4話
僕はペダルを必死に漕ぎながら、何度目かも分からない後悔を噛み締める。こめかみに垂れる汗が、風によって肌の温度を下げているのを感じた。
僕が言いたいこと。すなわち、世の中に美味しいだけの話なんか無いということだ。僕のように家と学校が近いことと家賃だけを気にして一人暮らしの部屋を決めれば、大学の西側——僕の家の方向には急な坂道が四つもあることを知らずに自転車登校の申請をする羽目になるだろう。
授業が無い日はバイトに行くか家でのんびりしているかが常のため、こんな日にまで坂に苦しむ必要はない。言うまでもなく、早羽田くんとの用事があるからである。
僕は図書館の向かい合って座れる机に陣取り、ノートパソコンを取り出した。早羽田くんが来る前に、軽く決まっていることは纏めようと思ったのだ。
しかし数行進んだところで、僕の集中力は簡単に切れてしまう。瞬きをする度、ちらちらと昨日の光景が目に浮かんでしまうのだ。
”貴婦人”は僕のイメージ通りの姿で僕の前に現れた。夜明けの暗く明るいワンルームの中で、僕は光に触れたのだと思った。青みがかった紅が、未だ目に焼き付いている。
目が覚めた瞬間はショックだったが、僕は落ち込むことなく朝を始めることができた。なぜか?自分の部屋を隅々まで探して夢である証拠を見つける間に、確信が心の中に芽生えていたからだ。
“貴婦人”は必ず、再び僕に会いにきてくれると。
「茅野先輩?」
名前を呼ばれ、僕ははっと顔をあげる。焦点を眼前に合わせていくと、顔の横を刈り上げた茶髪の男がこちらを覗き込んでいるのが分かった。大学内外問わず、僕に声を掛けてくる人は限られている。知り合いの名前を思い出すことは容易だが、ここで彼の姿を見ることになるとは。
「な、鳴弥くん?なんで?」
彼はピースして、人懐こそうな笑顔を見せる。顔が近づいたぶん、鼻の横と下に出来たニキビがよく見えた。
「感動の再会!と思ってたら、先輩ぼーっとしてたんで台無しっす」
「感動も何も昨日バイトで会ったでしょ……なんでこんな所にいるの?君、高校生じゃなかった?」
「はい!高校生なんで、オーキャン来てるんすよ」
僕はそう言われてから、そんなポスターが掲示板に貼ってあったことをぼんやりと思い出した。
「オーキャンってこんな早い時期にやってるんだ。熱心なんだね」
「はい!結構前からこの大学は目付けてたんすけど、そうか、まさか先輩がこの大学入ってると思わなくって……オーキャン来てよかったっす!飯とか行きますか?!」
勢いで気圧されそうになるが、そうもいかない。僕は首を横に振り、笑ってみせる。片頬が上手く持ち上がらないので不格好な、左右非対称の笑顔。
「ごめん、これから早羽田くんと打ち合わせなんだ」
「早羽田先輩!」
鳴弥くんが勢いよくこちらに近づいてくるので、思わず仰け反る。近づきすぎて机にぶつかる鈍い音も聞こえた。
「さっき早羽田先輩見たんすよ!それで思い出した!」
「え、そうなの?」
「説明会でステージ立って話してたっす」
彼もオーキャンに出演していたのか。
「初耳なんだけれど。ゼミの成果発表?」
「はい!あと部活の紹介とかしてました」
「ああ、部活もか。それにしても、よく顔まで覚えてたね。バイト先で何回か会ってたんだっけ?」
「はい。それに、茅野先輩とあんなに仲良しそうに話す人なんて中々いませんし。俺顔覚えんの得意なんで、他の常連さんも結構覚えてますよ」
僕と鳴弥くんが働く古本屋は、早羽田くんの行きつけだった。思えば僕と早羽田くんはそこで出会って仲良くなった。しばらくして同じ大学だったことがわかり、大学でもつるむようになったのだ。
「そんなに楽しそうに話してたかな、僕」
「話してましたよ!他愛のない、当たり障りのない話を延々と」
「本当に楽しそうだった?僕」
「あ、でも、俺いっこすげえと思ったことあって」
何故か彼は得意げに片眉を上げ、続けた。
「こっそり聞いてたんすけど、『空の色の中で一番綺麗なのは夜明けだ』って話、してたことありませんでした?」
「ああ……」
僕たちにとっては、それも当たり障りのない会話だった。早羽田くんが一番好きな時間帯の空を聞いてきたので、僕が夜明けだと答えただけだ。彼は夕焼けと答えた。
「うん、してたかも」
「俺それ聞いて、マジで感動したんすよ。これがロマンチストか!って」
「ロマンチスト……なのかな」
「夜明けと夕焼けが好きな人は、大抵ロマンチストっすよ」
大真面目な顔で言うものだから、僕は笑ってしまう。間違いなくそれは暴論だったが、反論はなかった。
そうして話していると、机の上にあった僕のスマートフォンが鳴った。早羽田くんからのメッセージだ。僕と鳴弥くんはスマートフォンを覗き込む。
『本当にごめん。バタバタしていて全く連絡ができなかった。』
『急遽ゼミでの進捗報告に出ることになってしまって。せっかく来てくれたのにごめんね。埋め合わせは必ずするよ、本当に申し訳ない。また連絡する』
「うわあ」
呆然と画面を見る横からその文字を見た鳴弥くんが、酷いものを見たとでも言わんばかりの声を出した。
「早羽田先輩ってこういうタイプか……」
「タイプ?」
「早羽田先輩みたいな人って、誰の特別にもなれちゃう人なんすよ。相手に『深い関係になれているんだ』って思わせちゃうことが多い傾向がある感じっていうか。でもその人自身は案外、誰の事も見ていなかったりする」
「確かに、こういうことはしょっちゅうあるけど……」
早羽田くんは人気者で、忙しい。僕と遊んだり、授業の課題のひとつを終わらせることよりも重要なものが、彼の周りには溢れているのだ。
だから、仕方ないと思っていた。僕は早羽田くんみたいに重要な何かを担っている訳じゃない。何者でもない僕は、彼が帰ってくるのをただ待っているだけだ。それがいつのまにか、僕たちの当たり前となっている。
「もっと自分のこと大事にしてもいいんじゃないすか」
そう言う鳴弥くんの声はいつもより優しくて、僕はハッとする。
「早羽田先輩はかっこいいし、仕事もできるすげー人だっていうのは何となく分かるっすけど。それが茅野先輩を蔑ろにする理由にはならないっす」
「でも僕は暇だからさ」
「俺だったらショックっすけどね。自分の時間タダだと思われてるみたいで」
僕は頭を掻き、それでも早羽田くんのことを悪くは思えなかった。
きっと鳴弥くんの言うような酷い人もいるのだろう。しかし早羽田くんが僕の時間が無限だと思うような馬鹿だとも、雑に扱うような無礼な人だとも思えない。
想像の中で、早羽田くんの顔が歪む。彼の事を知るほど、分からなくなっていく。僕は彼の美しい所が好きだった。しかしそれはただ、彼の美しいところだけを見ていただけなのだとしたら?
画面の消えた黒い液晶には、左頬の上がらない僕の顔が未だ張り付いている。




