正宗
扉の向こうから、低い声がした。
「入れ」
アラタは一瞬だけリーズを見る。
「聞こえておったようじゃな」
「我なら扉ごと開けていたぞ」
「やめい」
取っ手を回して中へ入ると、外から見た以上に奥行きのある工房だった。
壁際には大小の槌や鋏が並び、中央の炉では赤い炭がまだ息をしている。熱せられた鉄の匂いに炭と油の匂いが混じり、床には細かな鉄片と黒い煤が薄く積もっていた。
炉の前に、一人の男が座っている。
年は五十を越えているように見えた。髪には白いものが混じり、袖を肘まで捲った腕には古い火傷の痕がいくつも残っている。
男は五人を見た。
正確には、最初にアラタを見て、次にリーズへ視線を止め、それから弁慶の背負う荷へ移した。
「何の用だ」
「町の鍛冶屋に、ここを教えられてのう。剣を作ってもらいたい」
「見せろ」
余計な挨拶はなかった。
弁慶が荷を下ろし、まず黒い金属を包んだ布を開く。
男は立ち上がると、すぐには触れなかった。
炉の明かりにかざすように角度を変えて眺め、表面へ指を滑らせる。次に小さな槌を取り、端を軽く叩いた。
高く澄んだ音が工房へ響いた。
男の眉がわずかに上がる。
「重いな」
「分かるのか?」
「見た目に対して音が締まりすぎてる」
弁慶が塊を少し持ち上げ、作業台へ移す。
男はその様子を横目で見た。
「そっちの坊主も変だな」
「否定はせぬ」
「弁慶さん、最近受け入れるの早くないですか?」
圭介の言葉は無視された。
男は黒い金属へ鑢を当てた。
数度こすり、削れた部分を指先でなぞる。
「こいつは打てる」
アラタの目が少し明るくなる。
「やはりか」
「簡単とは言ってない。普通の鉄よりずっと硬い。火の入れ方を間違えれば、こっちが先に道具を駄目にする」
「それでも剣にはできるか?」
「ああ」
短く答えた後、男の視線がもう一つの包みへ移った。
「問題は、そっちだろ」
弁慶が灰銀色の剣状異物を取り出す。
炉の赤い光を受けても、表面の色はほとんど変わらない。角度が変わるたび、その奥を青白いものが細く走った。
男の表情から、初めて無関心さが消えた。
「……何だ、これは」
「それを知りたくて来たんじゃ」
「どこで拾った」
「迷宮の奥じゃ」
アラタは八つの首を持つ大蛇の尾から出てきたことだけを簡単に説明した。
ロキについては話さない。
あの男と、この異物が関係している証拠は何もない。
男は聞き終えると、灰銀色の異物を両手で持ち上げた。
刃らしき形をしているが、刃は立っていない。
鍔もない。
柄らしい部分すら、刀身と同じ材質のまま続いている。
「町の鍛冶屋は?」
「削れん。熱しても変わらん。曲がりもせんと言っておった」
「そうか」
男は作業台から細い鑢を取った。
志乃が少し身を乗り出す。
「試すんですか?」
「試さずに分かるなら鍛冶屋はいらん」
灰銀色の表面へ鑢を当てる。
乾いた音が数度続いた。
男は手を止め、異物と鑢の両方を見る。
削れたのは鑢の方だった。
圭介が顔を引きつらせる。
「またそっちが負けるんですか」
「面白い」
男が呟いた。
その声だけが、先ほどまでと違った。
男は別の道具へ持ち替え、刃を当ててから軽く叩き、今度は表面へ油を垂らして布で拭った。
何をしても灰銀色の異物には傷一つ増えない。
そのたびに、男の目だけが少しずつ楽しそうになっていった。
リーズが腕を組む。
「できるのか?」
男は顔を上げた。
「分からん」
リーズの眉が動く。
「分からんのに触っていたのか?」
「分からんから触るんだ」
「我が主の剣だぞ」
「まだ剣じゃない」
「なら剣にしろ」
「お前は少し黙ってろ」
