7話
3話(2)
「かやのは、なにが好き?」
いつだったか、彼にそう聞かれたことがある。
彼の手には『一生モノの趣味、探そう』というトピックと若い女性二人が陶芸を楽しんでいる表紙を持つ雑誌があって、期待の輝きを含んだ瞳がこちらを見上げていた。
「趣味のこと?」
「しゅみ。どくしょや、りょうり、音がくかんしょうのこと」
「どれも僕がやっている事だね」
「それが、かやののしゅみ?」
趣味、なんだろうか。僕は上体を起こし、顎に指を当てる。
「僕のそれはちょっと違うかも。趣味ってさ、もっと楽しくて、満たされないもののことを言うんだと思うんだ」
「みたされない?」
"貴婦人"は首を傾げたが、言い間違いではなかった。
「満たされないっていうのは悪い意味じゃなくて、それについてクリアしたいものがたくさんあるってことだと思ってさ。それに楽しいから、限度もない」
「それが一生ものの、しゅみ?」
「そう。だから趣味という概念は僕にとって凄く重要で、人の根幹を表すひとつだから簡単には答えられない」
"貴婦人"は分かったような、分からないような顔をして頷いた。
あの夢から目覚めたとき、彼は水槽で苦しそうにのたうち回っていた。
彼がガラスに何度も体を打ち付ける度にこん、こんとノックするような音がした。は救急車のサイレンに簡単に消しさられてしまうほど小さくて、それが僕にとってとても恐ろしかった。
僕はすぐにあのペットショップに電話をかけた。"貴婦人"と出会ったあの観賞魚売り場だ。電話を取り次いでもらえば、あの日と同じ店員さんがいると思った。
「申し訳ありません。山村さんは今日、お休みなんです」
「そんな……じゃ、じゃあ他の店員さんでもいいんです」
僕は矢継ぎ早に理由を説明するが、店員は「あー」と困惑を口にした。
「うちに今いるの、バイトだけなんです。すみませんけど、動物病院とか」
僕はゆっくりとスマホを下ろした。遠くで店員の声が聞こえるが、それがどういう意味の言葉なのか、僕にはもう分からない。
ガラスを叩く音は、もう聞こえなくなっていた。
「悪いね、遅くなって」
例に漏れず集合時間の五分後に、早羽田くんは小走りで現れた。
僕はこの時間にすっかり慣れて、その時間をご褒美の時間にするようになった。今日は小さなペットボトルのりんごジュースを買って、ちびちび飲んでいる。
「待ってないから大丈夫。それで、話したいことって何?」
「まあ、そんなに大したことじゃないんだけどさ」
早羽田くんはそう言って左手で頭を掻き、右手に持っていた紙袋をずいと差し出した。
「これは?」
「まあ、ちょっとしたお詫びというか」
覗き込めば、中には立方体がひとつ、入っている。その上品に光を吸収する黒い箱は、見ただけで上等なものだと分かった。
「お詫びって、どういうこと?なんの?」
「この間の……課題だよ」
僕は思わず早羽田くんを見上げた。
「茅野くんがほとんど全部一人でやってくれたの、ずっと申し訳ないと思ってたんだ。こんなもの渡すより課題を手伝った方がいいに決まってるのは、それは分かってるんだけど」
全部遅かった、と早羽田くんは苦笑いをする。自分に呆れたとでも言うように、口から息を漏らす。
「悪かったよ」
「別に、もう終わったことでしょ。……それよりさ、この箱、開けていい?」
早羽田くんが頷く。箱を持ち上げ、慎重に蓋を開ける。かぽっと空気の音がして現れたのは、ぴかぴかに磨かれた木のドームだった。箱から少し持ち上げれば金色の猫脚が四方に付いているし、その箱の上と下を分けるように溝が見える。
僕はその溝をこじ開けるようにゆっくりと力を込めた。貝のように固く口を閉じていたそれが開いた瞬間、金属音がいくつも落ちてくる。
「オルゴールだ」
それはよくある童謡を閉じ込めた、木製のオルゴールだった。
僕と早羽田くんはしばらくその音色に聞き入ったあと、軽い挨拶をして別れた。
すっかり夕方になっていた。
帰宅しても、僕を迎えるのは空っぽの水槽だけだ。それでも僕は寄り道することなく、こうしていつも通り水槽の前に立っている。
"貴婦人"は水面に浮かせたままだったから、その体は少し白くなっていた。魚特有の臭いが、以前よりも強い。
僕は紙袋とリュックを置いて、彼と目線を合わせるようにかがみ込んだ。
その腐りかけの体は、もう君がそこに居ない事を意味している。君はどこか、遠くに言ってしまったのだから。
水槽の中ではない、どこか遠くへ。
僕はその水臭い水槽に、唇を押し当てる。そうすればガラス越しの彼と同じ温度が、僕へ伝わってくるようだった。




