ベルガ=スターク
町へ戻る頃には、昼を少し回っていた。
通りには朝より人が増え、露店の呼び声と荷車の軋む音が入り混じっている。
正宗の工房を出てから何度目かになる露店の前で、リーズが足を止めた。
串に刺した団子が、炭火の上で薄く焼き色をつけている。
「我が主」
「分かっておる」
アラタはため息をつきながら財布を出した。
「帰るまでに、もう一つくらいうまい物を食わせると言ったからのう」
リーズの顔が明るくなる。
「さすが我が主だ」
「食い物の時だけ素直じゃな、お主は」
団子を五本買う。
一本ずつ志乃と圭介へ渡し、弁慶にも差し出したが、弁慶は首を振った。
「拙僧はよい」
「なら我がもらおう」
リーズが即座に手を伸ばす。
圭介が目を丸くした。
「まだ食べるんですか?」
「別腹というものがあるのだろう?」
「それ、リーズさんが使っていい言葉なんですかね」
志乃が小さく笑った。
「もう誰も止められないと思います」
リーズは気にした様子もなく、最初の一本を口へ運ぶ。
「うまいな」
「じゃろ?」
アラタがなぜか少し得意そうに答えた。
「我が主が作ったわけではないだろう」
「細かいことを言うでない」
◇
その少し後ろ。
人混みの向こうで、小さな影が止まった。
十歳ほどに見える少女だった。
肩に触れるほどの髪は、鮮やかというより深い紅色をしている。手入れが行き届いているとは言えず、眉の辺りで揃わない前髪と、ところどころ外へ跳ねた毛先が歩くたびに揺れていた。
くすんだ濃茶の長袖の服は膝下まであり、薄汚れた生成りの襟と袖口には何度か繕った跡がある。腰を締めるのも飾り気のない細い紐だけだった。
古びた焦げ茶色の短靴も、少女の足にはわずかに大きい。
小さな籠を抱えた腕は、年齢を考えても細かった。
だが、その姿に似つかわしくないものが一つだけある。
金色の瞳だった。
少し吊り上がったその目だけは、痩せた身体にも粗末な服にも負けず、強い光を宿している。
少女は通りの向こうを歩く一行を見たまま動かなかった。
正確には、その中の二人を。
少年の姿をしたアラタ。
そして、白銀の髪を持つリーズ。
金色の瞳が、大きく見開かれる。
「……は?」
口から漏れた声は、誰にも届かなかった。
少女は目を擦った。
もう一度見る。
いる。
見間違いではない。
「なぜ……」
小さな唇が震える。
「なぜ、あやつらがここにおる……?」
アラタの姿は違う。
記憶にある勇者は、もっと大人びた姿だった。
だが、どこか見覚えのある立ち振る舞い。
リーズへ向ける呆れたような横顔。
そして何より、隣にいる白銀髪の女。
あれを間違えるはずがない。
「竜王リーズ……」
少女の眉間に皺が寄った。
「ということは……あの小僧、本当に……」
少女はしばらく立ち尽くした。
やがて抱えていた籠を持ち直す。
「……確かめるだけじゃ」
誰に言うでもなく呟く。
「会いたいわけではない。妾はただ、妙なものを見つけたから確かめるだけで――」
そこで口を閉じた。
自分でも言い訳じみていると思ったらしい。
少女は近くの建物の陰へ身を寄せると、歩き出した五人の後を追った。
◇
「我が主」
リーズが前を向いたまま呼んだ。
「何じゃ」
「気づいているか?」
「うむ」
アラタも振り返らない。
先ほどから、ついてきている。
敵意も殺気もない。
だが、人の流れに紛れながら一定の距離を保ち、こちらの動きに合わせて止まったり進んだりする気配があった。
志乃も気づいたらしく、わずかに歩調を緩める。
「誰かいますね」
「やっぱりですか?」
圭介が後ろを見ようとする。
「見ない方がいいです。ばれますよ」
志乃が小声で止めた。
「いや、もうばれておる気もするがのう」
アラタが苦笑する。
最後尾の弁慶も一度だけ後方へ視線を流した。
「害意は感じぬな」
「じゃろう?」
アラタが言う。
「何者かのう」
するとリーズが鼻を鳴らした。
「気にするな、我が主」
アラタが横を見る。
「お主、何か知っておるな?」
「知らん」
返事が早すぎた。
「では、なぜさっきから機嫌が悪い」
「悪くない」
「団子を食っておる時より明らかに悪いぞ」
「比較がおかしい」
それ以上、リーズは答えなかった。
角を曲がる。
まだいる。
露店の前を通る。
まだついてくる。
アラタが足を止めれば、後ろの気配も止まった。
歩き出せば、また動く。
圭介が耐えきれなくなったように囁く。
「これ、尾行っていうにはだいぶ下手じゃないですか?」
「言ってやるな」
アラタが答える。
「本人は隠れておるつもりなんじゃろう」
路地の角から、深い紅色の髪がほんの少しだけ覗いた。
すぐに引っ込む。