工房の空気が止まった。
圭介が静かに一歩下がる。
志乃もリーズを見る。
弁慶だけは動かなかった。
リーズの紅い目が細くなる。
「……我に言っているのか?」
「他に誰がいる」
「ほう」
「リーズ」
アラタが先に呼んだ。
リーズはアラタを見る。
「この者の言う通りじゃ。まだ何も分かっておらん」
「だが」
「わしは急いで壊してもらいたくて来たのではないぞ」
その一言で、リーズは黙った。
納得した顔ではない。
だが、それ以上は言わず、腕を組んだまま一歩下がった。
男がアラタを見る。
「止められるんだな」
「たぶんのう」
「たぶん?」
「わしにも自信はない」
圭介が小さく吹き出した。
リーズが振り返る。
「何がおかしい」
「何でもないです」
男は鼻で笑い、もう一度灰銀色の異物を見る。
「壊していいか」
アラタは即座に首を振った。
「駄目じゃ」
「だろうな」
「ただ、加工できるかは調べてほしい。この黒い金属と合わせて、一振りにしたい」
男はしばらく二つの素材を見比べた。
「形は?」
「まだ決めておらん」
「それでいい」
アラタが少し意外そうに見る。
男は黒い金属を指で叩いた。
「素材を無視して形を先に決める方が面倒だ。こいつらが何を許すか見てから決める」
その言葉に、アラタは笑った。
「気に入った」
「こっちの台詞だ」
男もわずかに口元を上げる。
「こんな物を二つも持ってこられて、断れるか」
圭介が志乃へ小声で言う。
「普通の人ではなかったですね」
「でも、会話は成立してますね」
「そこは助かりました」
男の耳には届いていたらしい。
「聞こえてるぞ」
「すみません」
「で」
男はアラタへ向き直る。
「名前くらい聞いておくか」
「アラタじゃ」
「俺は正宗だ」
圭介の動きが止まった。
志乃も男を見る。
「……正宗?」
「そうだ」
圭介が一歩前へ出る。
「刀で有名な、あの正宗ですか?」
正宗の眉が寄る。
「後世の話なら知らん。俺は刀を打つ。それだけだ」
アラタが圭介を見る。
「知っておるのか?」
「有名ですよ。めちゃくちゃ」
「ほう」
アラタが正宗を見る。
正宗はもう興味を失ったように作業台へ視線を戻した。
「昔の俺の話をしに来たなら帰れ」
「いや、剣を作ってもらいに来たんじゃ」
「ならそれでいい」
自分の名が後世でどう扱われているかには、まるで興味がないらしい。
正宗は作業台を片づけ始める。
「預かる」
「できそうか?」
「知らん」
「またそれか」
「分からん物を今見たばかりだぞ。できると言う方を信用するな」
もっともだった。
アラタは頷く。
「どれくらいかかるんじゃ?」
「それも分からん。黒い方だけなら話は早い。こっちはまず、どうすれば傷が付くのかからだ」
正宗は灰銀色の異物を指した。
「数日で何か分かるかもしれんし、もっとかかるかもしれん。駄目なら駄目と言う」
「十分じゃ」
弁慶が二つの素材を作業台へ置き終える。
長く背負っていた荷がなくなり、その巨体が妙に軽く見えた。
リーズだけは名残惜しそうに灰銀色の異物を見ている。
「我が主」
「何じゃ」
「ここへ置いていくのか?」
「そのために来たんじゃろうが」
「我がここで見張る」
正宗が即座に言った。
「邪魔だ」
「何だと?」
「リーズ」
「我が主はこの男に甘すぎるぞ」
「会ってまだ少ししか経っておらんわ」
正宗はもう二人を見ていなかった。
灰銀色の異物を炉の明かりへかざし、完全に自分の世界へ入っている。
アラタはそれを見て、小さく笑う。
「行くぞ。邪魔をせん方がよさそうじゃ」
「我は邪魔などしない」
「お主は見ておるだけで口を出すじゃろ」
「当然だ」
