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5話

 美術館の中は薄暗くて、涼しかった。僕の横を歩いていく人達は誘蛾灯に向かっていく蛾のように、次々と淡く照らされた絵画の前に吸い込まれていく。

 僕がかつて、美術館で唯一楽しみにしていた光景だった。


 中学生の僕はまだ、美しい、と言われるものの良さがわかっていなかったように思う。美術と呼ばれるものなんかは、むしろ嫌いだった。自分にも描けそうな普通の絵が額縁に飾られて、偉そうに壁に凭れているだけだ。それを自慢げに見せびらかしているこの施設が、なんだか馬鹿馬鹿しくて嫌いなくらいだった。


 そんな僕でも気になった絵がひとつだけあった。僕は人だかりに紛れてうんと首を伸ばすが、人垣は厚く、高い。背伸びをしたところで目の前は黒い頭ばかりで、絵の端さえ見えない。


 こんな人だかりを作るキャンバスにどんな絵が描かれているのか、見てやりたかった。なんだ、大したこと無かったなと、鼻で笑ってやりたいと思ったのだ。

 しかしここまで来たらもうやけだった。アキレス腱が悲鳴をあげるのも気にせず、僕はもう一度背伸びをする。


 その時、目の前にあったいちばん大きな頭が横にずれ、その絵が目の前に現れた。


 それは最初、普通の絵と同じように四角い額縁に収められていた。しかし次の瞬間、その中心で赤い何かが動き、蛸の足のように激しくうねる。

 

 そして、まっすぐ僕へ飛びかかった。

 

 その先は花が開くように裂けて、鳥の鉤爪の様に鋭く研ぎ澄まされていた。それは赤黒くて、怪しく光を反射している。

 僕は一瞬のことで理解しきれず、息を吸うのも忘れて目を瞑った。


 次の瞬間、訪れるはずの衝撃は思っていたよりぬるかった。

 よく見る天井、いつも見る目覚めた時の景色がそこにある。バクバクと心臓が強く胸を打って、痛いくらいだった。

 

 僕は時々、この夢を見ることがある。中学生の野外学習で見た、ある絵を見た瞬間の回想だ。


 実際に何が描かれていたのか、今はもう思い出すことが出来ない。ただこの絵を見た時の衝撃だけが、形を変えて夢に現れる。僕が忘れぬよう、記憶を刷り込むように、何度も。


 また、目を瞑った。心臓はまだ暴れている。

 忘れるわけが無い。僕はあの時から、美しいものに囚われている。形は関係ない。僕が美しいと思ったものには、呪いみたいに体が勝手に引き寄せられる。

 あの手で喉を掴まれるような衝撃を、また味わうために。呪いという名の欲が、僕を美しいものに引き寄せ続けている。


 僕のため息は銀色のあぶくとなって、くるくると形を変えながら天井へ登っていく。


 飛び起きた。

 

 いつの間にか部屋は水で満たされて、あの日と同じ夜明けの光で照らされている。そして仰向けで寝転がる僕の横には、当然のように彼がいた。僕が跳ね起きたことに驚き、静かに目を丸くしている。


 彼の声は、前回の夢から一度も聞いたことがない。しかしその表情は豊かで、何を考えているかは手に取るように分かった。


 目が合った、かと思えば、”貴婦人”はその大きな目をさらに大きくして飛び退いた。とろとろと光を絡ませた半透明の裾が、生き物のように彼の動きを追いかける。僕は戸惑い、その紺色に靡く髪を追いかけようと腰を上げたが、辞めた。


 彼の目は、明らかに怯えているそれだった。彼の怖がるものを考えると、それは簡単に想像がつく。

 鏡だ。

 彼が至近距離で見た僕の目は、鏡のように彼の姿を写し出していたのだろう。反射的に逃げるのも仕方が無いのかもしれない。


「”貴婦人”」

 水中にいるはずなのに、喉は酷く乾いていた。

 緊張した様子の”貴婦人”は僕の言っていることが分からない、と言うように首を傾げる。薄い唇は何度かぱくぱくと動いたが、声は出ていなかった。彼は声の出し方や言葉さえ知らない。水の中の世界で、それは必要ないからだ。

 

 僕は大袈裟な動きで自分の目を指さした後、両腕を左右へ水平に伸ばした。僕の目、セーフ。安全というジェスチャーのつもりだった。

 

 腕を水平に伸ばした僕と、それを警戒するように見つめる”貴婦人”の間を、幾つものあぶくが昇っていく。


 結果、”貴婦人”は不思議そうに首を傾げるだけだった。冷静になって考えれば、言葉を知らない人外に審判ジェスチャーが伝わるはずはない。野球はここでは共通言語になりえなかった。


 前提として、まず言葉を理解してもらう必要があるかもしれない。耳は聞こえるようだし、匙を投げるにはまだまだ早い。”貴婦人”は落下の影からひょこっと顔を出し、こちらの様子を伺っている。


 次に僕は、再び自分を指さし「か、や、の」と彼に言った。産まれたばかりの子供に言葉を覚えさせる親のように、何度も言い聞かせる。


 ”貴婦人”はきらきらと目を輝かせ、僕の口から出る音を見つめた。


「分かる?か、や、の」

「…………ぁ゙」


 最初、僕は椅子が軋んだのだと思った。しかしその音は次々と音を発し、「ぁ゙」「あ」「お」と言った具合に、言葉のように聞こえる。見れば、彼の眉間には深いシワが寄っており、僕の口をじっと見ているようだった。

 

 それは木の歪む音ではなく、彼が喉から声を絞り出す音だったのだ。

 僕の声を真似して、言葉を綴ろうとしているのだ。僕は嬉しくて、何度も「か、や、の」と教えた。喉の力を抜き、口を上手く開ければ声が出る。当たり前のことを一つ一つ、真剣に学ぼうとする彼の姿は、初めて会った時より少し幼く見えた。


 やがてその努力の成果があり、「か、あ、の」という甘い発音ながらも、僕の名前を呼ぶことができるようになった。最初の鴉のような声から一変、テノールのような広く暖かい声を出せるようになった。


 美しい彼がまた美しい物を手に取って、その輝きをさらに際立たせている。それも、僕の働きによって。その瞬間に立ち会えた事が嬉しくて、僕は笑った。

 誰かの為に笑ったのは、随分久しぶりだ。すり減った心が、暖かい海で満たされていく。


 ”貴婦人”はそんな僕をじっと見つめて、真似をするように口角を上げた。

 僕はハッとする。彼は左頬だけを上げて、こちらを楽しそうに見つめていた。まるでそれは、右頬だけをあげる僕の鏡だ。


 彼は呆気にとられている僕の前に泳ぎ出ると、僕の片頬をぐいと上げた。見なくても、それが左右対称になるように持ち上げられたのだとわかる。

 そうして彼は、満足そうに笑った。それは先程とは違う、完成された美しい笑顔だ。


「おそろいだね」

「お……」

「お、そ、ろ、い」

「おそよ、い」

 

 そうそうと僕が頷くと、彼はさらに嬉しそうにした。


 その後も、彼は様々な物に興味を示した。これは?これは?と部屋の中を泳いでは至るものに指を指し、名前を尋ねる。僕の言葉を真似して、くすくす笑う。


 僕は目が覚めてからも、暖かい光の中でしばらくぼうっとしていた。太陽を隠して淡い光を放つ白い朝空を眺めながら、僕にしか分からない喜びを噛み締めて、幸福に浸っていた。

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