リーズのこめかみに青筋が浮かんだ。
「……鬱陶しい」
「知り合いなんですか?」
志乃が聞く。
「違う」
「即答ですね」
「違うものは違う」
「リーズ」
アラタが呼ぶ。
「何だ、我が主」
「顔が知り合いの顔じゃ」
「どんな顔だ」
「会いたくない知り合いがおる時の顔じゃ」
リーズが黙った。
アラタは少し笑う。
どうやら間違いないらしい。
その時だった。
背後から、とうとう声が飛んだ。
「勇者アラタ!」
アラタの足が止まる。
「竜王リーズ!」
通りの何人かが振り返った。
圭介も志乃も振り返り、弁慶はゆっくり身体を向ける。
リーズだけは前を向いたまま、大きく舌打ちした。
「チッ」
「リーズ」
「我が主」
「今のは聞こえたか?」
「幻聴だ」
圭介が目を丸くする。
「いや、俺にも聞こえましたけど」
「お前も疲れている」
「志乃さんも聞こえましたよね?」
「はい。はっきり聞こえました」
「集団幻聴だ」
「無理があるじゃろ」
アラタが呆れて言った。
背後から、さらに声が飛ぶ。
「誰が幻聴じゃ! この馬鹿竜!」
リーズの眉が跳ねた。
ゆっくりと振り返る。
「誰が馬鹿竜だ、この淫乱魔王!」
言い切った直後。
リーズの顔が止まった。
アラタも止まった。
圭介と志乃は、意味が分からないまま二人を見る。
弁慶だけが静かに少女へ視線を向けた。
「……リーズ」
アラタが呼ぶ。
リーズは目を逸らす。
「何だ」
「今、何と言った?」
「何も言っていない」
「言ったじゃろうが」
「聞き間違いだ」
「さっきからそればかりじゃな!」
少女がずかずかと歩いてくる。
深い紅色の髪が肩の辺りで揺れる。
粗末な服。
細い腕。
自分には少し大きな短靴。
見た目だけなら、この町のどこにでもいそうな痩せた少女だった。
それなのに、歩き方だけは違う。
胸を張り、周囲の視線など意にも介さない。
自分より遥かに大きな弁慶を見ても、一歩も怯まなかった。
少女はリーズの前まで来ると、腰へ手を当てる。
「久しいな、竜王リーズ。相変わらず性格が悪いようで安心したぞ」
「誰が貴様などに安心されたいものか」
「わははは! その減らず口も変わらぬな!」
その笑い声で、アラタの中に残っていた僅かな疑いまで消えた。
改めて顔を見る。
言われてみれば、確かに面影がある。
金色の目。
勝ち気に吊り上がる眉。
笑った時、片側が先に上がる口元。
顔立ちそのものは、確かにベルガだった。
だが、あまりにも違いすぎる。
アラタの記憶にあるベルガ=スタークは、背の高い成熟した女だった。
腰まで流れる深紅の髪。
鋭い金色の瞳。
妖艶な笑みを浮かべ、豪奢な衣装を纏って魔族の軍勢の先頭に立つ。
戦場に姿を見せるだけで空気が変わった。
身体から溢れる膨大な魔力は敵味方を問わず肌で感じられ、勇者だった頃のアラタでさえ、一瞬たりとも気を抜けない相手だった。
それが今はどうだ。
同じ顔が、十歳ほどまで幼くなっている。
長かった髪は肩で揺れるほどになり、成熟した面影も妖艶さも消えた。
痩せた小さな身体を包むのは、色褪せて継ぎ当ての残る服。
かつて全身から溢れていた魔力も、まるで感じない。
目の前にいるのは、少し気の強そうな貧しい少女にしか見えなかった。
それでも、こうして正体を知った後なら分かる。
目も。
眉も。
笑った時の口元も。
確かにベルガだった。
「……まさか」
少女がこちらへ顔を向ける。
金色の瞳が、真っ直ぐアラタを捉えた。
「遅いぞ、勇者アラタ」
「お主……」
リーズが忌々しそうに顔を逸らした。
少女はそれを見て、ますます機嫌よく笑う。
「わははは! この程度で妾を忘れたとは言わせぬぞ!」
妾。
その一人称まで耳に入り、アラタは完全に確信した。
かつて、人族と魔族が互いの生存を懸けて争った世界。
魔族の頂点に立ち、自分と何度も命を削り合った女。
最後には敗北を受け入れ、魔族の未来と娘を託して死んだ王。
「……ベルガ」
少女の口元が吊り上がる。
笑えば、小さな八重歯が覗いた。
その勝ち気な笑みまで、記憶の中の女と変わらない。
「ようやく気づいたか」
一歩前へ出る。
小さな身体で。
かつてと同じように、堂々と胸を張った。
「久しいな、勇者アラタ!」
金色の瞳が輝く。
「魔王ベルガ=スタークとは――妾のことよ!」
通りの真ん中で、十歳ほどにしか見えない少女が高らかに魔王を名乗った。
圭介が固まる。
志乃も言葉を失う。
弁慶は少女とアラタを交互に見た。
アラタだけが、しばらく何も言えなかった。
やがて、深く息を吐く。
「……お主まで、何でこんなところにおるんじゃ」
ベルガの笑い声が、昼の通りへ大きく響いた。




