初仕事 ②
「一頭増えてる……!」
圭介が息を呑んだ。
「いや」
アラタは少し離れた場所にいる、大きな個体へ目を向ける。
改めて見れば、他の裂牙犬より首が太く、胸まわりにも厚みがある。口の両脇から突き出した二本の白い牙も長く、顎を上げるたび、その先が朝の光を鈍く返していた。
それでも、飛び込んではこない。
六頭がじりじりと位置を変える中、その一頭だけは木立の陰に身体を低く沈め、三人の動きを見ている。
「あれは最初から足跡を残しておらん」
「え?」
「根と石の上を選んで歩いてきたようじゃ。少し賢い」
その言葉を待っていたかのように、大型個体の耳が僅かに動いた。
裂牙犬たちが左右へ散る。
一斉には来ない。
三人を包囲するように距離を取りながら、少しずつ広がっていく。
「背中を合わせて!」
志乃の声が飛ぶ。
「いや。二人はあの太い木を背にせい」
「でも――」
「囲ませぬ方がよい」
短い指示だったが、志乃はすぐに動いた。
圭介の肩を掴み、すぐそばの大木まで下がる。背後を幹で塞いでしまえば、裂牙犬が飛び込める方向は限られる。
「アラタさんは!?」
「わしは少し前におる」
「それじゃ一人だけ――」
圭介が言い終える前に、脇腹に矢を受けた一頭が地面を蹴った。
胴を低く沈め、落ち葉を巻き上げながら真っすぐアラタへ飛び込んでくる。
アラタは半歩だけ横へずれた。
二本の白い牙が服の端を掠める。
それでも剣は振らず、通り過ぎようとした裂牙犬の後脚を足先で軽く払った。
勢いを殺せなかった獣が、そのまま土の上へ転がる。
「今じゃ」
志乃の矢が飛んだ。
狙い違わず首元へ突き立ち、裂牙犬の身体から力が抜ける。
圭介が目を見開いた。
「わしを見るな。前を見よ」
「は、はい!」
返事とほとんど同時に、二頭目が圭介へ向かって走り出した。
槍先が震える。
「突くな。置いておけ」
「置く?」
「そこじゃ」
言われるまま、圭介は槍先を低く構えた。
裂牙犬は勢いを緩めない。
牙を剥いた頭をさらに低くし、そのまま圭介の脚元へ飛び込もうとする。
だが、そこにはすでに槍先があった。
裂牙犬自身の突進力で穂先が深く入り、獣の身体が途中で大きく折れる。衝撃が柄を伝わり、圭介の身体まで後ろへ押した。
「うわっ!」
志乃がすぐに肩を支える。
「踏ん張って!」
「はい!」
これで二頭。
残った裂牙犬たちの動きが変わった。
先ほどまで左右から距離を詰めていた個体が、わずかに後ろへ下がる。
大型個体の尾が、低い位置で一度だけ揺れた。
その直後、左にいた一頭が止まり、反対側の二頭が数歩前へ出る。
「なるほどのう」
アラタは大型の裂牙犬から目を離さなかった。
「あれが合図を出しておるのか」
よく見れば分かる。
耳や尾、重心のわずかな変化。
別の個体が仕掛ける直前には、必ず大型個体が先に視線を動かしている。
「志乃」
「何です?」
「あの大きいのを射てるか?」
志乃が狙いを確認する。
大型個体の身体には木が重なっていた。
「今は無理です」
「では、わしが出す」
「ちょっと!」
アラタは返事も待たず歩き出した。
向かう先は包囲の外ではない。
むしろ群れの中心だった。
大型の裂牙犬が頭を僅かに下げる。
次の瞬間、左右にいた二頭が同時に地を蹴った。
「アラタさん!」
圭介が叫ぶ。
最初の一頭が牙を剥いて迫る。
アラタは剣の腹でその顎を跳ね上げた。
硬い牙が刃の上を滑り、獣の頭が仰け反る。
もう一頭の牙を身体を沈めてかわし、すれ違いざまに前脚だけを浅く斬る。
どちらも仕留めない。
必要なのは、動きを止めることだけだった。
