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七十年の約束

通りの真ん中で魔王を名乗った少女を前に、しばらく誰も動かなかった。


最初に口を開いたのは圭介だった。


「……魔王?」


ベルガが胸を張る。


「いかにも」


「この子が?」


「誰がこの子じゃ!」


圭介の肩が跳ねた。


リーズが鼻で笑う。


「見た目だけなら、その程度だ」


「貴様は黙っておれ、馬鹿竜!」


「また言ったな」


「二人ともやめんか」


アラタが間へ入る。


通りでは、さきほどから何人もの視線がこちらへ向いていた。


十歳ほどの少女が大声で魔王を名乗り、白銀髪の女と罵り合っているのだから当然だった。


アラタは周囲を見回すと、ため息をつく。


「話は場所を変えてからじゃ。ここでは目立ちすぎる」


「我は別に構わんぞ」


「わしが構う」


ベルガもようやく周囲の視線に気づいたらしく、咳払いを一つした。


「うむ。妾も腹が減っておったところだ」


リーズが眉を寄せる。


「貴様、会って最初にそれか」


「先ほど団子を二本も食っておった貴様に言われとうないわ!」


「見ていたのか」


「尾行しておったからな!」


「自白するな」


志乃が思わず笑い、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


◇


六人が入ったのは、通りから一本奥へ入った食堂だった。


昼時を少し過ぎていたこともあり、店内には空いた席が増えている。


一番奥の卓を選び、アラタとベルガが向かい合って座った。


リーズは当然のようにアラタの隣へ座り、志乃、圭介、弁慶も同じ卓を囲む。


ベルガは品書きを手に取った。


じっと見る。


さらに見る。


「……好きなものを頼め」


アラタが言うと、ベルガの目が上がった。


「よいのか?」


「久しぶりに会ったんじゃ。それくらいは出す」


「そうか!」


声が一段明るくなった。


ベルガは店員を呼ぶと、飯、焼き魚、煮物、汁物を頼み、最後に甘味を二つ付けた。


圭介が小声で呟く。


「リーズさんが二人になった……」


「聞こえておるぞ」


「妾も聞こえておる」


左右から同時に睨まれ、圭介は黙った。


料理が運ばれてくると、ベルガはすぐに箸を取った。


最初の一口だけは妙に上品だった。


だが、その後が早い。


飯を掻き込み、焼き魚を一口かじる。汁物を飲んだかと思えば、すぐに煮物へ箸を伸ばした。


よほど腹が減っていたのだろう。


小さな口が休む暇もなく動いていた。


「お主……そんなに腹が減っておったのか?」


アラタが尋ねる。


ベルガは返事もせず、もう一口飯を口へ運んだ。


だが。


そこで、箸が止まった。


卓の上には、まだほとんど料理が残っている。


ベルガは焼き魚を見る。


煮物を見る。


二つ並んだ甘味へも視線を向けた。


それから何事もなかったように箸を置いた。


「もうよい」


アラタが首を傾げる。


「もうよい?」


「腹いっぱいだ」


「さっきまで、あれだけ勢いよく食っておったではないか」


「この身体は小さいのだ。入る量も少ない」


ベルガは平然と言った。


リーズが怪訝そうにベルガを見る。


「貴様が?」


「何だ」


「いや」


リーズは何か言いかけたが、やめた。


ベルガは店員を呼ぶ。


「すまぬが、残ったものは持ち帰れるか?」


「全部ですか?」


「うむ。飯も魚も煮物もだ。甘味も頼む」


店員は少し驚いたものの、頷いた。


「包めるものは包みますよ」


「助かる」


アラタはベルガを見る。


「後で食うのか?」


「そうだ」


「腹いっぱいなのではなかったか?」


一瞬。


ベルガの目が泳いだ。


「……後で腹が減るかもしれぬだろう」


「ずいぶん用意がよいのう」


「うるさい」


ベルガはそっぽを向いた。


アラタはそれ以上追及しなかった。


