1話
黒く縁取られた家庭用水槽の中で、グッピーが群れをなして泳いでいる。右へ左へ、統率の取れた動きは洗練されているが、その流れに厳しい規則はない。修学旅行中の学生のようだと例えるには統率がとられすぎており、軍隊と例えるにはその流れに信念を感じられない。
「気に入ってくれた?」
はっと僕が顔を上げると、このワンルームの家主である早羽田くんがダイニングテーブルに頬杖をついて、こちらをどこか嬉しそうに眺めているので、僕は恥ずかしくなった。
「とても綺麗だ。こんなにたくさんお世話できるなんて、やっぱり早羽田くんはすごいね」
「慣れれば簡単さ」
早羽田くんは穏やかにそう言って僕の隣に立つと、水槽を優しくこづいた。水槽の底には砂利が敷かれていて、小さなエビがそれを掘っている。
講義の課題の一つである共同レポートの制作を進めるため、同じ班である早羽田くんの家に来ていた。早羽田くんは僕と同じ一人暮らしなのに、生活感のないモデルルームのような家に住んでいる。僕は玄関にアロマスティックを置いたことはないし、観葉植物だって一つもない。早羽田くんは僕が驚くたび「大袈裟だよ」と笑っていたが、僕は同じ大学生でもここまで差がつくのかというショックをどうしても隠せなかった。
「気になるんだったら一匹だけでも買ってみるのはどうだい?世話が簡単なものであれば、茅野くんだって育てられるんじゃないかな」
「どうかな。動物を飼ったことがないんだよ」
「本当に?一度も?」
「小学校で配られたメダカくらいかな……すぐ死んでしまったけれど」
僕がそう言うと、早羽田くんは「僕の小学校もメダカだったよ。懐かしいな」と嬉々として笑い、それにと続ける。
「あれは環境も良くない。人数分の空気ポンプが用意できないのであれば、結果は目に見えている」
そんな言葉で一気に小学生の頃の記憶が蘇り、僕は身震いした。生徒たち1人に一つ、大きなペットボトルを繰り抜いたものに水と水草を入れ、そこにメスとオスそれぞれのメダカを入れる。窓際にずらりと並べられたそれは壮観で、最初の方は皆授業よりも自分のメダカが元気かどうか、そればかり気にしていた。
僕はある日、ペットボトルの掃除をするために小さなカップに避けたメダカを、手を滑らせたせいでカップごとシンクに落としてしまったのだ。排水溝にはネットがかかっていたので流されはしなかったが、そこでバタバタと苦しそうに踠くそれが恐ろしくて、僕は相当な決心をしなければ助け出すことができなかった。苦しみも悲しみもない、真っ黒な目が時間を超えて覗き込んでくるようだ。それは助けた頃にはもう遅く、水に戻してもただプカリと水に浮かぶだけだった。
もう2度と動くことのない鰭や口が、あの時僕に無慈悲な「死」を刻み込む。エサも忘れずあげていたし、水槽の掃除も同級生と同じくやっていた記憶がある。それでも死なせてしまったやるせなさや、制御の出来ない命に漠然とした恐怖を感じ、それから生き物を買いたいと言ったことは一度もなかった。
「まあ、もし気になるんだったら観賞魚を見に行ってみるといいよ。駅前にあるホームセンターがあるだろう?あそこの奥に大きくはないが、水槽の並ぶスペースがあるんだ」
僕はぼんやりと、自分の部屋にこんな水槽があったら……と想像する。僕の部屋にはダイニングテーブルとチェア、ベッド、衣装棚なんかの最低限な家具しかない。趣味もないので、部屋に物が溜まらないのだ。おかげで掃除はしやすいが、正直自分の部屋は悪い意味でありきたりだった。ここで一つ個性を出して、早羽田くんのように魚を飼うのがいいかもしれない。
「そうそう、さっき話していたターゲットについてだけれど、やっぱり大学内に止まらなくていいと思うんだよね」
早羽田くんの一声で、一気に現実に引き戻される。泡摸大学経営学科は、1年生からマーケティングを自分の手で体験出来るのが大きな利点と言えるだろう。売り込むものは指定されているので、1年はまずそれをどう売り込むかを学ぶため、少人数のグループでその方法を試すのだ。
「学外の学生にも声をかけるってこと?」
「そういうことになるね。アンケート形式で駅なんかで声掛けすれば、もっとたくさん判例が手に入ると思うんだ」
僕は出してもらった麦茶を一口含む。確かに判例が多い方が正確な結果を得られるに違いないが、それは大学内で十分事足りるものだ。駅でアンケートを配るのであればそういったブースを制作する必要があるだろう。あの寂れた駅の一角を借りるための許可も取らなければならない。
僕はその面倒臭さと、それで得られるアンケートの数を天秤にかける。
「ポスターを作成した方がいいんじゃないかな。そうすれば駅の中に僕たちがいなくても、目に留まった人がQRコードを読み込むことでアンケートを集めることもできる。確かに判例は量が必要ではあるけれど、学外は+αと考える方がいいんじゃないかな」
面倒臭さの圧勝である。
「いや、茅野くん」
僕の意見にきらりと目を光らせ、早羽田くんがずいと机に乗りだす。
「この授業の担任である藻澤先生は、評定がかなり厳しいのは君も知っているだろう?授業やレポートに対しての姿勢、意欲は高い方が評価は良いものになる」
「手間がかかり過ぎるよ……」
「そして、国野先生も電車通勤なんだ。僕たちの活動は、必ずと言っていいほど目に入る」
無駄にはならないはずだ、と早羽田は言い切った。その自信たっぷりな目に僕は何も言えなくなり、そっとため息をついて言った。
「そこまで言うなら分かったよ。時間もないから協力しよう」
「そう来なくっちゃ」
早羽田くんは爽やかに笑った。




