第三話 北へ走る足跡
北山へ向かう道は、京の噂から少しずつ遠ざかる。
御所に近い町では、良覚が狐を使って将軍を呪ったという話が、もう裁きの終わったことのように語られていた。北へ行くほど、人々は別のものを恐れていた。山から降りる狼。夜に鳴く石。山寺の古い井戸。恐れは土地ごとに姿を変えるが、誰かを指さしたがるところだけは同じだった。
静は頭巾を深くかぶり、薬草籠を腕に掛けて歩いた。籠の底には黒曜石の鏡、古い暦、乾いた飯、細い縄、火打石が入っている。武器はない。武器を持てば、女の一人旅はますます説明を求められる。
里を外れたところで、薬売りの老女に呼び止められた。
「娘さん、北へ行くなら日が落ちる前に戻りな。夜の狐は追うもんじゃない」
「追うのではありません。連れていかれた理由を見ます」
老女は目を細めた。「理由を見た者は、大抵、理由のほうに見つかる」
静は返事をしなかった。老女はため息をつき、懐から干し芋を一つ取り出して渡した。
「腹が減ったときは、怖いものが賢く見える。先に食べな」
北山の入り口には、小さな石仏が並んでいた。その一体だけ、顔に緑色の苔が濃く付いている。静は橋で見た欠片を思い出し、近づかずに鏡を向けた。
鏡面の亀裂が、横ではなく縦に開いた。
石仏の前に足跡がある。狐のものではない。裸足の人の跡でもない。三本の細い爪が、地面を浅く引っかいている。足跡は山道の外れまで続き、途中で二つに分かれていた。
ひとつは北へ。もうひとつは、来た道へ戻っている。
静は戻る足跡を見た。土は乾いている。昨日より古い。北へ向かう跡は、今朝の雨を踏んでいる。
「同じ者が、二度通った」
鏡の奥で、紙の廊下が揺れた。新しい戸が一枚、現れる。
〈白夜〉。
静はその名を声に出さなかった。名は呼ぶためだけにあるのではない。呼ばれた者を縛ることもある、と兄は昔言った。
山道の先で、かすかな鳴き声がした。
狐の声だった。だが助けを求める声ではない。喉を押さえつけられ、鳴きたいのに鳴けない声だ。
静は足を止めた。木々の隙間に、古い炭焼き小屋が見える。戸は半分落ち、屋根には苔が生えている。周囲の地面には札が埋められていた。紙は雨に濡れているのに、墨だけは黒々と残り、同じ文字を繰り返している。
〈従え〉。
〈従え〉。
〈従え〉。
静は鏡を手に取った。亀裂の向こうでは、札の一枚一枚から細い糸が伸びている。糸は小屋の中へ集まり、さらに紙の裏の廊下へ続いていた。術は狐を閉じ込めているだけではない。誰かが、狐の行動を帳面へ書き込むように命じている。
「白夜」
小屋の中で何かが震えた。
静はすぐに口を閉じた。呼んではいけなかったかもしれない。だが、鏡の廊下にあった名が、いま小さな火のように光った。
戸の隙間から、白い鼻先が見えた。続いて、痩せた子狐が顔を出す。毛は泥と血で固まり、前脚には黒い糸が食い込んでいた。狐の目は怯えていた。しかし静を見た瞬間、その目の奥で別の光が動いた。
『鏡を捨てろ』
声は頭の中に響いた。
『それは、お前を記録する』
静は鏡を下ろさなかった。「あなたも記録されている」
狐は唸った。小屋の周りの札が一斉に鳴る。
『私は命令に従う。逃げろと言われれば逃げる。噛めと言われれば噛む。白狐であれと言われれば、白くなる』
「誰に」
狐は答えない。代わりに、森の奥で枝が折れた。
静は鏡を傾けた。鏡の中では、木々の影がすべて同じ方向を向いている。その中で一つだけ、影が彼女へ近づいていた。灰色の狩衣。薄影。
本物の姿か、見せたい姿かは分からない。
「札を剥がせば、あなたは自由になりますか」静は訊いた。
『一枚ではない』
「全部剥がせば」
『命令は紙にない。名にある』
