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――まず、妖精がいた。
彼らは火を使い、水を操り、風を読んだ。地を揺るがし、天を総べた。天は不死鳥のものだった。
北に降り立った不死鳥は妖精たちを追い払い、地を焼き尽くした。熱を失った大地は白く染まり、ただ雪の大地と成る。
そこへ獅子の咆哮が響く。獅子は南の荒野を自らの縄張りとした。妖精たちは追い立てられ、南の土地も失った。
そして中央に竜が降り立ち、大陸がひと続きとなる。四方を海に囲まれた大陸は繁栄し、新たな生命を産んだ。
竜は人々に自らの炎を授け、獅子は牙と爪と力を与えた。不死鳥は全なる力を明け渡し、大陸は人々のものとなった。
――「神獣国クレアチュール『建国神話』」より
「お姉様、ちょうどいいところに!」
両手にドレスを持ったリリアンが、朝食帰りのアデレイドを呼び止める。緋色の髪は今日も毛先まで整えられていた。翡翠の瞳の上を、長い睫毛が往復する。
「……何の用かしら?」
「冷たいわ、お姉様! やっぱり私がオーニーと結婚するのが気に入らないのね!」
寝不足で判断が遅れる。赤く縁取られたリリアンの唇が弧を描いた。
ビリビリと音を立て、リリアン自身の手で、美しいドレスがたちまち布切れへと変わっていく。
「ひどいわ! 気に入らないからってこんな……!」
「リリィ!」
大仰に足音を立て、騎士の如く舞い降りたのは予想通り、オーネットだった。アデレイドは頭を押さえる。
「あぁ、オーニー……! あなたとの婚約が決まってからまたお姉様が……」
「これは……! アデレイド!」
紛れもなく悪意だった。リリアンはオーネットの背でほくそ笑んでいる。
「お兄様――」
そいつを見ろ。その言葉は届かない。
「ごめんなさい、お姉様! 私はただお姉様に見てもらいたくて……それだけだったの! はっ……でもお姉様は婚約者に贈り物ももらえない、愛されてもいない。それなのに私……ごめんなさい!」
前半はともかく、後半は全て事実だった。
正確には見知らぬ男から身に纏うものを贈られるのが嫌で断ったのだが、結果だけ見ればそうなのだろう。以降、エランドールからのプレゼントは届かなくなった。気遣いか、本当に見限られたのか。いや、そんなことはどうでもいいはずだ。
アデレイドは涙を流す。
「お兄様……この通り、私は何もない女です……」
顔を伏せたアデレイドはギリギリと奥歯を噛み締める。
「私はただここに立って、リリアンを羨むことしかできない……そんな私に、あなたたちの幸せを壊すことができると思う?」
何度やっても、自分を卑下する芝居にだけは虫酸が走る。
「よくもそんなことが言える! リリィのドレスを引き裂いたろう! その醜い牙でな!」
石畳に爪を立てる。折れた爪から血が滲む。痛みだけがアデレイドを正気でいさせてくれた。
「なら、確認して。私が本当にしたのなら、私の牙にドレスの繊維が残っているはずよ!」
「俺にその牙に触れろと? 遂に気が触れたか!」
――えぇ、今にも触れそうよ。
噛み締めた奥歯が一本割れた。割れた歯を吐き出す。
「見て、オーニー! まるで獣だわ!」
大切なはずのドレスの切れ端を足元で踏みつけていることを、リリアンもオーネットも気にもとめない。本当に獣を相手取るかの如く、オーネットは腰の剣に手をかけた。
――やはり炎は使わない。
「確認して! 確認すれば全て分かることよ!」
「話の通じない女だ! 尻尾を振れるだけ、飼い犬の方がいくらかマシだ」
話の通じぬ獣は、どちらか。
アデレイドは立ち上がる。爪の先から血が滴る。グルグルと喉が鳴る。
「リリィ、下がれ! 遂に本性を見せやがった! 父はいつも言っていた。『ライオネルなど汚れた獣にすぎない』と!」