今は、聞きたいことが多すぎる。


「それで、ベルガ」


「む?」


「お主、いつからこの世界におる?」


ベルガは水を一口飲んでから答えた。


「一年ほどだな」


「一年……」


「妾も驚いたぞ。死んだと思ったら、また別の世界だ。しかも今度は人間。それも――」


ベルガがそこで言葉を切った。


「どうした?」


「いや」


「この際だ。聞いておこうと思ってな」


金色の瞳がアラタを見た。


「アラタ。貴様は最初から、あの世界の人間だったのか?」


「最初から?」


「生まれも育ちも、レグナルシアかと聞いておる」


アラタは一瞬、意味を測りかねた。


「いや。違うぞ」


「では、どこだ」


「日本じゃ」


ベルガの顔が止まった。


圭介が瞬きをする。


志乃もベルガを見る。


リーズは黙ったまま、二人のやり取りを眺めていた。


「……何?」


ベルガが低く聞き返す。


「わしの最初の人生は、日本人じゃった」


ベルガは固まっていた。


「貴様……日本人だったのか?」


「そうじゃが」


アラタが首を傾げる。


「何じゃ、その反応は」


ベルガはしばらく何も言わなかった。


やがて片手で額を押さえる。


「……なんということだ」


「どうしたんじゃ?」


ベルガがゆっくり顔を上げた。


「妾もだ」


「何がじゃ」


「妾も、最初の人生は日本人だったのだ」


今度はアラタの顔が止まった。


「……何?」


「聞こえなかったか」


ベルガは呆れたように言う。


「立花ベルガ。それが妾の最初の名だ」


「お主も日本人じゃったのか!?」


「そう言っておる!」


アラタが思わず身を乗り出す。


「なぜ言わん!」


「貴様こそ、なぜ言わん!」


「わしはお主を生粋の魔族だと思っておったんじゃ!」


「妾は貴様を異世界生まれの勇者だと思っておったわ!」


二人して黙る。


数秒後。


ベルガが再び額を押さえた。


「……馬鹿らしい」


「まったくじゃ」


リーズが堪えきれなくなったように笑い出した。


「貴様ら、あれだけ殺し合っておいて、互いの出身すら知らなかったのか」


「うるさい!」


「笑うでない!」


二人の声が重なった。


リーズは余計に笑う。


「だから余計に面白いのだ」


「馬鹿竜、後で覚えておれ」


「今でも構わんぞ」


「やめい」


再び始まりそうになった二人を止めながら、アラタも笑った。


勇者と魔王。


互いに殺すつもりで剣を交えた相手が、まさか同じ日本から来た人間だったとは思いもしなかった。


アラタは小さく息を吐く。


「百年近く生きても、まだ知らんことはあるもんじゃのう」


ベルガも呆れたように笑いかけ――その顔が止まった。


「……待て」


金色の瞳が細くなる。


「今、百年近くと言ったか?」


アラタはベルガを見た。


「そうじゃ」


「アラタ。妾が死んだ後、あちらで何年生きた?」


卓の空気が静かになった。


「七十年近くじゃ」


ベルガが動かなくなった。


「……七十?」


「うむ」


「妾が死んでから?」


「そうじゃ」


「七十年……」


ベルガの視線がリーズへ移る。


「本当か」


リーズは今度は笑わなかった。


「ああ。我が主はその後も長く生きた。最後は老いて、我らに看取られて死んだ」


ベルガの顔から、完全に笑みが消えた。


その手が、膝の上でわずかに握られる。


「では……」


掠れた声が落ちる。


「魔族は」


アラタは答えなかった。


ベルガが顔を上げた。


「アラタ。妾は貴様に託したはずだ」


その声には、先ほどまでとは違う力があった。


「妾が敗れれば、魔族は人間に押し潰される。土地を奪わねば生きられぬ者もおった。瘴気なくして生きられぬ者もおった」


金色の瞳が揺れる。


「だから妾は、貴様に託した」


ベルガの指が震えた。


「ベルゼも。民も。全てだ」


アラタは静かに頷く。


「覚えておる」


