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残らない理由

しばらく、誰も口を開かなかった。


ベルガの服を掴んだまま、小さな男の子が泣いている。


「ベルガ姉ちゃんも一緒に……」


ベルガは困ったように、その手を見下ろしていた。


やがてアラタが息を吐く。


「ベルガ」


「……何だ」


「お主が何を考えておるかは分かった」


ベルガが顔を上げる。


「なら――」


「じゃが、それとここに残ることは別の話じゃ」


ベルガの眉が寄った。


「何が違う」


アラタは床に押さえられている男へ目を向ける。


「お主一人がここに残ったところで、また同じことが繰り返されるじゃろ」


「妾なら――」


「耐えられる、か?」


言葉を先に取られ、ベルガが黙る。


アラタは続けた。


「お主が耐えられるかどうかを話しておるのではない」


痩せた子供たちを見る。


「今日、この子らを連れ出したとしても、この場所が何も変わらんままなら意味がない」


「……」


「なぜこの子らが腹を空かせておる。なぜ殴られる。誰がここを動かしておる」


アラタの視線が男へ戻る。


「それを確かめん限り、また同じことが起こるかもしれん」


ベルガは何も言わない。


「お主が一人ここへ残って、それを止められるのか?」


「それは……」


初めて、返事が詰まった。


アラタはベルガへ一歩近づく。


「なら、まず出ろ」


「だが」


「お主がここにおらねば調べられんことでもあるのか?」


ベルガが口を閉じる。


「ないなら一緒に来い」


「……簡単に言うな」


「簡単ではない」


アラタの声は静かだった。


「じゃから調べるんじゃ」


ベルガはしばらくアラタを睨んでいた。


昔なら、その視線だけで兵が怯んだのかもしれない。


今は小さな身体で、口元にはまだ血が残っている。


それでも金色の瞳だけは逸らさなかった。


「妾まで出れば、ここはどうなる」


「知らん」


「おい」


「知らんから調べると言っておる」


ベルガが呆れたように目を細める。


「相変わらず無茶苦茶だな、貴様は」


「お主に言われとうない」


一瞬。


ベルガの口元が緩んだ。


ほんの僅かだった。


だが、すぐに消える。


アラタは子供たちを見る。


「それに」


一番小さな男の子は、まだベルガの服を掴んでいた。


「お主が残れば、この子らが安心して出られんじゃろ」


ベルガの顔が止まった。


周囲を見る。


どの子もベルガを見ていた。


外へ出られると聞いて喜んでいたはずなのに、今は不安そうな顔をしている。


「ベルガ姉ちゃんが行かないなら……」


少女が小さく言った。


「私も残る」


「馬鹿を言うでない!」


ベルガが即座に声を上げる。


「お主は行け!」


「でも、ベルガ姉ちゃん一人になるよ」


「妾は一人でも――」


そこまで言って、ベルガが止まった。


アラタは何も言わなかった。


圭介も志乃も口を挟まない。


子供たちだけが、ベルガを見ている。


やがてベルガが大きく息を吐いた。


「……卑怯者め」


「何のことじゃ」


「分かって言っておるだろう」


ベルガは男の子の手を見る。


今度は外さなかった。


「分かった」


小さく言う。


「妾も行く」


子供たちの顔が一斉に明るくなった。


「ただし!」


ベルガが声を張る。


「こやつらを安全な場所へ移した後、ここで何が行われていたのか調べる。それが条件だ」


アラタが笑った。


「最初からそのつもりじゃ」


「なら先に言え!」


「言ったじゃろ」


「言い方が気に食わん!」


久しぶりに、ベルガらしい声だった。


圭介が小さく息を吐く。


「よかった……」


志乃も僅かに笑った。


リーズは黙ったままだった。


だが、強く握られていた手は、少しだけ緩んでいた。


◇


子供たちが建物を出るまでには、少し時間がかかった。


持ち物と呼べるものはほとんどない。


薄い上着。


古びた布。


誰かにもらったらしい小さな木片。


それぞれが大切そうに抱えたものは、その程度だった。


「荷物はそれだけか?」


圭介が聞く。


少年が頷く。


「うん」


圭介は何か言いかけ、やめた。


「……じゃあ、落とさないようにね」


「うん」


志乃は年下の子供たちを集めた。


「一人で離れないでね。前の子についてきて」


「お姉ちゃんたち、どこに行くの?」


「まず、ご飯を食べられるところ」


それだけで、何人かの子供の顔が明るくなる。


志乃の表情が僅かに曇った。


