋の中で何かが震えた。


静はすぐに口を閉じた。呼んではいけなかったかもしれない。だが、鏡の廊下にあった名が、いま小さな火のように光った。


戸の隙間から、白い鼻先が見えた。続いて、痩せた子狐が顔を出す。毛は泥と血で固まり、前脚には黒い糸が食い込んでいた。狐の目は怯えていた。しかし静を見た瞬間、その目の奥で別の光が動いた。


『鏡を捨てろ』


声は頭の中に響いた。


『それは、お前を記録する』


静は鏡を下ろさなかった。「あなたも記録されている」


狐は唸った。小屋の周りの札が一斉に鳴る。


『私は命令に従う。逃げろと言われれば逃げる。噛めと言われれば噛む。白狐であれと言われれば、白くなる』


「誰に」


狐は答えない。代わりに、森の奥で枝が折れた。


静は鏡を傾けた。鏡の中では、木々の影がすべて同じ方向を向いている。その中で一つだけ、影が彼女へ近づいていた。灰色の狩衣。薄影。


本物の姿か、見せたい姿かは分からない。


「札を剥がせば、あなたは自由になりますか」静は訊いた。


『一枚ではない』


「全部剥がせば」


『命令は紙にない。名にある』


静は古い暦を開いた。余白の点が、またひとつ増えている。十九番目の点の横に、見慣れない文が浮かんだ。


〈契約は命令より遅く、信頼より早い〉。


意味は分からない。だが静は、狐へ手を伸ばす前に言った。


「私はあなたに従えとは言わない。ここを出たければ、手伝う。代わりに、見たことを教えて」


白夜は彼女を見た。長い時間だった。森の風が止まり、札が鳴るのも止んだ。


『人は皆、代わりに何かを取る』


「取るなら、先に言う」


『何を』


「真実を」


狐は目を細めた。そのとき、最も外側の札が緑に燃えた。


『遅い』


白夜が叫んだ。


森の奥から、薄影の声がした。


「よくここまで来ましたね、静殿。兄上の無実を知りたいのでしょう」


静は鏡を握り、札の輪の外を見た。声は近い。影はもっと近い。


けれど、鏡の中で白夜の足元から伸びる黒い糸は、薄影ではなく、京の御所へ向かっていた。


本当の命令者は、まだ山に来ていない。


静は一枚目の札へ手を伸ばした。


札に触れる前に、白夜が牙を立てた。噛まれたわけではない。静の手首のすぐ横で止めたのだ。狐の息は熱く、黒い糸は前脚から梁へ、さらに森の暗がりへ伸びている。


『剥がせば痛む』


「あなたが」


『お前が』


静は手を引かなかった。「なら、半分だけ痛ませる方法を探す」


鏡の亀裂へ札を映すと、墨の下から別の文字が現れた。表には〈従え〉。裏には、もっと小さく〈飢えよ〉と書かれている。白夜は命令されていただけでなく、飢えさせられて命令を選ばされていた。


静は籠から干し芋を出した。老女から受け取ったものだ。白夜はそれを見て目を伏せた。


『食べれば、従ったことになる』


「私が置く。食べるかどうかは、あなたが決める」


彼女は干し芋を札の輪の外へ置き、三歩下がった。薄影の声が近づく。


「人と狐の約束ですか。美しい。ですが、約束は命令より弱い」


「弱いから、守る意味があります」


静は最初の札を剥がした。黒い糸が手の甲へ跳ね、熱い針のように皮膚へ刺さった。白夜も倒れ込み、小屋の床を爪で掻く。だが札は燃えず、ただ白い紙に戻った。


鏡に文字が浮かぶ。〈強制の痕跡を一つ削除。観測者に注脚を付与〉。静の左手首に、見えない誰かが墨で丸を付けたような痛みが残った。記録を読めば、自分も記録になる。


二枚目を剥がすと、森の影が揺れた。薄影の姿はまだ見えない。声だけが、褒めるように言う。


「よくできました。あなたは兄上より、ずっと使いやすい」


静は答えず、三枚目を剥がした。白夜は干し芋へ鼻を近づけたが、まだ食べない。四枚目で札の輪に穴が開いた。狐はそこから逃げられる。なのに動かなかった。


『お前は、私に何をさせたい』


「何も」


『嘘だ』


「見たことを教えてほしい。でも、教えなくてもいい」


白夜は長く静を見つめた。そして干し芋をくわえ、穴から外へ出た。逃げるのではなく、静の横に座った。


『御所の北門に、白い籠があった。籠には二匹いた。緑の目の者が籠を開け、走れと命じた。走らなければ、飢えの痛みが来た』


静は鏡を握った。「それを、兄上は知っていたのですか」


『人の兄は、籠を見た。だが籠の外にも、命令があった』


残った札が緑の火を上げた。火は小屋を囲むのではなく、山道を塞いだ。白夜が静の袖を噛んで引く。


『今は走れ。約束は、逃げてから決める』


静は鏡を胸に入れ、白夜とともに山道へ駆け出した。背後で薄影が初めて声を荒げる。


「静。あなたの兄は三日後、流罪の書へ名を押す。北へ行けば救えると思いますか」


静は振り返らなかった。けれど鏡の亀裂には、京へ続く紙の廊下と、その最奥で閉じようとする〈賀茂定棟〉の戸が映っていた。


静は走った。足跡が消える前に、書き替えられた結末へ追いつくために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