待っていた竜王
鍛冶屋を出る頃には、空がすっかり茜色に染まっていた。
結局、黒い金属も灰銀色の異物も持ち帰ることになった。鍛冶屋は最後まで後者へ触れたそうな顔をしていたが、自分では扱えない物を預かる気にはならなかったらしい。
弁慶の背には、また重い袋がある。
圭介がそれを見上げた。
「結局また弁慶さんが持つんですね」
「拙僧が持つのが最も早い」
「まあ、そうなんですけど」
志乃が隣から言う。
「肩、本当に大丈夫なんですか?」
「もう塞がっておる」
「そういう問題じゃないです」
「では、どういう問題なのだ?」
「……何度も開く前提で動かないでください」
弁慶が黙った。
圭介が小さく笑う。
「黒田さん、強いなあ」
「圭介も無茶したら同じですからね」
「俺もですか」
「当然です」
アラタは三人のやり取りを聞きながら、少し前を歩いていた。
明日からは、鍛冶屋が心当たりがあると言っていた鍛冶師を探すことになる。
黒い金属だけなら、今の鍛冶屋でも剣にできる。
だが、あの灰銀色の異物まで使うなら別だ。
削れない。
曲がらない。
熱にも反応しない。
剣の形をしているくせに、魔物一匹まともに斬れなかった。
「本当に剣なんですかね、あれ」
圭介が後ろから言った。
「分からん」
「アラタさん、それ今日何回目ですか」
「分からんものは分からん」
「ロキも分からない。迷宮も分からない。あの剣も分からない」
「今日は分からんことが多かったのう」
「多すぎますよ」
志乃がため息をつく。
「だから今日は、もう増やさないでくださいね」
アラタが振り返った。
「わしに言うのか?」
三人とも答えなかった。
「何じゃ、その顔は」
誰も答えないまま歩き続ける。
アラタは不満そうに前へ向き直った。
その日の夜。
食事を終えたあと、志乃と圭介は早々に休むことにした。
迷宮へ入ってから、まともに身体を休める時間はほとんどなかった。緊張が切れた途端、圭介などは食事の途中から何度も欠伸を噛み殺していた。
弁慶は眠る前に少し外を歩いてくると言った。
「町の中じゃぞ」
「承知しておる」
「人を追手と間違えるでないぞ」
弁慶が眉を寄せる。
「もう間違えぬ」
「ならよい」
「お主、拙僧を何だと思っておる」
「初対面で斬りかかってきた大男」
「……それは、すまなかった」
真面目に謝られ、アラタの方が困った。
「もうよい。冗談じゃ」
弁慶は一度頷き、夜の町へ出ていった。
やがて、アラタ一人が残った。
昼間までの騒ぎが嘘のように静かだった。
開けた窓から、夜の風が入ってくる。
遠くで誰かが戸を閉める音がした。
机の上には何もない。
黒い金属も、灰銀色の異物も、弁慶が自分の荷と一緒に置いている。
アラタは寝台へ腰を下ろした。
「……長い一日じゃったのう」
誰に言うでもなく呟く。
目を閉じると、地下の光景が浮かんだ。
八つの首。
ロキ。
押し寄せる魔物。
そして、黄金の鬣。
『陛下を覚えてる奴は、大勢いる』
レオルの声が、妙にはっきりと残っている。
アラタは自分の手を見る。
この小さな手で、もう一度あの世界へ触れた。
最初はリーズだった。
あの時は、何が起きたのかも分からなかった。
ただ懐かしい気配があり、その向こうにリーズがいた。
次はレオル。
今度は違った。
自分で相手を思い浮かべた。
手を伸ばすように、呼んだ。
一度は何も起きなかった。
二度目に届いた。
「レグナルシア、か」
口にすると、胸の奥が少しだけ重くなる。
長く生きた世界だった。
王となり、多くの仲間と出会い、同じだけ多くの敵とも戦った。
笑ったことも、失ったことも、その全部が向こうにある。
リーズ。
レオル。
巴たちに話していない者も、まだ大勢いる。
自分が死んだあとも、彼らの時間は続いている。
「元気な奴もおる。そうでない奴もおる、か」
レオルの言葉を思い返す。
会いたいと思った。
誰か一人ではない。
あの世界そのものを、久しぶりに近く感じた。
その時だった。
指先に、ほんのわずかな違和感が走った。
アラタが顔を上げる。
何もない。
だが、空気が少しだけ重い。
「……ん?」
寝台から立ち上がる。
窓から入る風とは違う。
目の前の空間が、ごくわずかに歪んだ。
レオルを呼んだ時ほど大きくない。
