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帰る場所

食堂の扉が閉まってから、しばらく誰も動かなかった。


最初に口を開いたのは圭介だった。


「……追わないんですか?」


「追うぞ」


アラタは即答した。


圭介が目を瞬く。


「ですよね」


「ただ、今すぐ出ればさすがに気づかれる」


志乃が扉の方を見ながら言った。


「少しだけ間を空けましょう」


リーズは腕を組む。


「面倒だな。我なら捕まえて聞く」


「お主が行ったら、聞く前に喧嘩になるじゃろうが」


「ならない」


「さっきまでなっておったではないか」


リーズは黙った。


弁慶が低い声で言う。


「隠すには、隠すだけの理由があるのであろうな」


「うむ」


アラタはベルガが座っていた場所を見る。


勢いよく食べ始めたのに、数口で箸を止めた。


腹いっぱいだと言い張り、ほとんど手をつけていない料理を全部持って帰った。


そして、あの痣。


「昔からあやつは、本当に困った時ほど何も言わん」


リーズの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。


アラタが横を見る。


「そうじゃったな」


「どうでもいいことなら、聞いてもいないのに喋るくせにな」


「お主も似たようなものじゃろ」


「我は違う」


「そういうことにしておこう」


少し待ってから、五人は店を出た。


◇


ベルガはまだ遠くへは行っていなかった。


通りの先に、深い紅色の髪が一瞬見える。


アラタたちは距離を取ったまま、その後を追った。


表通りを外れ、細い道へ入る。


店が減り、人通りも少なくなった。


白壁や瓦屋根の間に、古びた板張りの家が増えていく。


ベルガは何度か後ろを振り返った。


そのたびに五人は角や軒先へ身を隠した。


圭介が小声で言う。


「さっき自分が尾行してた時より警戒してません?」


「自分がやったからこそ、されることも考えるんじゃろ」


「なるほど……」


リーズだけが不満そうだった。


「なぜ我まで隠れねばならん」


「白銀の髪で堂々と立つな。目立つ」


「我が目立つのは当然だ」


「そういう話ではない」


さらに町の奥へ進む。


やがてベルガは、周囲より少し大きな古い建物の前で足を止めた。


二階建てではあるが、立派とは言い難い。


板壁は色褪せ、一部は継ぎ板で塞がれている。


窓枠も歪み、屋根の端には何度も直した跡が残っていた。


表には看板もない。


ベルガは周囲を確かめると、建物の脇へ回った。


小さな裏口が開く。


ベルガの姿が消えた。


アラタたちはすぐには近づかなかった。


ほどなくして。


建物の中から、子供の声が聞こえた。


「ベルガ姉ちゃん!」


一人ではない。


いくつもの声が重なる。


「帰ってきた!」


「遅いよ!」


「どこ行ってたの?」


アラタの目が細くなる。


リーズも黙った。


裏手には、小さな窓があった。


板戸が完全には閉まっておらず、わずかに隙間がある。


五人は壁沿いに近づいた。


中には、何人もの子供がいた。


年齢はばらばらだったが、皆まだ幼い。


古い服を着ている。


頬が痩せ、腕の細い子も多かった。


部屋の隅には薄い毛布が重ねられ、古い木の器がいくつか並んでいる。


その中心にベルガがいた。


食堂から持ち帰った籠を床へ下ろした途端、子供たちが集まってくる。


「何それ?」


「食べ物?」


「ベルガ姉ちゃん、いい匂いする!」


「騒ぐでない」


ベルガは口では面倒そうに言いながら、籠から包みを取り出した。


飯。


焼き魚。


煮物。


そして、二つの甘味。


子供たちの顔が明るくなる。


「すごい!」


「今日、お魚あるの?」


「菓子もあるぞ!」


「妾の話を聞け!」


ベルガが声を張ると、子供たちが一斉に静かになった。


その様子に、アラタは僅かに目を見開く。


小さくなっても、こういうところは変わらない。


「まず、小さい者からだ。取り合うな。魚は骨があるから気をつけろ」


ベルガは飯と煮物を小皿へ分け、焼き魚から丁寧に骨を外して身をほぐしていく。


二つの甘味も、全員へ行き渡るよう小さく切り分けた。


それでも量は多くない。


一人分になれば、どの皿もほんの僅かだった。


それを見ても、子供たちは嬉しそうだった。


「ベルガ姉ちゃんは?」


小さな少女が尋ねた。


「妾か?」


ベルガは胸を張った。


「妾は腹いっぱい食ってきたわ」


アラタの表情が止まる。


隣で志乃が小さく息を呑んだ。


「ほんとに?」


「誰に聞いておる」


ベルガは笑った。


