自分の金で食う飯 ②
アラタも歩き出そうとしたところで、巴が呼び止めた。
「アラタ」
「む?」
「忘れてません?」
「何をじゃ」
「今日で三日目です」
アラタは少し考えた。
役所で言われたことを思い出す。
新しく来た者には、最初の三日間だけ共同宿と最低限の食事が用意される。
「……宿か」
「そうです。今夜までは今のところで寝られますけど、明日から自分で払わないと駄目ですよ」
「なるほど」
「その顔、本当に忘れてましたね」
「金を稼いだので問題なかろう」
「いくらかかるかも知らないでしょう?」
「……巴お嬢ちゃん」
「何です?」
「案内を頼む」
「最初からそう言えばいいんです」
巴は得意げに胸を張った。
夕食後、二人は町の宿をいくつか見て回った。
大通り沿いの宿は綺麗だが高い。
旅人向けの大きな宿は相部屋が多く、人の出入りも激しい。
巴が最後に連れてきたのは、大通りから一本入った場所にある小さな宿だった。
二階建ての木造で、入口は古いがよく掃除されている。軒先には干した手拭いが揺れ、奥から湯を沸かす音が聞こえた。
「ここ、そんなに高くないです」
「お主は泊まったことがあるのか?」
「知り合いが使ってました。ご飯は別ですけど、お風呂もあります」
「風呂」
アラタが止まる。
巴がじっと見る。
「今、ご飯の時より反応しませんでした?」
「気のせいじゃ」
「絶対違う」
中へ入ると、帳場にいた女将が顔を上げた。
五十代ほどに見える、丸顔の女だった。髪をきっちり後ろでまとめ、紺色の着物の袖をたすきで上げている。
巴が事情を話す。
女将はアラタを見た。
「この子が?」
「十五歳で登録してます」
「一人で泊まるのかい?」
「討伐者でもあります」
「討伐者?」
女将の目が少し変わる。
アラタは腰の仮登録証を見せた。
女将は金属札とアラタの顔を交互に見た。
「最近の子は分からないねえ」
「わしもそう思う」
「自分で言うのかい」
女将が笑った。
部屋を見せてもらう。
六畳ほどの小さな和室だった。
畳は新しくないが、きちんと干されている。壁際に低い棚と、小さな机。窓を開けると裏手の井戸と隣家の屋根が見えた。
豪華ではない。
だが一人で寝るには十分だった。
「よいな」
「即決?」
巴が聞く。
「雨風を防げて、横になれて、風呂がある」
「最後が一番大事そう」
「大切じゃぞ」
一泊分を聞く。
今日の報酬だけでも数日は泊まれる額だった。
アラタは三日分を先に払った。
「三日でいいんですか?」
「その間にまた稼げばよい」
「その考え方、急に現実的ですね」
「先の見えぬ金を使う時は慎重にした方がよい」
「急にお年寄りっぽいこと言いますね」
「急にとは何じゃ」
「見た目との話です」
「今日はもう疲れた」
「都合が悪くなるとそれですね」
「風呂へ行く」
「逃げた!」
巴の声を背に、アラタは女将から湯場の場所を聞いた。
湯気の立つ風呂へ肩まで浸かった瞬間。
「……極楽じゃ」
思わず声が漏れた。
隣にいた老人がちらりとこちらを見る。
十四、五歳にしか見えない少年が、目を閉じて肩まで湯に沈み、年寄りじみた声を出しているのだから当然だった。
アラタは気にしなかった。
温かい湯が肩と背中を包む。
この世界へ来た時には裸足で、昨日には靴を手に入れ、今日は森で魔物と戦った。
身体に大した疲れはない。
それでも湯に浸かれば、力が抜ける。
「風呂はよいのう……」
今度は老人が少し頷いた。
「分かるか、坊主」
「分かるとも」
妙なところで意気投合した。
風呂を出て部屋へ戻ると、巴はもう帰っていた。
机の上に、小さな包みだけが置いてある。
開くと、乾かした果物が二つ入っていた。
紙切れもある。
『明日は寝坊しないでください。仕事するなら朝ですよ』
アラタはしばらく紙を見た。
「世話焼きじゃのう」
口元が少し緩む。
窓を開ける。
夜の町は静かだった。
遠くでまだ店を閉める音がしている。
見回りの兵が提灯を持って通りを歩き、どこかの家から子供の笑い声が漏れた。
三日前。
自分は知らない森の石床で目を覚ました。
それから巴と出会い、町へ来て、飯を食い、靴を借り、仕事を始めた。
今日、自分で金を稼いだ。
そして今、自分で払った部屋にいる。
帝王だった頃と比べれば、あまりにも小さなことばかりだ。
だが。
「悪くない」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
大きな国を治めた日々も、自分の人生だった。
仲間に囲まれた年月も、家族を持ったことも、戦争も、政治も、全部そうだ。
ならば。
一人で宿代を払い、明日の飯を考える日々もまた、自分の人生になるのだろう。
そう考えると、少しだけ眠るのが楽しみになった。
◇
翌朝。
アラタは早くに目を覚ました。
正確には、誰かに起こされる前に目が覚めただけだ。
顔を洗い、服を整え、剣を腰へ下げる。
外へ出ると、町はすでに動き始めていた。
荷車が通り、店先では桶の水が撒かれている。焼き立ての餅らしい匂いがして、アラタは一度そちらを見た。
「まず仕事じゃな」
自分に言い聞かせる。
その直後。
通りの向こうから、馬の蹄の音が聞こえた。
朝の町には似合わない速さだった。
人々が道を空ける。
土埃をまとった一騎が駆け抜けていく。
馬も乗り手もひどく疲れていた。
男は背中を丸めるようにして手綱を握り、町の中央――役所のある方角へ向かっている。
アラタはその背中を目で追った。
道の端で荷を並べていた商人が、小さく呟く。
「東からか……?」
隣の男が顔をしかめた。
「朝から伝令とは、嫌だな」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
アラタも聞かなかった。
まだ、自分には関係のない話かもしれない。
ただ。
馬の脚に付いた泥と、乗り手の外套に残る乾いた土。
そして、休ませる余裕すらなかったらしい馬の息遣いだけは、何となく目に残った。
やがて蹄の音が遠ざかる。
アラタは少しだけ東の空を見たあと、討伐者の詰所へ向かって歩き出した。




