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3話

紺色の新人は、すぐに新しい環境に慣れたようだった。僕の買った立方体のような小さな水槽には、水草や砂利が控えめに入っていた。ベタという品種は鰭が大きい分、傷つきやすいというリスクがある。大きい岩を置いてしまうと、底まで潜り込んだ時に鰭が引っかかってしまうことがあるそうだ。そのため水槽には背の低い水草を少しと、角のない丸い砂利を敷き詰めた。すべて店員の受け売りである。


 “貴婦人”のためだけの空間を、僕は存外気に入っていた。大学からクタクタになって帰ってきても、この水槽を眺めれば心が安らぐ。ベタは餌をくれる僕の顔を覚えるようになったのか、水槽の外に僕が現れるとゆらゆらと近寄ってきて、大きな目で僕を見上げた。その高貴さとあざとさが愛おしくて、僕は夢中になった。


 僕はあの店とこの部屋の差を埋めるべく水槽の高さや照明の色など、数日かけて環境を整えた。照明を変えたのは引っ越してきて初めてだったが、光の色や強さ一つでこんなに部屋の見え方が変わることに驚く。こんな小さな魚一匹のためにこんなことまでしなければならないのか。やはり生き物を飼うというのは我慢と適応力の必要な所業である。


 やがて自分の部屋に水槽があることに慣れて来た頃、僕は店員に教えてもらったフレアリングを実践することにした。わざわざ百均で購入してきた手鏡を片手に、よしと意気込む。いざ、水槽にゆっくりと近づけた。“貴婦人”はすぐにその鏡には気づかなかった。


 しかし、僕がいくら環境を変えても“貴婦人”はフレアリングをしてくれることはなかった。鏡に目を向けることはあるが、すぐに目を逸らしてしまう。果敢に向かっていくどころか、水草の影にわざわざ隠れようとするほどの怯えっぷりだった。


 棒のように固まった足をなんとか動かし、ようやく家につく。満月を終え、またゆっくりと半月に近づいていく歪な丸が、モヤのような雲と一緒に浮いていた。こんな時間になるまで学校で作業をするなんて、初めてのことだった。


 あれから一週間、結局アンケート準備を早羽田くんが手伝ってくれることはなかった。彼はバドミントンサークルのムードメーカーであり、優秀者の所属するゼミの中でも中心人物であると聞く。「共同レポートの件、進めてくれて助かるよ。明日はゼミの打ち合わせがあるから16時以降は厳しいけれど、何かできることがあったら言って」なんてメッセージが来ていたものだから、怒ることも難しい。


「ありがとう」も「ごめんなさい」も知っている人格者には、貢献してしまいたくなるものだ。人間は美形に貢ぎたくなる生き物らしいが、もっともだ。


 僕は部屋で1人、自嘲の笑みをこぼしてしまう。何が人格者だ。結局僕に全部押し付けただけだ。彼は凄い人?なんでもこなせる?違う。そうして輝いている人の陰で、見えない苦労や恨みが隠れているのだと、僕は思い知った。早羽田くんが白鳥なら、僕はその足だ。

 僕はベッドに倒れ込み、あっという間に眠りについた。

 

 ふと、目が覚める。あれからずいぶんと眠ってしまっていたらしい。起き上がって窓を見ると、すでに夜明けだった。時計はまだよく見えない。おそらく午前4時と言ったところだろう。


もう一度眠るか、と横になったところで突然、ちゃぷ、という間の抜けた水の音がどこからか聞こえた。僕はぼんやりと、“貴婦人”の水槽を見る。ちゃぷ、ちゃぷ、とベタが水槽で暴れている音だった。今まで、こんなに暴れる彼を見たことはない。僕は跳ね起き、慌てて水槽に駆け寄った。


ベタは苦しそうな様子はなく、むしろ華麗に水槽の上へジャンプしていた。いるかが頭上のビニールボール目掛けて飛ぶように、“貴婦人”が勢いをつけて飛び上がる。パシャ、パシャ、と着水するたびに、水が部屋中に飛び散り、床にどんどん溜まっていく。気づけば水面はは僕のくるぶしまで来ていた。それでも彼は、飛び上がるのをやめない。


 突然、勢いをつけて飛び出したベタがこちらに向かって飛んでくる。僕は情けない声をあげ、ベタと一緒に尻餅をついた___と思ったが、尻に痛みはない。僕の口から出た泡が、目の前を上がっていく。水槽の中に入ってしまった?いや、僕の部屋に水が満たされているのだ。シングルベッドも、デスクも、カウンターに置いていた小さなサボテンも。全部、浮き上がる。その下に溜まっていた空気も、くるくると丸くなって上がっていく。


これは、なんだ?苦しくないのに、体には確かに水の抵抗がある。そしてありがたいことに、息は出来るようだった。そういえばベタはどこへ?とあたりを見渡す。ベタの姿はない。僕ははっと息を呑む。窓際に、いつの間にか人がいたからだ。見覚えは無い。でも、僕はその藍色をよく知っていた。


「___“貴婦人”?」


 恐る恐る呼びかけると、その人物は水の抵抗などまるで無いかのように振り向いた。


腰まで伸びた紺色だけが、その動きにスローモーションのようについてくる。菫色のふわりとしたワンピースに付いた朱色のブローチが、泡を反射してきらりと光った。ゆっくりと開いたまぶたからは黒い真珠が二つ覗き、こちらを捉えていた。


それはそれは美しい女性…….僕が彼のことを貴婦人だと気付かなければ、そう勘違いしていただろう。僕の呼びかけに答えるように、珊瑚色の唇が割れ、小さく震えた。声は聞こえない。しかし、何かを伝えようとしているのはその大きな目が物語っている。真っ黒な目は夜明けの様々な色で輝いていた。小さな泉に色とりどりの魚が泳いでいるみたいで、僕は目を離す事が出来ない。彼はそれに気がついたのか照れくさそうに笑うと、胸に手を当てて頭を軽く下げた。それは丁寧な挨拶のジェスチャーだった。


 間違いない。“貴婦人”は僕と同じ姿をして、そこに立っている。“貴婦人”が人間だったらこういう容姿で、こういう動きをして、こういう表情を浮かべるのだろうという僕の想像そのままの姿で、そこに立っているのだ。

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