6話
「つかれた」
彼は広辞苑を手放すと、四肢を投げ出して目を閉じた。広辞苑は床に投げ出される事はなく、水流に受け止められてゆっくりと沈んでいく。僕は彼にならって開いていた文庫本を閉じ、顔を覗き込んだ。
「つかれた?重い?」
「おもい……」
”貴婦人”は寝転んだまま細い腕で再び辞典を持ち上げると、『お』のページをぱらぱらとめくった。層の厚い袖と裾が、イソギンチャクのように揺れている。
「手、いたい。じしょ……重い、ため」
「重いと疲れるもんね」
「そう、つかれる」
確かに雪のように白い顔には僅かに火照っていて、確かに疲れが滲んでいるように見えた。慌てて彼の体を見回したが、当然素人目には何も分からない。
いつもは不自然なほど血の通りを感じられないその肌は、凹凸一つなく、彫刻のように正確な造形を模っている。彼に生気を感じなかったのは、彼の見た目全てがあまりにも正解をなぞっていたせいだったのだ。くったりと目を閉じて水流に身を任せる彼の体には、不完全という名の生き物の温かさを感じる。僕はそれが、なんだか嬉しかった。
辞書に飽きたらしい彼はしばらく目を瞑っていたかと思えばそのままうつ伏せに転がると、そのままふわりと浮き上がった。そしてベッド脇のチェストまで漂う。そして僕のヘッドフォンを掲げて言った。
「これは?」
「ヘッドフォン」
「これは?」
「雑誌」
「ざっし!」
「辞書で見たことある?」
「ある。ざっし、しゃしんもある?」
「写真と文字があるよ。沢山あるから見てみようか」
”貴婦人”はふんふんと頷きながら、雑誌をぱらぱらと捲った。僕が美しい物に惹きつけられる呪いにかかっているせいで、部屋には美しい風景の写真集や美術展のカタログが散らばっている。衝動的に買ってしまうお陰で、それはそれなりの量で部屋を圧迫していた。
彼が開いたのは、オシャレなルームコーディネートを提案する雑誌だった。コンクリートを基調としたブラックとアイアンで纏められた部屋や、北欧調のラグが特徴的な生活感ある部屋が、彼の指によって次々と捲られていく。
魚の目には、紫外線を色として認識する特性があるのだという。彼が夢に出てきたばかりの頃、一度調べたことがあった。紫外線の色は、僕たち人間の目で捉えることは出来ない。つまり透明な光という認識である。
彼は今楽しそうに雑誌を眺めているが、もしかすると普段見ている世界の方が美しいのだろうか。今は人間の姿で、人間の目を持っている。彼の目には、それがどう見えているだろうか。
僕たちが同じ景色を見る事が出来るのは、この夢の中だけだった。僕は晴れ渡った、あの薄い青をした空の美しさを知っている。でも実は彼は、もっと美しい空の色を知っているのかもしれない。彼ら魚のことが心底羨ましいと思った。
君と同じ色を見ながら同じ水槽を泳ぐことが出来るなら。そんな想像が泡と一緒に、天井へと昇っていく。
その時、ぺら、ぺら、とリズム良く捲られていた紙の音がピタリととまった。
「かがみ!」
見れば、それは観葉植物が至る所に置かれた、緑の溢れ出す部屋の写真だった。植物園のようなそこに最低限の家具が置かれている中、全身を写すための大きな鏡が置かれている。
「そう。大きい鏡だね」
「もう、こわくない。これは、あぶなくないから」
「……そうだね」
好奇心旺盛な“貴婦人”が鏡の存在を知ることは時間の問題だった。辞書で『鏡』という言葉を見つけてこれはなんだと問うて来た日、僕は決心をして彼を鏡の前に連れて行った。
最初は驚いていたが、やがて鏡に触れて、その正体をなんとなく理解したようだった。
「あぶなくない、よかった」
彼はそう、小さく呟いた。
詳しく聞けば、彼の生まれ育った環境はかなり劣悪であり、ヒレのほつれや傷もその時に出来た物なのだそうだ。同じ水槽に何匹もベタを入れるのはタブーだと店員さんから教えられていたので、“貴婦人”が話してくれたその生い立ちは信じがたい物だったが、現実で何度も目にしてきた彼の傷だらけの体が全て嘘ではないことを物語っていた。
「もう、だれも死んでほしくない」
そう口にした彼の目を、僕は一生忘れないだろう。”貴婦人”の目は外の淡い光に照らされていたが、中身に泥が詰まっているかのような虚ろさを感じた。
そんな彼でさえ、僕は美しいと思ってしまった。暗い過去の上で踠き続ける夜色の鰭も、過去に濁った黒い目でさえ。ぞっとするような出立ちで、僕を試すように見つめてくる彼の中の彼と、相対しているような心地だった。
「かやの?」
僕は慌てて意識を現在に戻す。“貴婦人”は突然黙った僕の顔を不思議そうに覗き込み、「だいじょうぶ?」
と首を傾げていた。
彼の瞳は気泡を含んでキラキラと光る川を閉じ込めた宝石のようで、僕のお気に入りだった。見れば見るほど現実感の無いその存在だけが、僕を夢に引き摺り込んでくれる。
彼は悪戯っ子のように笑って、ぽこぽことその口から小さな泡を吐き出す。僕も息を吐くと、彼と同じような小さな泡が口から零れていった。二人の零した泡がぶつかってひとつになってまた分かれて、まるで踊っているように、楽しそうに、どこまでも一緒に登っていく。
それを見るだけで、なんだか胸が締め付けられるようだった。痛みを伴って僕の体中を巡っていくこの液体の名前に、なんと名前を付けたらいいのか分からなかった。
夢から覚めた後も、心臓が激しく鳴っていた。暖かくて冷たい海に抱きしめられて、このまま窒息してしまいたかった。僕はしばらくベッドの上から動けなかったが、ようやく上半身を起こせたのは携帯の着信が鳴ったからだった。
画面には「早羽田くん」とあった。僕は五秒ほどたっぷり迷ったあと、電話に出る。
「茅野くん、元気かい」
出会った時から変わらない爽やかな声が携帯越しに届く。
「久しぶり。僕は元気かな。最近会えてなかったね」
「あれ以外の授業は時々出られない時もあったからね。ゼミ全体でコンテストに出ることになっちゃってさ」
「ああ、恒例だもんね、君のゼミのコンテスト出場……」
「忙しくて全然茅野君に会えてなかったんだけどさ、君に渡したいものがあって。次学校に来るのはいつ?」
「今日、かな。三限からなんだ」
「わかった。じゃあ三限終わり、図書館前で待ってるよ」
僕たちは簡単に別れの挨拶をして、電話を切った。通話終了のボタンを押した瞬間、僕の心臓が目を覚ましたかのように強く鳴り始める。
彼が僕に渡したいもの。何か約束していただろうか?しばらく頭を捻っていたが、何も思いつかない。
鳴野君と話してから、僕は早羽田君を避ける様になっていた。もちろん彼と一緒にやっていた課題は無事終わらせたし、彼とも違和感のない離れ方が出来ていた様に思う。僕は何も失敗していないはずだ。何も頼まれることはない。
僕は自分に何度もそう言い聞かせてからようやく床に足をおろし、準備を始める。
水槽で苦しそうに暴れる”貴婦人”に気づくのは、それからすぐ後のことだった。




