罰
男の拳は、振り下ろされなかった。
裏口に立つアラタを見て、男の眉が寄る。
「何だ、お前」
「聞こえんかったか」
アラタは部屋へ入った。
「その手を下ろせと言ったんじゃ」
男は振り上げていた拳をゆっくり下ろした。
だが、ベルガから離れようとはしない。
「勝手に入ってくるな。ここはお前みたいなガキが来る場所じゃない」
「奇遇じゃのう」
アラタの視線が、男の後ろにいる子供たちへ向く。
「わしも同じことを思っておったところじゃ」
男の顔が険しくなった。
「何?」
「こんなところに、子供を置いておくべきではないとな」
空気が張り詰めた。
ベルガが目を見開く。
「アラタ」
「後で話を聞く」
「待て。これは――」
「後じゃ」
短い言葉だった。
ベルガが黙る。
男が鼻で笑った。
「何を勘違いしてるか知らねえが、余所者が口を出す話じゃねえ」
「子供を殴るのがお主らの決まりなら、なおさら口を出す必要がありそうじゃ」
「殴られたのはそいつだ」
男がベルガを顎で示す。
「言うことを聞かねえから躾けただけだ」
アラタの目が細くなった。
「十歳ほどの娘を床へ叩きつけることを、躾けと言うのか」
「お前には関係ない」
男が一歩踏み出す。
アラタは動かなかった。
男の手が、アラタの胸元へ伸びる。
次の瞬間。
男の身体が床へ転がった。
「――っ?」
伸びてきた腕を流し、足を払っただけだった。
男は何が起きたのか分からない顔でアラタを見上げる。
立ち上がろうとした肩へ、大きな手が置かれた。
弁慶だった。
「動かぬ方がよい」
「離せ!」
男が肩を振る。
だが、弁慶の手は微動だにしない。
「な、何だお前……!」
「拙僧か?」
弁慶は少し考える。
「通りすがりの僧である」
圭介が小声で呟いた。
「絶対、通りすがりの見た目じゃないですけどね……」
志乃が肘で圭介をつつく。
「今それ言うところじゃないでしょ」
張り詰めていた子供たちの顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、リーズだけは笑っていなかった。
赤い瞳が、床に押さえられた男ではなくベルガへ向いている。
ベルガはその視線に気づくと、僅かに顔を背けた。
アラタは部屋を見回した。
痩せた子供たち。
薄い毛布。
使い古された器。
床に散った、ほんの僅かな食事。
「全員、ここを出るぞ」
ベルガの顔が上がる。
「……何?」
「聞こえたじゃろ」
アラタは子供たちを見た。
「ここにおる子供は全員連れて出る」
ざわめきが起こった。
子供たちが互いの顔を見る。
「外に……?」
「出ていいの?」
小さな声が重なる。
男が弁慶の下でもがいた。
「ふざけるな! 勝手なこと――」
弁慶の手に僅かに力が入る。
男の声が潰れた。
アラタは男を見もしなかった。
「腹が減っておる者には飯を食わせる。怪我をしている者は診てもらう。その後のことは、それから考えればよい」
圭介が頷く。
「人数分の宿が無理でも、詰所に相談できますよね」
「玄馬にも話を通せる」
志乃も続けた。
「まず、この子たちをここから出す方が先です」
子供たちの表情に、少しずつ期待が浮かぶ。
一番小さな男の子がベルガの服を掴んだ。
「ベルガ姉ちゃんも行くよね?」
ベルガは答えなかった。
「ベルガ姉ちゃん?」
小さな手が、もう一度服を引く。
ベルガはその手をそっと外した。
「お主らは行け」
男の子が目を瞬く。
アラタもベルガを見る。
「お主らは、とはどういう意味じゃ」
「そのままの意味だ」
ベルガはアラタへ向き直った。
「こやつらを連れていってくれ」
「当然そのつもりじゃ」
「違う」
ベルガは首を振る。
「妾は残る」
部屋が静まり返った。
圭介が思わず声を上げる。
「何言ってるんですか?」
「聞こえなかったか」
「聞こえたから言ってるんですよ!」
ベルガは圭介を見ず、アラタだけを見た。
「勇者アラタ」
その呼び方に、アラタの表情が変わる。
「頼む」
ベルガが頭を下げた。
「妾はよい。こやつらだけは、ここから出してやってくれ」
子供たちが息を呑む。
「ベルガ姉ちゃん……」
「何を言っておる」
アラタの声が低くなる。
ベルガは頭を上げない。
「こやつらには何の罪もない」
「なら、お主にはあるというのか」
ベルガの肩が僅かに動いた。
アラタは見逃さなかった。
「ベルガ」
しばらく返事はなかった。
やがて。
「……あるだろう」
小さな声が落ちた。
アラタの眉が寄る。
「何?」
ベルガがゆっくり顔を上げる。
笑っていた。
けれど、それは食堂で見せた笑いとは違った。
「妾が何人殺したと思っておる」
誰も答えなかった。
「魔王だった頃、妾は多くの命を奪った」
金色の瞳が伏せられる。
「敵だった。戦争だった。魔族が生きるためだった」
ベルガは一つずつ言葉を置く。
「そう言えば、いくらでも理由はつけられる」
「ベルガ……」
「だが、死んだ者からすれば同じことだ」
細い指が、自分の服を握る。
「今度は人間に生まれた。力もない。腹も減る。殴られれば痛い」
口元に残った血を、親指で拭う。
「ならば、これが妾の番なのかもしれん」
アラタの顔から表情が消えた。
「何を言っておる」
「因果応報というやつだ」
ベルガは笑った。
「前の人生で奪った分を、今度は妾が払う。それだけのことだ」
「だから、黙って殴られておったのか」
「妾一人で済むなら安いものだ」
アラタの拳が僅かに握られた。
ベルガはそれに気づいても、言葉を止めない。
「だが、こやつらは違う」
ベルガは後ろの子供たちを見る。
「この子らは何もしておらん。腹を空かせる理由も、殴られる理由もない」
一番小さな男の子が泣いていた。
ベルガはその前にしゃがみ、その涙を指で拭う。
「泣くな」
「ベルガ姉ちゃんも一緒に……」
「大丈夫だ」
「やだ」
「妾は大丈夫だ」
「やだよ……」
ベルガの手が止まる。
男の子がベルガの服を握った。
今度は、ベルガもすぐにはその手を外せなかった。
それでも。
ベルガは顔を上げる。
アラタを見る。
「頼む、アラタ」
今度は勇者とは呼ばなかった。
「この子らを助けてくれ」
アラタは答えなかった。
志乃も。
圭介も。
弁慶も。
誰も、すぐには何も言えなかった。
ただ一人。
リーズだけが、ベルガを見ていた。
赤い瞳からは、いつもの笑みも、からかう色も消えている。
何かを言おうとしたように唇が僅かに動いた。
だが。
リーズは何も言わなかった。
その手だけが。
ゆっくりと、強く握られていた。