「腹が破れるほど食ってきた。これ以上食えば、さすがの妾でも動けぬ」


少女は安心したように、自分の皿へ視線を落とした。


ベルガは食べない。


自分の前には、何も置かなかった。


圭介が窓の外で唇を噛む。


「……だから、持って帰ったんだ」


誰も答えなかった。


一番小さな男の子が、甘味の欠片を半分に割った。


「ベルガ姉ちゃんも食べる?」


ベルガの目が、その欠片へ一瞬だけ落ちた。


喉が小さく動く。


それでもすぐに顔を背けた。


「いらん」


「でも」


「これは命令だ」


ベルガは男の子の手を押し戻す。


「お主が食え」


男の子は少し迷った後、小さく頷いた。


「……うん」


ベルガの口元が緩んだ。


その時だった。


奥の扉が開く音がした。


子供たちの空気が、一瞬で変わった。


笑い声が消える。


食べていた手が止まった。


ベルガも振り返る。


四十前後に見える、太い腕の男だった。


汚れた上着を着ていた。


男は床に並んだ料理を見た。


次にベルガを見る。


「お前、どこへ行ってた」


「少し外へ出ていただけだ」


「勝手に出るなと言っただろう」


「用があった」


男の顔が歪んだ。


「口答えするな」


乾いた音が響いた。


ベルガの顔が横へ弾かれる。


あまりに唐突だった。


窓の外で圭介が息を呑む。


リーズの指が木枠へ食い込み、古い木が僅かに軋んだ。


ベルガはよろめき、膝を床についた。


赤い髪が頬へかかる。


口元から、細い血が一本流れた。


「ベルガ姉ちゃん!」


子供たちが立ち上がりかける。


「座っておれ!」


ベルガの声が飛んだ。


子供たちの動きが止まる。


ベルガは袖で口元を拭い、ゆっくり立ち上がった。


「食事中であろう」


「でも……血が……」


「この程度、何でもない」


ベルガは笑う。


いつものように胸を張ろうとした。


だが、立ち上がった身体が僅かに揺れた。


すぐに踏ん張る。


「ほれ。冷める前に食え」


一番小さな男の子が泣きそうな顔をした。


「ベルガ姉ちゃん、もういいよ……」


「何がだ」


「もう怒られなくていいよ。僕たち、食べなくても……」


ベルガの顔から笑みが消えた。


「馬鹿を言うな」


少年の前へしゃがむ。


「腹が減っておるのであろう」


「でも、ベルガ姉ちゃんが……」


「妾なら平気だ」


ベルガは少年の頭を撫でた。


「お主らは食え」


その声だけは優しかった。


「子供が腹を空かせて我慢するものではない」


アラタが僅かに目を伏せる。


リーズが低く言った。


「……我が主」


「分かっておる」


アラタの声も低かった。


部屋の中では、男の視線が子供たちの皿へ移っていた。


「誰が勝手に食えと言った」


誰も答えない。


男が一歩進む。


一番近くにいた少女の肩が震えた。


「それ、寄越せ」


少女の皿へ手を伸ばす。


ベルガがその間へ入った。


「触るな」


「どけ」


「断る」


「またお前か」


「妾が持ってきたのだ。こやつらは関係ない」


男がベルガの胸元を掴んだ。


細い身体が持ち上がる。


足先が床から離れた。


それでもベルガは男から目を逸らさなかった。


「自分が何様だと思ってる」


「何様でもよい」


掴まれたまま、ベルガが答える。


「その子の飯を取るな」


男が舌打ちした。


そのままベルガを床へ放り出す。


小さな身体が板床へ叩きつけられた。


鈍い音がした。


「ベルガ姉ちゃん!」


ベルガはすぐには起き上がらなかった。


片腕を床につき、息を詰まらせている。


それでも、男が子供へ向き直ったのを見ると、歯を食いしばって立ち上がった。


足元がふらつく。


一歩。


もう一歩。


子供たちの前へ戻る。


「……触るなと言った」


「しつこいな」


「何度でも言う」


ベルガは両腕を広げた。


小さな身体で、後ろの子供たちを隠すように立つ。


「こやつらには、指一本触れさせん」


男の拳が握られた。


ベルガは逃げない。


ただ、目を閉じることもなかった。


拳が振り上げられる。


その瞬間。


裏口の戸が開いた。


男の動きが止まる。


ベルガも振り返った。


そこに立っていたのはアラタだった。


その後ろに、リーズ、志乃、圭介、弁慶がいる。


「……アラタ?」


ベルガの声が漏れた。


アラタはベルガではなく、拳を上げた男を見ていた。


いつもの柔らかな笑みはない。


「その手を下ろせ」


静かな声だった。


それだけで、部屋の空気が変わった。

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