第一話 御所から逃げた狐
応永二十七年、京の空は病人のように白かった。
九月に入ったばかりだというのに、風は生ぬるく、鴉は昼になっても鳴かなかった。賀茂静は兄の屋敷の北向きの書室で、暦注を書き写す筆を止めた。紙の上には、今日の日付と、その日に避けるべき方角、吉凶、祭祀の手順が並んでいる。人が生まれ、嫁ぎ、旅に出て、井戸を掘るまで、都では多くのことが暦の言葉で決められた。
その言葉が、二枚の紙で食い違っていた。
一枚には〈風病に注意。北の戸を開くな〉とある。もう一枚には〈狐の祟りあり。北へ向かう者は家名を失う〉とある。日付も月の位も同じだった。なのに筆の運びだけが違う。前者は兄、賀茂定棟の手だ。後者は、よく似せてはいるが、筆先を少し急がせる癖がある。墨も違った。家で使う松煙墨より、わずかに青い。
「また凶日を増やしたのか」
帳面の向こうで定棟が言った。
静は顔を上げずに答えた。「増やしたのではありません。誰かが、増やしたように見せています」
定棟は手を止めた。彼は陰陽助の官にあり、将軍家へ出す暦や祭祀の文書を扱う。三十を越えたばかりなのに、近ごろは髪の生え際に白いものが増えていた。将軍義持の病が長引き、御所の内外では、医者の薬が悪いのだ、寺社の祈りが足りないのだ、誰かが呪っているのだと、毎日ちがう犯人が生まれていた。
「どこから出た」
「御所へ回す控えの束です。昨日、使いの者が置いていきました」
定棟は二枚を見比べ、しばらく黙った。静は兄が怒るときより、こうして静かになるときのほうが怖かった。
「これは口にするな」と定棟は言った。「写し違いだと言えば済む。だが、誰が何のために直したかまで考え始めると、写し違いでは済まなくなる」
「直した人は、狐の祟りを広めたいのですか」
「人は病人よりも、病人に近づいた者を怖がる。怖がらせれば、誰かを押し出せる」
静はその言葉を帳面の端に小さく書いた。人は病人よりも、病人に近づいた者を怖がる。
昼過ぎ、御所から使いが来た。
使いは泥の跳ねた狩衣のまま、門の前で馬を降りた。顔色は悪く、腰の刀に何度も手をやった。定棟が応対に出ると、使いは低い声で告げた。
「御所より白狐二匹、逃走」
静は筆を落とした。
「将軍家御快癒のため、医師・高天良覚が調伏に用いたものと見られます。狐は北門を抜け、ひとつは橋のたもとで討たれ、もうひとつは北山へ逃げました。良覚は管狐をもって上様を呪詛した疑いあり。陰陽助殿にも、ただちにお出まし願いたい」
定棟は使いの顔をじっと見た。「疑いは、今生まれたのか」
使いは答えなかった。
「それとも、狐が逃げる前から用意されていたのか」
「私は命を伝えるだけです」
「命令と証拠は別物だ」
使いは初めて定棟を見た。「今の京では、別でないこともあります」
定棟はそれ以上問わなかった。奥へ戻ると、青ざめた静の前に膝をついた。
「家から出るな。門を開けるな。誰が来ても、私の名で返事をするな」
「兄上は」
「御所へ行く」
「狐が逃げただけで、なぜ兄上まで」
定棟は笑おうとして失敗した。「狐は逃げただけではない。逃げたことにされた。そこが怖い」
彼は黒曜石の小鏡を机の引き出しから出した。掌に収まるほどの鏡で、縁に古い金具があり、鏡面には細い亀裂が一本走っている。
「これは持っていろ。使うな。誰にも見せるな」
「何ですか」
「昔、師から預かったものだ。見えるはずのないものが見えたときだけ、役に立つ」
静が受け取ると、鏡は秋の井戸水より冷たかった。
定棟は御所へ向かった。門が閉じる音を聞きながら、静は自分の手の中の鏡を見た。亀裂は、まぶたを閉じた目のようにも見えた。
日が傾くころ、町の噂はすでに完成していた。
魚売りは、白狐が将軍の枕元で笑ったと言った。紙屋は、良覚が夜ごと尾を生やすのを見た者がいると言った。門前の子どもたちは、狐の目をくり抜いて井戸へ投げれば熱病が移ると歌い始めた。誰も見ていないことほど、都では速く増える。
静は家にいる約束を破って、橋へ向かった。
女が一人で夕暮れの町を歩くのは目立つ。だから彼女は、薬草を入れた籠と頭巾を持ち、兄の弟子の使いを装った。橋のたもとにはまだ人だかりがあり、役人が白い死骸を筵で覆っていた。狐の腹は裂かれていなかった。矢傷もない。首の骨だけが、ありえない角度に折れていた。