リーズが現れた時のような強い気配もない。
糸のように細い。
今にも消えそうな、僅かな感覚だった。
アラタは息を止める。
「まさか」
◇
その頃。
遥か遠い世界で、一人の女が机を叩いた。
「今だ!」
石造りの広間に声が響く。
床いっぱいに描かれた術式が淡く光っていた。
その周囲には、白い鱗を持つ竜族の者たちと、長い耳を持つ術師たちが座り込んでいる。
壁際では、古い書物を抱えた者が眠りかけていた。
「竜王様、まだ反応は――」
「ある!」
リーズは床へ膝をついた。
紅い瞳が、術式の一点を見つめている。
「我には分かる」
「ですが、先ほどまで何も――」
「黙れ。今、我が主がこちらを見た」
誰もその意味を理解できなかった。
だが、リーズだけは確信していた。
あの日。
突然開き、突然閉じた道。
消える直前まで必死に覚えた、あの感覚。
それを探すために、戻ってから休んでなどいない。
竜族の術師だけでなく、空間転移に詳しい者や古い術式を知る者まで集め、片端から知恵を借りた。
それでも、道は見つからなかった。
どれほど魔力を流し、術式を重ねても、こちら側だけでは何も起きない。
だから待っていた。
向こうから、ほんの少しでも開く瞬間を。
床の術式の一部が揺れ、細い光が走った。
リーズはそれを見た瞬間、笑みを浮かべて立ち上がる。
「見つけた」
「竜王様、まだ固定できていません!」
「十分だ」
「十分ではありません!」
「我が主がいる」
リーズは迷わなかった。
「なら十分だ」
光の中へ手を伸ばす。
その瞬間、細かった道が一気に広がった。
◇
アラタの目の前で、空間が白く弾けた。
思わず腕で目を覆う。
風が部屋の中を巻いた。
机の上の紙が飛び、窓が大きく鳴る。
「何じゃ!」
光が収まる。
そこに、一人の女が立っていた。
白銀の髪。
紅い瞳。
白を基調とした衣服。
見間違えるはずがない。
女は胸を張った。
「我が主!」
アラタはしばらく黙った。
「……リーズ」
「そうだ!」
リーズは満面の笑みを浮かべる。
「我だ、我が主!」
次の瞬間には、アラタの目の前まで来ていた。
両肩を掴まれる。
「会いたかったぞ、我が主!」
「近い近い」
「今回は我から来たぞ!」
「声が大きい。皆が起きるじゃろう」
「そんなことはどうでもいい!」
「よくないわ」
リーズはまったく聞いていない。
アラタの顔を見て、腕を見て、どこにも消えそうな様子がないことを確かめる。
それから自分の手を見る。
透けていない。
「見たか、我が主」
「何をじゃ」
「我と我が主の結びつきが、それだけ強いということだ」
得意げだった。
アラタは少し考える。
「お主、向こうで何をしておった?」
リーズの目がわずかに泳いだ。
「何も」
「今、何もと言ったか?」
「大したことではない」
「何をした」
リーズは口を閉じた。
アラタがじっと見る。
やがて、小さく答えた。
「……少し、皆に手伝わせた」
「皆?」
「竜族の術師や、空間転移に詳しい者や、古い術式を知る者などだ」
「どこが少しじゃ」
「我が主へ戻るためだ。当然だろう」
「それだけ集めておいて、わしとの結びつきだけで来たような顔をしておったのか」
「最後に道を開いたのは我と我が主の結びつきだ」
「待ち構えておっただけではないか」
「待つのも力だ、我が主」
「初めて聞いたぞ、そんな理屈」
リーズは気にしない。
むしろ嬉しそうにアラタの隣へ座った。
「だが、我が主」
「何じゃ」
「今回は前よりはっきり分かった」
「何がじゃ」
リーズは少し考えてから答えた。
「少なくとも今回は、我が主がこちらを強く思った瞬間、道の気配が見えた」
「道の気配?」
「ほんの僅かだった。放っておけば、すぐ消えていただろう」
リーズは自分の手を見る。
「だから我が掴んだ。向こうから開いたものを、こちらから無理やり広げた」
アラタは少し黙った。
完全に理解したわけではない。
ただ、少なくとも今回は、向こう側からも手を伸ばして接続を広げられたらしい。
「同じことが毎回できるのか?」
「それは分からん」
リーズはあっさり答えた。
「今回はできた。それで十分だ、我が主」
「そこは分からんのじゃな」
「次もやれば分かる」
「相変わらず力任せじゃのう」
