表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/66

第一話 御所から逃げた狐

応永二十七年、京の空は病人のように白かった。


九月に入ったばかりだというのに、風は生ぬるく、鴉は昼になっても鳴かなかった。賀茂静は兄の屋敷の北向きの書室で、暦注を書き写す筆を止めた。紙の上には、今日の日付と、その日に避けるべき方角、吉凶、祭祀の手順が並んでいる。人が生まれ、嫁ぎ、旅に出て、井戸を掘るまで、都では多くのことが暦の言葉で決められた。


その言葉が、二枚の紙で食い違っていた。


一枚には〈風病に注意。北の戸を開くな〉とある。もう一枚には〈狐の祟りあり。北へ向かう者は家名を失う〉とある。日付も月の位も同じだった。なのに筆の運びだけが違う。前者は兄、賀茂定棟の手だ。後者は、よく似せてはいるが、筆先を少し急がせる癖がある。墨も違った。家で使う松煙墨より、わずかに青い。


「また凶日を増やしたのか」


帳面の向こうで定棟が言った。


静は顔を上げずに答えた。「増やしたのではありません。誰かが、増やしたように見せています」


定棟は手を止めた。彼は陰陽助の官にあり、将軍家へ出す暦や祭祀の文書を扱う。三十を越えたばかりなのに、近ごろは髪の生え際に白いものが増えていた。将軍義持の病が長引き、御所の内外では、医者の薬が悪いのだ、寺社の祈りが足りないのだ、誰かが呪っているのだと、毎日ちがう犯人が生まれていた。


「どこから出た」


「御所へ回す控えの束です。昨日、使いの者が置いていきました」


定棟は二枚を見比べ、しばらく黙った。静は兄が怒るときより、こうして静かになるときのほうが怖かった。


「これは口にするな」と定棟は言った。「写し違いだと言えば済む。だが、誰が何のために直したかまで考え始めると、写し違いでは済まなくなる」


「直した人は、狐の祟りを広めたいのですか」


「人は病人よりも、病人に近づいた者を怖がる。怖がらせれば、誰かを押し出せる」


静はその言葉を帳面の端に小さく書いた。人は病人よりも、病人に近づいた者を怖がる。


昼過ぎ、御所から使いが来た。


使いは泥の跳ねた狩衣のまま、門の前で馬を降りた。顔色は悪く、腰の刀に何度も手をやった。定棟が応対に出ると、使いは低い声で告げた。


「御所より白狐二匹、逃走」


静は筆を落とした。


「将軍家御快癒のため、医師・高天良覚が調伏に用いたものと見られます。狐は北門を抜け、ひとつは橋のたもとで討たれ、もうひとつは北山へ逃げました。良覚は管狐をもって上様を呪詛した疑いあり。陰陽助殿にも、ただちにお出まし願いたい」


定棟は使いの顔をじっと見た。「疑いは、今生まれたのか」


使いは答えなかった。


「それとも、狐が逃げる前から用意されていたのか」


「私は命を伝えるだけです」


「命令と証拠は別物だ」


使いは初めて定棟を見た。「今の京では、別でないこともあります」


定棟はそれ以上問わなかった。奥へ戻ると、青ざめた静の前に膝をついた。


「家から出るな。門を開けるな。誰が来ても、私の名で返事をするな」


「兄上は」


「御所へ行く」


「狐が逃げただけで、なぜ兄上まで」


定棟は笑おうとして失敗した。「狐は逃げただけではない。逃げたことにされた。そこが怖い」


彼は黒曜石の小鏡を机の引き出しから出した。掌に収まるほどの鏡で、縁に古い金具があり、鏡面には細い亀裂が一本走っている。


「これは持っていろ。使うな。誰にも見せるな」


「何ですか」


「昔、師から預かったものだ。見えるはずのないものが見えたときだけ、役に立つ」


静が受け取ると、鏡は秋の井戸水より冷たかった。


定棟は御所へ向かった。門が閉じる音を聞きながら、静は自分の手の中の鏡を見た。亀裂は、まぶたを閉じた目のようにも見えた。


日が傾くころ、町の噂はすでに完成していた。


魚売りは、白狐が将軍の枕元で笑ったと言った。紙屋は、良覚が夜ごと尾を生やすのを見た者がいると言った。門前の子どもたちは、狐の目をくり抜いて井戸へ投げれば熱病が移ると歌い始めた。誰も見ていないことほど、都では速く増える。


静は家にいる約束を破って、橋へ向かった。


女が一人で夕暮れの町を歩くのは目立つ。だから彼女は、薬草を入れた籠と頭巾を持ち、兄の弟子の使いを装った。橋のたもとにはまだ人だかりがあり、役人が白い死骸を筵で覆っていた。狐の腹は裂かれていなかった。矢傷もない。首の骨だけが、ありえない角度に折れていた。