「ならば答えよ」


ベルガはもう笑っていなかった。


「どうなった」


短い問いだった。


けれど、その一言にベルガが抱えてきたものの全てが詰まっていた。


アラタは少しだけ身体を前へ傾けた。


「約束は果たした」


ベルガの目が見開かれる。


「魔族は残っておる。人間の土地を奪い続けねば生きられぬ在り方も変えた。時間はかかったがのう」


「……本当に?」


「嘘をついてどうする」


「ベルゼは」


そこで初めて、ベルガの声が明確に震えた。


「ベルゼは、生きておるのか」


アラタは笑った。


「生きておる」


ベルガの唇が僅かに開く。


「立派になったぞ。今では魔族を率いる側じゃ」


「……あの子が?」


「ああ」


ベルガはもう一度リーズを見る。


リーズは静かに頷いた。


「我も見ていた。嘘ではない」


ベルガの肩から、何かが抜けたように見えた。


俯く。


しばらく何も言わない。


アラタも待った。


やがてベルガが椅子を降りた。


「ベルガ?」


小さな身体が卓の横へ立つ。


そして、深く頭を下げた。


「ありがとう」


誰も言葉を挟まなかった。


「勇者アラタ」


いつもの尊大さはなかった。


「妾の代わりに、民を……ベルゼを、守ってくれて」


声が僅かに詰まる。


「約束を守ってくれて、本当に……ありがとう」


アラタは困ったように頭を掻いた。


「頭を上げい」


ベルガは動かない。


「お主との約束じゃった。それに、わしがそうしたかったからしただけじゃ」


「それでもだ」


「なら、礼は受け取る。じゃからもう座れ」


少し間があって、ベルガはようやく顔を上げた。


目元が僅かに赤い。


だが、泣いてはいなかった。


「……相変わらず、格好をつけおって」


「お主にだけは言われとうない」


ベルガが鼻を鳴らし、椅子へ戻った。


やがて店員が、包みをいくつか持ってくる。


残していた飯。


焼き魚。


煮物。


そして、手をつけていない二つの甘味。


ベルガはそれを一つずつ籠へ入れた。


思った以上の量になり、籠は来た時より明らかに重くなっていた。


「そんなに持って帰るのか?」


圭介が聞く。


「後で食うと言ったであろう」


「全部?」


「妾を誰だと思っておる」


ベルガは胸を張る。


「魔王だぞ」


「そこ、魔王関係あります?」


「ある」


即答だった。


志乃が小さく笑う。


ベルガもいつもの調子で笑い返した。


だが、籠を持ち上げた時。


長袖が僅かにずれた。


細い手首。


その内側に、青黒い痣が見えた。


ベルガはすぐに袖を引いた。


アラタの目が細くなる。


志乃も気づいたらしい。


視線だけが一瞬、ベルガの腕へ落ちた。


「ベルガ」


「何だ」


「お主、今どこに住んでおる?」


ベルガの動きが止まった。


ほんの一瞬だけだった。


「世話になっておる場所がある」


「どこじゃ」


「貴様には関係ない」


「さっきまで七十年前の話をしておった仲ではないか」


「それとこれとは別だ」


ベルガは籠を抱え、椅子から飛び降りた。


「妾はもう行く」


「待て」


「また会えばよかろう。どうせ同じ町におるのだ」


その言葉だけ残し、ベルガは入口へ向かう。


アラタは追わなかった。


ただ、その小さな背中を見る。


痩せた腕。


継ぎ当てだらけの服。


少し大きな靴。


そして、ほとんど手をつけなかった料理を詰めた、重そうな籠。


リーズの声が低くなった。


「……我が主」


「うむ」


「気づいたか」


「当然じゃ」


扉が閉まる。


ベルガの姿が見えなくなったあとも、アラタはしばらくそこを見ていた。


七十年前に託されたものは、守った。


だが。


今、目の前に現れたベルガ自身については。


まだ、何も知らなかった。

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