リーズの怒り
もう一度、奥から咳がした。
側面を確認していた玄馬が戻ってくる。
「裏にも扉がある。外から錠が掛かってる。使ってるのは正面だな」
「中は?」
「ほとんど見えん。ただ、人の気配は一人二人じゃない」
アラタが正面の大扉を見る。
リーズと弁慶は、すでに扉の左右へ回っていた。
「ベルガ」
「何だ」
「わしらが先に入る。お主は後ろじゃ」
ベルガは眉を寄せた。
「またそれか」
「中に子供がおる」
その一言で、ベルガは言い返すのをやめた。
「……分かった。急げ」
弁慶が金具へ手を掛ける。
鍵は掛かっていない。
玄馬が短く息を吐いた。
「開けるぞ」
弁慶が大扉を引いた。
古い金具が軋み、外の光が倉庫の中へ伸びる。
想像していたより広かった。
中央には荷車が二台あり、左右の壁際には木箱と麻袋が積まれている。その間と奥の仕切り前に、合わせて十五人ほどの男がいた。
手にしているのは棒、短剣、斧。
武器を持っていない者もいる。
全員が一斉に入口を見た。
「何だ、お前ら!」
奥の男が声を上げる。
その向こうから、また咳がした。
ベルガの顔から険しさが増す。
アラタは奥を見たまま言った。
「子供らを返してもらおうかの」
倉庫の空気が張り詰める。
男の一人が鼻で笑った。
「帰れ」
「そうはいかん」
「なら――」
奥の男が片手を振った。
「やれ!」
入口近くの四人が一斉に走った。
弁慶が前へ出る。
振り下ろされた棒を片腕で受け、そのまま掴んだ。
「なっ――」
棒ごと引かれた男が前へ崩れる。
弁慶が胸元を押し返すと、男は後ろの二人を巻き込み、そのうち一人が大扉の外まで転がった。
右から短剣を持った男がアラタへ踏み込む。
アラタが半歩ずれる。
刃が脇を抜けた瞬間、手首を取り、そのまま肘を返す。
短剣が床を滑った。
「殺すなよ!」
玄馬が声を飛ばす。
「分かっておる!」
中央の男たちも動き出した。
だが荷車と木箱が邪魔になり、一度に前へ出られない。
弁慶が入口を塞ぎ、アラタがその脇を抜けようとする者を止める。
玄馬は二人の後ろから倉庫全体を見ていた。
「右、二人来る!」
リーズがそちらへ向く。
男が斧を振り上げた。
リーズは避けるでもなく、その腕を掴んだ。
「遅い」
腕を捻ると、男の手から斧が落ちた。
そのまま男を隣の木箱へ押しつける。
もう一人が背後から飛びかかる。
リーズが振り返りもせず肘を入れた。
男が床へ転がる。
「加減はしているぞ!」
「誰も聞いておらん!」
アラタが返す。
ベルガは入口の外から中を見ていた。
荷車の陰と、木箱の隙間。奥の仕切りまで視線を走らせる。
「アラタ! 右の荷車の裏から二人回るぞ!」
「見えておる!」
「弁慶、左の箱の陰じゃ!」
弁慶が身体をずらす。
直後、木箱の陰から男が棒を突き出した。
弁慶がその棒を掴む。
「助かったぞ!」
ベルガの口元が僅かに上がった。
「当然である!」
その背後で、先ほど大扉の外まで転がった男がゆっくり身を起こした。
ベルガは倉庫の中へ意識を向けている。
男は音を立てずに立ち上がり、短剣を抜いた。
「ベルガ!」
アラタが叫ぶ。
ベルガが振り向くより早い。
背後から腕を掴まれ、細い身体が引き寄せられた。
同時に、抜き身の刃が首へ押し当てられる。
「動くな!」
倉庫の中の動きが止まった。
男はベルガを盾にしたまま入口脇へ下がる。
刃先はすでに皮膚へ触れていた。
下手に踏み込めば、そのまま喉を裂かれる距離だった。
「動くな! こいつの喉を切るぞ!」
「全員下がれ! 道を開けろ!」
男はベルガを盾にしながら、大扉の外へじりじりと身体を向ける。
「追ってきたら、こいつを殺す!」
アラタは足を止めた。
弁慶も動かない。
玄馬がゆっくり両手を見える位置へ出す。
リーズだけが、無言で男を見ていた。
「そうだ。そのままだ」
男が笑う。
「まさかこんなガキまで連れてくるとはな」
ベルガの腕を強く締め上げる。
「っ……」
「大人しくしてりゃ痛い目見ずに済む」
その言葉に、ベルガの身体が固くなる。
男は気づいた。
「何だ。分かってんじゃねえか」
刃を少し押し当てる。
「動くなよ。喋るな。こっちの言うことだけ聞いてろ」
ベルガの呼吸が浅くなる。
倉庫。
怒鳴り声。
腕を掴む力。
命令。
違う男だ。
違う場所だ。
頭では分かっている。
それでも身体は、何度も繰り返された言葉を覚えていた。
「ベルガ」
アラタが呼ぶ。
ベルガは返事をしなかった。
男が得意げに笑う。
「ほらな。ガキはこうやって言うこと聞かせりゃいい」