アデレイドは咆哮した。抑えきれないライオネルの力が溢れ出す。牙が伸び、髪が逆立つ。瞳はみるみる鋭く変わった。
「『獣を孕ませた汚れた体で母を抱けない』と! そしては母は『偉大な血』を宿した! それが俺の妻だ! 忌まわしい獣の血などいらない!」
「……もう、いいわ」
アデレイドの威圧がオーネットとリリアンを平伏させる。
「うっ……」
アデレイドはまだ二十歳だった。ライオネルで屈強な人々と真っ直ぐに育ってきた、悪意を知らぬ女だった。そして、彼女は全てを蹂躙するだけの力を持っていた。
――脳も気品もない女が、ここで何ができるか見物だな。
理性を捨て、飛び出そうとした彼女を止めたのは、皮肉にもドラコニーの侮蔑だった。
アデレイドは笑う。それは無垢な少女の笑みだった。
「なら、私を縛って。お兄様」
跪き、透明な涙を流した。
「こんなにも信用されていないと思っていなかった……私はあなたたちを心から祝福しているのに……」
「アデラ……」
オーネットは本当に「無垢に見える」涙に弱い。
「いいだろう」
「オーニー! 待って、罠だわ! 見たでしょう、さっきの牙! 殺されてしまうわ……!」
オーネットの足は簡単に止まる。下らない。なんて醜い三文芝居だろう。
「剣を突き立てて弱らせるか……」
――本気で殺すぞ、こいつら。
アデレイドは燃え上がる頭の中で、それでも思考を止めなかった。使えるもの、ヒントになるもの……その視線を射止めたのは、エランドールだった。
「可笑しいな。私には義兄と義妹で私の婚約者を虐めているようにしか見えないのだが」
「フェニクス公爵……!」
「どれ、破れてしまったのはこのドレスかな?」
エランドールの掌に黄金の光が集まっていく。ドレスは空中でみるみるうちに修復された。
「少し、足りないようだ」
エランドールの放った光がリリアンの指先から、ドレスの繊維を集めていく。
「ほら、これで完成だ」
エランドールが元に戻ったドレスを、アデレイドに手渡す。
「それは私のドレスよ!」
リリアンがひったくるのを見て、エランドールが笑う。
「ドレスの繊維がリリアン嬢の指先についていたから、てっきりアデラのものを破いて揉めているのかと思ったが……事態は思ったより複雑なようだ」
「リリアン? どういうことだ?」
「知らない! 行きましょう!」
オーネットの疑問は解消されぬまま、リリアンに引きずられるようにして、二人は去っていった。
「お手を?」
アデレイドは差し出された手を取り、立ち上がる。
「いつから見てたの?」
「ライオネルの咆哮が聞こえぬ者はいない」
「……悪趣味ね」
振り払った手は再び結ばれる。
「『俺が君を守る』と言っても、喜ばないだろ?」
「あら、フェニクスの守護を受けられるだなんて光栄だわ」
「ほらな。だからただ隣にいさせてくれ」
「え?」
「君が勝つところを一番近くで見たい」
エランドールの琥珀色の瞳には、真摯な色が灯るだけだった。
「やっぱり悪趣味だわ」
「……返事は?」
アデレイドは、力強く抱き寄せてくる腕から、滑らかに逃げ出す。
「いいわ。特等席で見せてあげる」
空を切るエランドールの手を取り、アデレイドがエスコートをする。さながら騎士と姫君だった。
「『隣で』と言ったろ」
不満げに握り直すエランドールを見て、アデレイドは声を上げて笑った。
――妖精国フェリーク、謁見の間。
白で統一された城内の玉座は白い石造りのものだった。繊細な意匠が施されたそこに白を纏った男が座る。白銀の刺繍が男の動きに合わせて揺れる。男の髪もまた白銀で、瞳は翡翠に輝いている。
「申せ」
男の一言で空は晴れ、大地は揺らぎ、風が唸る。
白い兵士たちの中央でただ一人黒を纏った男が、平伏した。
「神獣国クレアチュール公爵、サルゴン・ドラコニーが、妖精王に拝謁致します」