二頭の位置が崩れ、アラタの正面が一瞬だけ空く。
そして、その隙を大型個体は見逃さなかった。
木立の陰から飛び出す。
低く沈めていた巨体が一気に伸び、他の裂牙犬より長い二本の牙が真っすぐアラタの喉へ向かった。
速い。
先ほどの個体よりも一歩が大きく、地面を蹴るたびに太い肩が沈む。
「そこじゃ」
アラタが笑った。
剣を下げたまま、構えすら取らない。
好機と見たのか、大型の裂牙犬はさらに強く地面を蹴った。
大きく開いた口の奥が見える。
白い牙が喉へ届く――その寸前。
アラタは左足を半歩だけ外へ置き、身体の軸をずらした。
避けたというほど大きな動きではない。
飛び込んできた獣の鼻先が、アラタの肩のすぐ横を抜ける。
同時に、下げていた鉄剣が短く走った。
下から斜めに。
開いた顎の下へ刃を差し込み、そのまま首の側面へ抜く。
力任せに斬ったのではない。
大型個体が飛び込んでくる軌道へ、刃を正確に置いただけだった。
音はほとんどしなかった。
すれ違った大型の裂牙犬は、そのまま地面へ着地する。
一歩。
二歩。
三歩。
まだ走れるように見えた。
だが、首の下に細い赤い線が浮かび、それが一気に開いた。
前脚から力が抜ける。
巨体が前へ崩れ、勢いのまま土と落ち葉を削りながら滑った。
それきり動かなかった。
圭介は槍を構えたまま固まっている。
志乃も弓を引いた姿勢のまま、大型個体とアラタを交互に見ていた。
森に静けさが戻る。
残った裂牙犬たちは、すぐには動かなかった。
大型個体が倒れた場所を見ている。
次にアラタを見る。
先ほどまで群れを動かしていた合図は、もう出ない。
一頭が後ずさった。
それにつられるように、もう一頭。
やがて前脚を傷つけた一頭だけを残し、三頭が茂みの奥へ消えていった。
アラタは追わない。
「終わりじゃな」
剣についた血を草で拭ってから振り返ると、志乃と圭介が揃ってこちらを見ていた。
「何じゃ?」
圭介が何かを言おうとして口を開き、一度閉じた。
それから、もう一度開く。
「……三日目?」
「うむ」
「この世界に来て?」
「そうじゃ」
「嘘でしょう」
「本当じゃよ」
志乃もようやく弓を下ろした。
「玄馬さんの『腕は見た』って、こういう意味……?」
「さて。あやつがどう思ったかは知らん」
「今の、剣だけですよね」
「見れば分かるじゃろう」
「魔法とか、何か特別な力とか」
「使っておらんよ」
圭介が頭を抱えた。
「俺、槍の持ち方から練習してるのに……」
「比べる必要はない」
アラタは即座に言った。
圭介が顔を上げる。
「お主は今、一頭止めたじゃろう」
「でも、言われた通り置いてただけで」
「言われた通りにできた。それで十分じゃ」
アラタは地面に倒れた裂牙犬へ目を向けた。
「最初から何でもできる者など、そうはおらん」
そう口にすると、遠い昔の自分が頭をよぎった。
まだ剣の握り方さえ満足に知らなかった頃、魔物から逃げ回り、何度も傷を負い、そのたびに仲間へ助けられた。
今の自分だけを見れば、そこへ至るまでに積み重ねた年月など誰にも見えない。
「生きて帰れば、次がある」
圭介はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
志乃が倒れた個体を確認していく。
「三頭討伐。三頭は逃走。一頭は脚を怪我したまま……」
「いや、待て」
アラタが視線で示した。
先ほど前脚を斬った個体が、少し離れた木の陰で動けずにいる。
低く唸りながらこちらを睨んでいた。
「どうします?」
志乃が聞く。
