2話
早羽田くんの家から帰る途中、ふと思い立った僕はホームセンターに立ち寄った。
庭を手入れする道具やキャンプ用品が並ぶ中、雰囲気の違う一角の前で足を止める。
そこは飼育魚を売っているコーナーだった。近づくだけでも分かりやすく水槽がいくつも置いてあり、グッピーが餌を求めて水槽の上を泳いだり、アロワナがゆっくりと旋回したりしている。僕はしばらくグッピーを見た後、さらに奥へ進んだ。
ライトアップされ、所狭しと並んでいる小さな水槽の中で、朱色の金魚たちは一際目立った。群青の中を、鱗を纏った丸々とした魚たちが悠々と泳いでいくのにも、僕はやっぱり見入ってしまう。
僕は早羽田くんの家にいたグッピーに、すっかり魅了されてしまっていた。早く僕の部屋にも鮮やかな魚を迎えたい。そうしたら僕も早羽田くんみたいに、誰かの憧れになれるだろうか?僕は小さな魚の群れを見ながら、誰にも気づかれないようにため息をついた。
早羽田くんは凄い人だ。彼が「やってみるよ」と言えば人並み以上の物が出てくるし、「少し考えてみる」と言ってからしばらくすれば的確で斬新なアイデアが飛び出す。
僕は早羽田くんと、自分の部屋と、財布を頭で見比べながら魚を吟味した。金魚すくいで見るような、すらっとした小赤が無難だろうか。と思考が落ち着いたところで、ふと豪奢な桔梗色が視界に触れる。
見るとそれは金魚と同じほどの体長でありながら、それと同じくらい大きな鰭を持っていた。その水槽にはその一匹しか入っておらず、何層にも重なったそれを揺らしている。17世紀ヨーロッパのドレスを着たまま泳いでいるようだ。濃紺が周りの水槽を泳ぐ朱色に映えて、その美しさを際立たせているようである。
僕が見とれていると、後ろからこちらに近づく気配がした。
「そちら、最近入荷いたしましてね」
僕が振り返ると、黒いエプロンを着た店員がにこやかに立っていた。整えられたヒゲが、どことなくベテランを感じさせられる。店員は「魚を飼うのは初めてですか?」と尋ねて来たので、僕は頷いた。
「実家でも飼ったことがなくて。この魚を飼うのは厳しいですか?」
こうした綺麗な魚は飼育方法が面倒なのではないかと思ってしまう。 美しいものは総じてわがままであり、わがままであるからこそ美貌を保つことができるという潜在意識が、僕の中にはなんとなくある。しかし店員は僕の考えに対して、いえいえと首を横に振った。
「実は、ベタはとても扱いやすい種類なんです。初心者向けのお魚の一つなので、お客様にピッタリですよ」
なるほど、と僕は再び水槽を覗きこみ、自分の部屋の片隅で泳ぐこの魚を想像する。僕のシンプルな部屋には豪華すぎるような気もしたが、その奇特さも僕は気に入っていた。
「この魚が気になっていて」
僕は先ほどからほとんど位置を変えず、尾鰭をわずかに動かす夜色を指差す。しかし店員は顔を顰めた。
「ああ……本当に、この子で大丈夫ですか?」
何か言い淀んでいるような、戸惑っているような様子に急に不安になる。
「えっと、いいなと思っていたんですけれど、何か、その……」
「ああ、すみません。実はここに書いてある通り、この子はちょっと、傷が多くて……」
傷? 僕は水槽に顔を近づけ、その魚に目を凝らす。言われてみれば鰭は周りの魚に比べて随分ボソボソになっているし、ところどころ鱗も剥がれて白っぽくなっていた。
「あ、これ……」
「ここに来る前に飼育していた場所の環境が悪かったらしく、すでにこの状態でした。優しい方に買い取ってもらえたら、と思い置いていたのですが」
いかがされますか?と店員は僕の顔を窺ってくる。僕は水槽から顔を離し、改めてベタを見た。距離があるので傷はほとんど見えないし、鰭の傷も気にならない。むしろ鱗の剥がれた部分が白く浮かぶので、濃紺の空に浮かぶ星のように美しく見えた。
気づけば僕は、この魚を購入していた。言われるがままに水槽や水草、餌なんかも買い揃え、気持ちの昂りをそのままに、ベタを自宅に迎えた。しうを迎えた頃にはすっかり夜になっており、月は雲に隠れて暗かった。部屋の中でベタを見た時、その体がほとんど黒くて見えなかったのを覚えている。しかし鰭がわずかに動くたび、ちらちらとその影はわずかに光を反射し、やはり美しかった。
名前をつけるのには、かなり時間を要した。名付けは責任を伴うが、気持ちが昂る。どのように生きて欲しいか願いを込める、タイトルを考える画家のような気分になる。名前は長考したが、結局“貴婦人”と名付けた。もしこのベタが日本語を理解するのなら、申し訳ない気持ちになる。
言うまでもなく、この鰭の大きなベタはオスだからだ。
ベタのオスは気性が荒く、他のオスを同じ水槽に入れることは非常に危険ですからね、と店員は丁寧にベタの性質について教えてくれた。
「ベタはタイの方言から来た名前でして、日本名は闘魚。闘う、魚と呼ばれるほどです。他のオスを入れてしまった場合、どちらかが動けなくなるまで噛み付き合うなんてことも起きてしまいますから、おすすめしません」
僕が頷くと、店員は「ただ、」と加えつけた。
「鰭の癒着を防ぐため、フレアリングは必ず行っていただきます」
フレアリング、と僕は聞き慣れないその単語を反復した。
「はい。フレアリングというのは、エラを大きく広げて胸鰭をバタバタと動かすことで、縄張りを主張するなど威嚇する行為のことになります。ヒレの美しさを保つためには、どうしてもこのフレアリングが必要なんです」
一日3分くらいを目安にしてください、と店員は言った。
「つまりそれって、ベタは2匹買わなくてはいけないということでしょうか」
「その必要はありません。ご自宅に手鏡なんかがありましたら、そちらを使って行うこともできます」
店員はこのように、と手鏡を取り出すと、店頭に並ぶベタの一つに向けた。ベタはこちらにすぐに気がついて、胸鰭をすごい速さで動かし突撃してくる。僕はなるほど、と口では言いながら、こっそりそれから目を逸らした。鏡の自分に向かって懸命に威嚇をしている姿は、なんとなく見続けることが出来ない。
それはそこには敵なんかいないのに、「鏡」という存在を知らないせいで怒ってしまうベタの無知から来るのか、純粋にぐぱりと開いたエラから覗く真っ赤で繊維質な肉を直視出来ないからかわからない。きっと、どちらもだろう。