ベルガはそれを見て、何も言わなかった。


弁慶が男を立たせた。


「貴様も来い」


「何で俺まで――」


「拙僧には分からぬ」


弁慶が男の肩を掴んだ。


「だが、アラタ殿が連れていくと言うなら連れていく」


「離せ!」


「暴れぬ方がよいぞ」


男は振りほどこうとした。


やはり弁慶の腕は動かない。


数度試した後、男は諦めたように舌打ちする。


「勝手にしろ」


その声には、先ほどまでの余裕がなかった。


アラタが先頭に立つ。


志乃と圭介が子供たちの左右につき、リーズは子供たちの後ろへ回った。


弁慶は男を連れて最後尾を歩く。


ベルガは子供たちの中にいた。


一番小さな男の子が、ずっと手を握っている。


「歩けるか?」


ベルガが尋ねる。


「うん」


「なら離すでないぞ」


「うん!」


ベルガは前を向いた。


古びた建物が、少しずつ遠ざかっていく。


振り返らなかった。


◇


討伐者の詰所へ着いた時には、さすがに周囲が騒然とした。


何人もの子供たち。


口元を腫らしたベルガ。


巨漢の弁慶に肩を掴まれた男。


そしてアラタたち。


奥から出てきた玄馬が、その一団を見て足を止めた。


「……何があった」


「少し面倒なことになってのう」


玄馬は子供たちを見た。


その表情がすぐに変わる。


「分かった。話は後だ」


玄馬が詰所の中へ視線を向ける。


「先に飯だ」


アラタが頷く。


「頼む」


「怪我してる奴もいるな」


「おる」


「分かった。場所を空ける」


余計なことは聞かなかった。


玄馬はすぐに詰所の者たちへ指示を出した。


空いている部屋。


湯。


食べ物。


毛布。


必要なものが次々と運ばれてくる。


温かい汁物の匂いが広がった瞬間。


子供たちの目が一斉にそちらへ向いた。


それを見たベルガが、いつものように言う。


「ほれ。小さい者からだ。取り合うでないぞ」


子供たちは頷いた。


器が配られていく。


一つ。


また一つ。


最後にベルガの前にも置かれた。


「……妾はいらん」


アラタが横を見る。


ベルガは器から目を逸らした。


「腹は減っておらん」


「そうか」


アラタはそれ以上言わなかった。


ベルガが僅かに目を動かす。


何か言われると思っていたらしい。


だが、アラタは子供たちへ視線を戻した。


ベルガの前には、湯気の立つ器だけが残った。


リーズは少し離れた場所から、その様子を見ていた。


何も言わない。


◇


子供たちが落ち着いた後。


アラタたちは詰所の奥へ集まった。


男は別室で見張られている。


ベルガもいる。


「さて」


玄馬が腕を組む。


「説明してもらおうか」


アラタは、見たことを順に話した。


ベルガが食事を持ち帰ったこと。


子供たちが飢えていたこと。


男がベルガへ手を上げたこと。


そして、同じことを繰り返させないため、建物そのものを調べたいこと。


話を聞き終えた玄馬の顔は険しかった。


「つまり、あの男一人を捕まえて終わりとは考えてないんだな」


「うむ」


アラタは頷く。


「この子らを連れ出しただけでは終わらん」


ベルガが顔を上げた。


「何を調べる」


「全部じゃ」


「全部?」


「誰があの場所を管理しておるのか。なぜ子供らがあの状態になっておるのか。食事はどこから来ておった。金は誰が出しておる」


アラタは一つずつ挙げる。


「そして、同じような場所が他にもないか」


ベルガの目が細くなる。


「……なるほどな」


「お主にも聞くぞ」


「妾に?」


「一年近くおったのであろう」


ベルガは黙る。


「見たもの、聞いたもの。何でもよい」


アラタはベルガを見る。


「今度は一人で抱え込むな」


ベルガの口が開きかける。


だが。


アラタはそれ以上何も言わなかった。


罰だとか。


罪だとか。


そんな話には触れない。


ベルガも何かを察したのか、しばらく黙っていた。


やがて。


「分かった」


小さく頷く。


「妾が知っていることは話そう」


「助かる」


玄馬が立ち上がった。


「なら、まずはあの男からだ。こっちでも話を聞く」


アラタも立つ。


ベルガは一度だけ、閉じられた扉の向こうを見た。


そこにはもう、子供たちはいない。


殴られる者も。


食事を奪われる者も。


少なくとも今夜は。


いない。


けれど。


それで終わったわけではなかった。

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