「それを邪魔と言うんじゃ」
リーズは最後まで不満そうだったが、結局はアラタと一緒に工房を出た。
扉が閉まって間もなく、中から金属を叩く音が聞こえ始める。
今度は先ほどまでとは少し違う、不規則な音だった。
◇
町へ戻る道を五人で歩く。
弁慶は久しぶりに何も背負っていない。
圭介がその背中を見て言った。
「弁慶さん、急に小さく見えますね」
「変わっておらぬ」
「荷物がないからですかね」
「ならばお主を背負ってやろうか」
「大丈夫です」
即答だった。
志乃が小さく笑う。
その少し前を、アラタとリーズが並んで歩いていた。
リーズは工房を出てから何度か後ろを振り返っている。
「そんなに気になるか?」
「当然だ。我が主が使う物だぞ」
「まだ作れるとも決まっておらん」
「作らせる」
「正宗に聞かれたら追い返されるぞ」
リーズが鼻を鳴らす。
そのやり取りを聞いていた圭介が、ふと首を傾げた。
「そういえば」
「何だ?」
リーズが振り返る。
「リーズさんって、今回はいつまでこっちにいるんですか?」
リーズの足が少しだけ緩んだ。
アラタも横を見る。
それは、誰もまだ答えを持っていない問いだった。
「知らん」
リーズは素直に答えた。
「前は急に戻されたからな」
「レオルさんも、魔物を止めた後に消えましたよね」
圭介の言葉に、アラタが頷く。
「そうじゃな。リーズの時も、チンギスを退かせた後じゃった」
志乃が少し考える。
「じゃあ……何か役目みたいなものを終えたら、戻るんでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
アラタは歩きながら、二度の出来事を思い返す。
リーズが来たのは、チンギスと戦った夜。
チンギスを退かせた後、戻された。
迷宮ではレオルを呼んだ。
地上へ向かう魔物の群れを止め、その後しばらくして姿が消えた。
似ている。
だが、二度だけで決めるには早い。
「そういうものかもしれん」
アラタが言う。
「ただ、何が役目で、誰が終わったと決めるのかも分からん」
「我は決めたぞ」
リーズが即座に言った。
「何をじゃ」
「我の役目だ」
胸を張る。
「我が主の側にいる」
アラタはしばらく黙った。
「それでは一生終わらんではないか」
「何か問題があるか?」
「あるじゃろ」
「我にはない」
圭介が笑いを堪え、志乃は諦めたように息を吐いた。
弁慶だけが真面目な顔で考えている。
「ならば、今もここにおるということは」
リーズが弁慶を見る。
「何だ」
「まだ何か、果たすべきことがあるのかもしれぬな」
今度はリーズもすぐには返さなかった。
アラタも足を止めるほどではないが、その言葉だけは胸に残った。
リーズがここにいる。
前より長く。
それがただの偶然なのか。
それとも、まだ何かが終わっていないのか。
答えはない。
だが、急いで答えを出す必要もなかった。
町の屋根が見え始める。
正宗へ預けた素材がどうなるかも分からない。
リーズがいつまでここにいるのかも分からない。
分からないことばかりだった。
それでも今は、隣にいる。
アラタが横を見ると、リーズもこちらを見た。
「何だ、我が主」
「いや」
アラタは少しだけ笑う。
「帰るまでに、もう一つくらいこの町のうまい物を食わせてやろうと思ってのう」
リーズの顔が一瞬で明るくなった。
「本当か!」
「食う話だけは反応が早いのう」
「当然だ」
後ろで圭介が呟く。
「まだ食べるんだ……」
志乃が答えた。
「朝、あれだけ食べたのに……」
リーズが振り返る。
「聞こえているぞ」
町へ戻る五人の声が、昼の道に続いていった。