静は古い暦を開いた。余白の点が、またひとつ増えている。十九番目の点の横に、見慣れない文が浮かんだ。
〈契約は命令より遅く、信頼より早い〉。
意味は分からない。だが静は、狐へ手を伸ばす前に言った。
「私はあなたに従えとは言わない。ここを出たければ、手伝う。代わりに、見たことを教えて」
白夜は彼女を見た。長い時間だった。森の風が止まり、札が鳴るのも止んだ。
『人は皆、代わりに何かを取る』
「取るなら、先に言う」
『何を』
「真実を」
狐は目を細めた。そのとき、最も外側の札が緑に燃えた。
『遅い』
白夜が叫んだ。
森の奥から、薄影の声がした。
「よくここまで来ましたね、静殿。兄上の無実を知りたいのでしょう」
静は鏡を握り、札の輪の外を見た。声は近い。影はもっと近い。
けれど、鏡の中で白夜の足元から伸びる黒い糸は、薄影ではなく、京の御所へ向かっていた。
本当の命令者は、まだ山に来ていない。
静は一枚目の札へ手を伸ばした。
札に触れる前に、白夜が牙を立てた。噛まれたわけではない。静の手首のすぐ横で止めたのだ。狐の息は熱く、黒い糸は前脚から梁へ、さらに森の暗がりへ伸びている。
『剥がせば痛む』
「あなたが」
『お前が』
静は手を引かなかった。「なら、半分だけ痛ませる方法を探す」
鏡の亀裂へ札を映すと、墨の下から別の文字が現れた。表には〈従え〉。裏には、もっと小さく〈飢えよ〉と書かれている。白夜は命令されていただけでなく、飢えさせられて命令を選ばされていた。
静は籠から干し芋を出した。老女から受け取ったものだ。白夜はそれを見て目を伏せた。
『食べれば、従ったことになる』
「私が置く。食べるかどうかは、あなたが決める」
彼女は干し芋を札の輪の外へ置き、三歩下がった。薄影の声が近づく。
「人と狐の約束ですか。美しい。ですが、約束は命令より弱い」
「弱いから、守る意味があります」
静は最初の札を剥がした。黒い糸が手の甲へ跳ね、熱い針のように皮膚へ刺さった。白夜も倒れ込み、小屋の床を爪で掻く。だが札は燃えず、ただ白い紙に戻った。
鏡に文字が浮かぶ。〈強制の痕跡を一つ削除。観測者に注脚を付与〉。静の左手首に、見えない誰かが墨で丸を付けたような痛みが残った。記録を読めば、自分も記録になる。
二枚目を剥がすと、森の影が揺れた。薄影の姿はまだ見えない。声だけが、褒めるように言う。
「よくできました。あなたは兄上より、ずっと使いやすい」
静は答えず、三枚目を剥がした。白夜は干し芋へ鼻を近づけたが、まだ食べない。四枚目で札の輪に穴が開いた。狐はそこから逃げられる。なのに動かなかった。
『お前は、私に何をさせたい』
「何も」
『嘘だ』
「見たことを教えてほしい。でも、教えなくてもいい」
白夜は長く静を見つめた。そして干し芋をくわえ、穴から外へ出た。逃げるのではなく、静の横に座った。
『御所の北門に、白い籠があった。籠には二匹いた。緑の目の者が籠を開け、走れと命じた。走らなければ、飢えの痛みが来た』
静は鏡を握った。「それを、兄上は知っていたのですか」
『人の兄は、籠を見た。だが籠の外にも、命令があった』
残った札が緑の火を上げた。火は小屋を囲むのではなく、山道を塞いだ。白夜が静の袖を噛んで引く。
『今は走れ。約束は、逃げてから決める』
静は鏡を胸に入れ、白夜とともに山道へ駆け出した。背後で薄影が初めて声を荒げる。
「静。あなたの兄は三日後、流罪の書へ名を押す。北へ行けば救えると思いますか」
静は振り返らなかった。けれど鏡の亀裂には、京へ続く紙の廊下と、その最奥で閉じようとする〈賀茂定棟〉の戸が映っていた。
静は走った。足跡が消える前に、書き替えられた結末へ追いつくために。