リーズはそこで初めて、男ではなくベルガを見た。
奥の仕切りから、小さな咳が聞こえた。
ベルガがそちらへ顔を向ける。
「……アラタ」
「何じゃ」
「妾はよい」
アラタは答えず、ベルガを見た。
ベルガは続ける。
「子供らを先に助けろ」
「ベルガ」
「妾一人なら、後でどうとでもなる」
男の腕の中で、ベルガは無理に笑った。
「行け」
その瞬間。
「いい加減にしろ、ベルガ!」
リーズの声が倉庫を震わせた。
ベルガがリーズを見る。
人質を取っていた男まで、つられてそちらを向く。
「な、何だお前――」
「貴様には言っていない!」
リーズは男を見もしなかった。
赤い目はベルガだけを捉えている。
「何を怒っておる!」
ベルガが叫び返す。
「今は妾より子供らを――」
「それが気に食わんと言っている!」
ベルガの言葉が止まる。
リーズが一歩前へ出る。
人質を取った男が刃を押しつけた。
「動くな!」
リーズは止まった。
それでも視線はベルガから外さない。
「今、我が腹を立てているのは貴様だ、ベルガ!」
「……妾?」
「そうだ!」
リーズの声には、怒りしかなかった。
「何だ、その顔は」
「何だ、その声は」
「何の話をしておる」
「分からないのか!」
リーズが歯を食いしばる。
「あれほど傲慢だった貴様が!」
「誰に何を言われても鼻で笑い、気に入らぬ相手には自分から喧嘩を売り、我が主を相手にしてすら一歩も退かなかった貴様が!」
「……」
「魔族の頂点に立って、最後まで自分を魔王だと疑わなかった貴様が!」
リーズは人質を取る男を顎で示した。
「今は何だ!」
「こんな男に怒鳴られて、言われた通り黙って!」
「妾はもう、あの頃とは違う!」
ベルガが叫んだ。
「魔力もない! 身体もこの通りだ! こやつ一人、振りほどくことすらできぬ!」
人質を取った男が笑う。
「よく分かってるじゃねえか」
リーズの声が冷えた。
「誰が力の話をした」
男の笑いが止まる。
ベルガも黙った。
「……何?」
「我は一度でも、貴様の魔力の話をしたか」
リーズの声が低くなる。
「大軍を率いていたから、我が貴様を魔王と呼んでいたと思うか」
「強かったからか? 魔力があったからか? 王座に座っていたからか?」
リーズが首を振る。
「違う」
「我が知るベルガ=スタークは、負けようが、血まみれになろうが、最後まで自分を曲げなかった」
アラタが黙ってリーズを見る。
「我が主と殺し合った時もそうだった」
ベルガの金色の目がリーズを捉える。
「あの時の貴様は、死ぬ寸前まで魔王だった」
「……」
「力が残っていたからではない」
リーズが言い切る。
「貴様が、最後までベルガ=スタークだったからだ」
倉庫の中が静かになる。
人質を取った男が苛立った。
「何をごちゃごちゃ――」
「黙れ!」
リーズが一喝する。
男が言葉を止めた。
リーズはベルガへ向き直る。
「罪があるからか」
ベルガは答えない。
「多くを殺した。だから今度は自分が苦しめばよい?」
「……それは」
「腹を空かせれば、死んだ者が戻るのか」
ベルガが唇を噛む。
「殴られれば、何かが償われるのか」
「黙れ……」
「黙らない」
「黙れ!」
ベルガの声が倉庫に響いた。
リーズは一歩も引かなかった。
「妾は多くを殺した!」
「知っている!」
「戦で多くの命を奪った! 勇者であった貴様の主とも、本気で殺し合った!」
「全部知っている!」
リーズが怒鳴り返す。
「だから何だ!」
ベルガは、すぐには言い返せなかった。
「罪を背負いたければ背負え!」
リーズはベルガを睨む。
「死ぬまで背負えばいい!」
そこで、言葉を切る。
「だが――」
リーズの声が一段低くなる。
「それを理由に、我が知る魔王まで捨てるな」
ベルガが目を逸らしかける。
「力を失ったからと、自分まで失ったつもりになるな」
リーズは握った拳を下ろさない。
「勝手に我が知るベルガ=スタークを殺すな!」
誰も口を挟まなかった。
リーズだけが、ベルガを睨んでいる。
そこにいるのは、十歳ほどにしか見えない痩せた少女だった。
ベルガは自分の手を見る。
小さく、細い手だった。
男の腕一つ、振りほどけない。
「おい、ガキ」
背後の男が腕に力を込める。
刃が首元へさらに押しつけられる。
「黙ってろ。動くな」
ベルガはゆっくり顔を上げた。
リーズは何も言わない。
ただ、昔と変わらぬ不機嫌そうな顔で、ベルガを睨み返している。
その顔を見た瞬間、胸の奥でずっと噛み合わなかった何かが、初めて音を立てた。
「……そうか」