「成功したのだから問題ない」
「そういうところじゃぞ」
リーズは気にした様子もなく胸を張った。
アラタは少し考え、自分の手を見る。
「しかし、名前でも付けんと毎回これを説明するのも面倒じゃな」
「名前?」
「向こうの世界におる者へつながって、こちらへ呼ぶ力じゃろ」
アラタは少し考えた。
「異界召喚でよいか」
リーズの顔が止まる。
「待て、我が主」
「何じゃ」
「それではあまりにも単純すぎる」
「分かりやすくてよいじゃろ」
「我が主の力だぞ。もっと相応しい名がある」
リーズは腕を組み、しばらく真剣に考え込んだ。
やがて、何かを思いついたように顔を上げる。
「そうだな――『万界の境を穿ち、救世帝の盟約に応えし者を現世へ導く超越王界召来』などはどうだ?」
アラタは即答した。
「長い。却下じゃ」
「なぜだ!」
「言い終わる前に戦いが終わるわ」
「では短くして、『救世帝盟約・万界超越召来』――」
「異界召喚じゃ」
「我が主!」
「決まりじゃ」
リーズは露骨に不満そうだった。
「もう少し威厳というものをだな」
「名前で敵を倒すわけではあるまい」
「我が主は、そういうところだけ妙に雑だな」
「お主に言われとうないわ」
アラタは気にしなかった。
異界召喚。
まだ何ができるのかも、どこまで届くのかも分からない。
それでも、リーズとレオルへ続いたこの力を呼ぶには、そのくらい単純な名の方が自分には合っている。
アラタはそこで、ふと思い出したように言った。
「そういえば、今日はレオルも来たぞ」
リーズが止まった。
「……何?」
「レオルじゃ。久しぶりに会った」
リーズの紅い瞳が細くなる。
「なぜあやつの名が出る」
「今日、こっちへ来たからじゃ」
「待て、我が主」
リーズがゆっくりとアラタを見る。
「レオルが、ここへ来たのか?」
「うむ」
「どうやって」
「わしが呼んだ」
部屋が静かになった。
リーズが笑った。
とても綺麗な笑顔だった。
「そうか」
「何じゃ、その顔は」
「我が主が、自分で、レオルを呼んだのか」
「そうじゃが」
「我は?」
「お主の時は勝手につながったようなものじゃったな」
笑顔のまま、リーズのこめかみが僅かに動いた。
「そうか」
「何を怒っておる」
「怒っていない」
「怒っておる顔じゃ」
「怒っていない、我が主」
明らかに怒っていた。
アラタはため息をつく。
「レオルには何の責任もないぞ」
「分かっている」
「ならよい」
リーズが腕を組む。
「我が主に呼ばれて、さぞ得意げだったに違いない」
「普通じゃったぞ」
「それが腹立つ」
「理不尽すぎるじゃろう!」
リーズは少し考えた。
「戻ったら一度殴る」
「分かっておらんではないか!」
「一度だけだ」
「回数の問題ではないわ!」
その時、扉の向こうから足音がした。
続いて、控えめなノック。
「アラタさん?」
圭介の声だった。
「今、誰かいるんですか?」
アラタはリーズを見る。
リーズも扉を見る。
「……お主のせいじゃぞ」
「我は普通に話していただけだ」
「どこがじゃ」
もう一度、扉が叩かれる。
「入っても大丈夫ですか?」
アラタは額を押さえた。
「入れ」
扉が開く。
眠そうな顔をした圭介が中を覗き、その後ろから志乃も顔を出した。
二人とも、見知らぬ女を見て足を止める。
白銀の髪。
紅い瞳。
白を基調とした衣服。
圭介が何度か瞬いた。
「……誰ですか?」
志乃も警戒するようにリーズを見ている。
リーズは当然のようにアラタの隣に立ったまま、胸を張った。
「リーズ=アルヴァレインだ」
二人の表情が変わった。
「え?」
圭介がリーズとアラタを交互に見る。
「リーズさんって……あの?」
「うむ」
アラタが頷いた。
「白いドラゴンのリーズじゃ」
志乃も驚いたように目を見開く。
「本当に来たんですか」
「今度は向こうからじゃ」
圭介がゆっくりアラタを見る。
「黒田さん」
「何ですか」
「夕方、何て言いましたっけ」
志乃はしばらく黙った。
「……今日はもう増やさないでください、です」
「増えましたね」
「わしのせいではないぞ!」
リーズが不思議そうに三人を見る。
「何の話だ?」
誰もすぐには答えなかった。
夜は、まだ少し長くなりそうだった。