アラタは剣を手に近づいた。
「放っておけば苦しむだけじゃろう」
一撃で終わらせた。
必要以上に苦しませる理由はない。
それから、群れが消えた茂みへ目を向ける。
「残りは追わん。数と特徴を報告する」
志乃が少し驚いたように笑った。
「てっきり全部追うって言うかと思いました」
「なぜじゃ」
「強い人って、そういうものかと」
「強いことと、無駄に危ないことをするのは別じゃよ」
「……玄馬さんと同じこと言いますね」
「それは少し嫌じゃのう」
「どうしてです?」
「昨日から小言が多い」
志乃が初めて声を上げて笑った。
◇
帰り道、三人は森の入口近くで腰を下ろした。
巴から渡された包みを開く。
中には塩だけで握った飯が二つ入っていた。
圭介は一口食べるなり、大きく息を吐く。
「生きて帰れそうだ……」
「まだ町まで歩くぞ」
志乃が言う。
「分かってますよ」
アラタも握り飯を頬張った。
「うむ。うまい」
「アラタさん、さっきまで魔物七頭に囲まれてましたよね」
「そうじゃな」
「何でそんな普通にご飯食べられるんです?」
「腹が減ったからじゃ」
圭介が何とも言えない顔になる。
それを見て、志乃はまた笑った。
◇
町へ戻ったのは、日が傾き始める少し前だった。
玄馬は三人の報告を最後まで黙って聞いた。
想定より多い七頭の群れに遭遇したこと。
指示通り一度は撤退を選び、退路を塞がれたことで戦闘になったこと。
四頭を討ち、逃げた三頭を無理に追わなかったこと。
話を聞き終えた玄馬は、最後にアラタを見る。
「怪我は?」
「三人ともない」
「そうじゃなくて、お前が何をした」
「少し手伝った」
志乃と圭介が同時にアラタを見る。
玄馬も見た。
「少し?」
「少しじゃ」
数秒の沈黙のあと、志乃が先に諦めた。
「大型を一人で倒しました。ほぼ一太刀です」
「志乃」
「正確な報告です」
「裏切ったのう」
「仕事ですから」
玄馬が額へ手を当てた。
「昨日の時点で嫌な予感はしてた」
「失礼じゃな」
「褒めてない」
巴とよく似た言い方だった。
やがて玄馬は机の下から小さな袋を三つ取り出した。
「今日の報酬だ。想定外の個体数だった分も上乗せする」
アラタは袋を受け取り、掌の上で重さを確かめた。
中で硬貨が触れ合い、小さな音を立てる。
「どうした?」
玄馬が聞く。
「いや」
アラタは袋へ目を落とした。
帝王だった頃は、金そのものを自分のために稼ぐことなどほとんどなかった。
国庫や税、交易、兵の給金。
金を数字として扱う機会なら、数え切れないほどあった。
だが、自分で働いて一日の仕事を終え、その対価として手渡される金となると話は違う。
随分と久しぶりだった。
「悪くないものじゃな」
「何がです?」
いつの間にか隣へ来ていた巴が聞く。
アラタは袋を軽く鳴らした。
「今日の稼ぎじゃ」
巴が笑う。
「じゃあ、今日は自分のお金で晩ご飯ですね」
「む」
アラタの顔が急に真剣になった。
「何を食うかのう」
「さっきまでの余韻、全部消えましたね」
「働いた後の飯は大事じゃぞ」
「知ってます」
後ろから志乃が声をかけた。
「アラタさん」
振り返る。
「また組むことがあったら、その時もお願いします」
圭介も続いた。
「俺も。次はもう少し役に立てるようにします」
アラタは二人を見る。
ほんの数時間前までは、互いに名前を知っただけの相手だった。
三度目の人生で初めて受けた仕事。
そこで初めて自分で金を稼ぎ、そして初めて仕事仲間と呼べる二人ができた。
「うむ」
アラタは穏やかに笑った。
「また行こうぞ」