「踏みつけられたんだろう」


誰かが言った。


「いや、呪い返しだ」


別の誰かが言った。


静は人の靴の隙間から地面を見た。狐の足跡は橋の北から南へ続いている。逃げた狐なら南へ向かったはずだ。だが、深く残った草履跡は逆だった。二人分。ひとつは役人のもの、もうひとつは細く、踵がほとんど沈んでいない。狐を追った跡ではない。狐を運び、橋の上で放した者の跡だ。


死骸の近くに、緑色の欠片が落ちていた。


玻璃にも見えたが、玻璃なら夕日を透かすはずだった。欠片は光を飲み、静の指先に触れた途端、冷たい痺れを返した。彼女は拾わず、籠の中の紙に位置だけを書いた。


そのとき、橋の板に長い影が落ちた。


夕日は西にある。影は東へ伸びるべきだった。


だがそれは、月明かりに引かれるように北へ伸びていた。


静はゆっくり振り向いた。


人だかりの向こうに、灰色の狩衣を着た男が立っていた。年は分からない。顔は人混みに紛れるほど平凡なのに、目だけが水草の下の石のように緑だった。男は静を見て笑った。そして、唇を動かさずに言った。


『鏡を持つ娘。帳面の外を見たいか』


静の指が黒曜石の小鏡を握った。


『見れば、書かれる』


次の瞬間、男の姿は人波に溶けた。


静は追わなかった。追えば、相手の用意した筋書きに入る気がした。


代わりに彼女は、狐の足跡、草履跡、緑の欠片、逆向きの影を、一枚の紙に並べた。噂は勝手に増える。だが事実も、並べれば形を持つ。


夜、屋敷に戻ると、門の前に御所の使いが待っていた。


定棟は戻らない。


使いは言った。「陰陽助賀茂定棟殿は、良覚の同党として留め置かれた」


静は頭を下げたまま、手の中の鏡が鳴るのを聞いた。


小さな、ひびの入るような音だった。


鏡面の亀裂の向こうで、誰かがこちらを見返していた。


静は鏡を伏せた。だが伏せた鏡の下から、細い光が畳へ漏れた。光は一筋ではなく、無数の細い文字のように床を走り、先ほど書いた紙の上で止まった。狐の足跡、草履跡、緑の欠片、逆向きの影。その四つの記録だけが、墨を吸ったように黒く沈む。


家人は皆、兄が捕らえられたことに泣き、明日の嘆願を案じた。静だけが泣けなかった。泣けば一つの出来事になる。だがこれは、まだ出来事ではない。誰かが狐を運び、紙を書き替え、兄を同党にした。順番がある。順番を失えば、真実は噂と同じ速さで他人のものになる。


彼女は鏡を布に包み、紙を三つに分けて隠した。一枚は米櫃の底へ。一枚は仏壇の裏へ。最後の一枚は自分の袖の縫い目へ。窓の外では、北へ向かうはずのない影が、塀の上をゆっくりと東へ歩いていた。


静は鏡を伏せた。だが伏せた鏡の下から、細い光が畳へ漏れた。光は文字のように床を走り、狐の足跡、草履跡、緑の欠片、逆向きの影を書いた紙の上で止まった。その四つだけが、墨を吸ったように黒く沈む。


家人は皆、兄が捕らえられたことに泣き、明日の嘆願を案じた。静だけが泣けなかった。泣けば一つの出来事になる。だがこれは、まだ出来事ではない。誰かが狐を運び、紙を書き替え、兄を同党にした。順番がある。順番を失えば、真実は噂と同じ速さで他人のものになる。


彼女は兄の机を初めて勝手に調べた。引き出しの奥には、将軍の病が始まってからの配膳記録があった。薬湯を運んだ者、部屋へ入った者、北門を通った荷車。名前の横に方角が添えられている。三日前の夜だけ、北門の記録が空白だった。その下には兄の筆で〈空白は無記録ではない。記録を置けない理由の記録である〉とある。


静は紙を胸元へ入れた。兄も狐の前から何かを疑っていた。怖がって黙ったのではない。誰かが読む日に備えて、書き方を選んでいたのだ。


鏡がもう一度鳴った。亀裂の奥に、見知らぬ女の横顔が映った。女は紙の冠を被り、遠い場所で泣いている。静が瞬きをすると、像は消えた。未来ではない。遠い場所の、すでに起きたことが混じったのだと、静は思った。彼女はそれも余白に記す。


紙を三つに分け、一枚は米櫃の底へ、一枚は仏壇の裏へ、最後の一枚は袖の縫い目へ隠した。窓の外では、北へ向かうはずのない影が、塀の上をゆっくり東へ歩いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