「踏みつけられたんだろう」
誰かが言った。
「いや、呪い返しだ」
別の誰かが言った。
静は人の靴の隙間から地面を見た。狐の足跡は橋の北から南へ続いている。逃げた狐なら南へ向かったはずだ。だが、深く残った草履跡は逆だった。二人分。ひとつは役人のもの、もうひとつは細く、踵がほとんど沈んでいない。狐を追った跡ではない。狐を運び、橋の上で放した者の跡だ。
死骸の近くに、緑色の欠片が落ちていた。
玻璃にも見えたが、玻璃なら夕日を透かすはずだった。欠片は光を飲み、静の指先に触れた途端、冷たい痺れを返した。彼女は拾わず、籠の中の紙に位置だけを書いた。
そのとき、橋の板に長い影が落ちた。
夕日は西にある。影は東へ伸びるべきだった。
だがそれは、月明かりに引かれるように北へ伸びていた。
静はゆっくり振り向いた。
人だかりの向こうに、灰色の狩衣を着た男が立っていた。年は分からない。顔は人混みに紛れるほど平凡なのに、目だけが水草の下の石のように緑だった。男は静を見て笑った。そして、唇を動かさずに言った。
『鏡を持つ娘。帳面の外を見たいか』
静の指が黒曜石の小鏡を握った。
『見れば、書かれる』
次の瞬間、男の姿は人波に溶けた。
静は追わなかった。追えば、相手の用意した筋書きに入る気がした。
代わりに彼女は、狐の足跡、草履跡、緑の欠片、逆向きの影を、一枚の紙に並べた。噂は勝手に増える。だが事実も、並べれば形を持つ。
夜、屋敷に戻ると、門の前に御所の使いが待っていた。
定棟は戻らない。
使いは言った。「陰陽助賀茂定棟殿は、良覚の同党として留め置かれた」
静は頭を下げたまま、手の中の鏡が鳴るのを聞いた。
小さな、ひびの入るような音だった。
鏡面の亀裂の向こうで、誰かがこちらを見返していた。
静は鏡を伏せた。だが伏せた鏡の下から、細い光が畳へ漏れた。光は一筋ではなく、無数の細い文字のように床を走り、先ほど書いた紙の上で止まった。狐の足跡、草履跡、緑の欠片、逆向きの影。その四つの記録だけが、墨を吸ったように黒く沈む。
家人は皆、兄が捕らえられたことに泣き、明日の嘆願を案じた。静だけが泣けなかった。泣けば一つの出来事になる。だがこれは、まだ出来事ではない。誰かが狐を運び、紙を書き替え、兄を同党にした。順番がある。順番を失えば、真実は噂と同じ速さで他人のものになる。
彼女は鏡を布に包み、紙を三つに分けて隠した。一枚は米櫃の底へ。一枚は仏壇の裏へ。最後の一枚は自分の袖の縫い目へ。窓の外では、北へ向かうはずのない影が、塀の上をゆっくりと東へ歩いていた。
静は鏡を伏せた。だが伏せた鏡の下から、細い光が畳へ漏れた。光は文字のように床を走り、狐の足跡、草履跡、緑の欠片、逆向きの影を書いた紙の上で止まった。その四つだけが、墨を吸ったように黒く沈む。
家人は皆、兄が捕らえられたことに泣き、明日の嘆願を案じた。静だけが泣けなかった。泣けば一つの出来事になる。だがこれは、まだ出来事ではない。誰かが狐を運び、紙を書き替え、兄を同党にした。順番がある。順番を失えば、真実は噂と同じ速さで他人のものになる。
彼女は兄の机を初めて勝手に調べた。引き出しの奥には、将軍の病が始まってからの配膳記録があった。薬湯を運んだ者、部屋へ入った者、北門を通った荷車。名前の横に方角が添えられている。三日前の夜だけ、北門の記録が空白だった。その下には兄の筆で〈空白は無記録ではない。記録を置けない理由の記録である〉とある。
静は紙を胸元へ入れた。兄も狐の前から何かを疑っていた。怖がって黙ったのではない。誰かが読む日に備えて、書き方を選んでいたのだ。
鏡がもう一度鳴った。亀裂の奥に、見知らぬ女の横顔が映った。女は紙の冠を被り、遠い場所で泣いている。静が瞬きをすると、像は消えた。未来ではない。遠い場所の、すでに起きたことが混じったのだと、静は思った。彼女はそれも余白に記す。
紙を三つに分け、一枚は米櫃の底へ、一枚は仏壇の裏へ、最後の一枚は袖の縫い目へ隠した。窓の外では、北へ向かうはずのない影が、塀の上をゆっくり東へ歩いていた。




