鍛えられぬ剣
レオルが消え、地下に静けさが戻ってからも、四人はしばらくその場に残っていた。
つい先ほどまで巨大な獅子の獣人が立っていた場所には、削れた石床と血の跡だけが残っている。
圭介が先に息を吐いた。
「……帰りましょうか」
「うむ」
アラタも頷いた。
魔物の群れは止まった。だが、迷宮そのものが元へ戻ったわけではない。
弁慶の肩からは、また血が滲んでいた。
志乃がすぐに気づく。
「その前に、包帯を巻き直します」
「この程度なら――」
「駄目です」
即答だった。
弁慶は口を閉じた。
圭介が小さく笑う。
「弁慶さん、黒田さんには勝てなさそうですね」
「戦う理由がない」
「そういう意味じゃないです」
アラタは二人のやり取りを聞きながら、奥の暗闇へ一度だけ目を向けた。
ロキの姿はない。あれほど溢れていた魔物の気配も遠くへ散っている。
追う理由はなかった。
「戻るぞ」
今度は迷わず言った。
◇
帰路は、来た時より短く感じた。
実際に短かったのかもしれない。
志乃は何度も地図を開き、壁や床へ視線を走らせながら、白い石で残したはずの印を探した。
見つかる場所もある。
だが、その先にあるはずの曲がり角がない。
逆に、地図では壁だった場所に通路が開いていた。
「やっぱり違う」
志乃が足を止め、紙の上へ指を置いた。
「ここ、来る時は右へ曲がりました」
目の前には古い石壁が続き、右へ進める場所などない。
圭介が顔をしかめる。
「見間違いじゃないですよね」
「ここは覚えてます。壁に二つ印を付けましたから」
志乃が灯りを近づけるが、白い跡は見当たらなかった。
アラタも壁へ手を当てる。
継ぎ目はあるものの、今ここで動いた形跡までは分からない。
「玄馬に見せるものが増えたのう」
「喜ばないと思いますよ」
「わしもそう思う」
それ以上は調べず、地上へ戻ることを優先した。
人工的な石造りの通路が終わり、岩肌を削った古い坑道へ戻る。
来る時に見た採掘跡や古い木組みを横目に進み、やがて前方に白い光が見えてきた。
出口だった。
四人が坑道を抜ける。
久しぶりの日差しに、圭介が目を細めた。
「……外だ」
湿った地下の空気ではない。
風が頬を撫でる。
志乃も小さく息を吐いたが、その表情はすぐに引き締まった。
入口から少し離れた地面に、小型の魔物が倒れていた。
一体だけではない。
草の上や岩の脇に、数体の死骸が点々と残っている。
圭介が近くの一体を見た。
「これ、さっきの奴らですよね」
「じゃろうな」
少し先には、中型の魔物が横倒しになっていた。
脇腹には槍で突いた穴、肩には矢、首筋には刃物で斬られた跡が残っている。
志乃が傷を見比べる。
「一人で倒した傷じゃないですね」
「複数で囲んだのであろう」
人間の死体は見当たらない。
少なくとも、レオルが現れる前に上へ抜けた魔物の多くは、ここで討たれたらしい。
「玄馬たち、気づいたんですね」
圭介の声から少し力が抜けた。
「気づかん方がおかしいじゃろう。あれだけ地上へ向かって走ればのう」
「それもそうですけど」
少し離れたところに、何人もの討伐者がいた。
負傷者の手当てをする者、周囲を警戒する者、魔物の死骸を確認する者。
その中央で腕を組んでいた男が、四人を見る。
榊玄馬だった。
「……遅い」
第一声がそれだった。
アラタが笑う。
「迎えに来てくれたのか」
「魔物が十匹近く飛び出してきた場所を放っておけるか」
玄馬の目が志乃、圭介、アラタへ移り、最後に弁慶で止まった。
しばらく黙る。
「三人で入ったよな?」
「途中で増えた」
「迷宮で人を拾うな」
「好きで拾ったわけではないぞ」
弁慶が一歩前へ出た。
「武蔵坊弁慶と申す」
玄馬の眉がわずかに上がった。
「……その弁慶か?」
「どの弁慶を指しておるかは知らぬが、源義経が家臣、武蔵坊弁慶に相違ない」
玄馬は額を押さえた。
「分かった。話は中で聞く」
そう言いかけて、弁慶の肩へ目を留める。
血で汚れた包帯が巻かれていた。
「その傷、先に見せろ。話はその後だ」
「もう治っておる」
「は?」
弁慶は包帯へ手をかけ、少しだけずらした。
さっきまで血が滲んでいたはずの肩は、もう塞がっている。
傷の跡こそ残っているが、新しい血は出ていなかった。
玄馬が黙る。
志乃も肩を見る。
「……もう?」
「うむ」
「なら、さっき言ってくれればよかったのに」
弁慶は少しだけ目を逸らした。
「手当てをしてくれる者の厚意を無下にする理由もあるまい」
志乃は何も言わなかった。
圭介が吹き出す。
玄馬は弁慶とアラタを交互に見た。
「……また変なのが増えたな」
「わしを見る必要はあるか?」
「お前の周りに増えてるんだよ」
弁慶が低く笑った。
◇
詰所へ戻ったあと、机の上に二枚の地図が広げられた。
一枚は玄馬が持っていた探索記録。
もう一枚は、志乃が迷宮内で書き足したものだ。
玄馬は何度も見比べている。
「ここだ」
志乃が指を置いた。
「入る時は、この分岐を右へ進みました。でも帰りには壁になっていました」
「印は?」
「ありませんでした。壁そのものが違っていました」
玄馬は答えず、別の場所を見る。
「こっちは?」
「行きにはありません。帰りには通路が開いていました」
「崩れた跡じゃないのか」
「床も壁も、最初からそう造られていたように見えました」
玄馬が黙る。
以前なら、見落としや崩落、人為を先に疑った男だ。
だからこそ、すぐには結論を出さない。
「四人とも見たんだな?」
「うむ」
「はい」
「見ました」
「拙僧も確認した」
玄馬は地図を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
やがて低く息を吐く。
「……本当に道が変わった可能性を考えた方がよさそうだな」
圭介が少し驚いた顔をする。
「信じるんですか?」
「信じたくはない」
玄馬は即答した。
「だが、四人が同じものを見て、地図とも合わない。無視する方が危ない」
アラタが頷く。
「それでよい」
「それでよい、じゃない」
玄馬が顔を上げた。
「まだあるんだろ」
アラタは少し考えた。
「どこから話すかのう」
「最初から話せ」
アラタたちは、八つの首を持つ巨大な蛇との戦いから、その尾から出てきた奇妙な剣、ロキと名乗った男、指を鳴らした直後に動き始めた迷宮、地上へ向かった魔物の群れ、そして最後に現れたレオルまで順に話した。
一通り聞き終えた玄馬は、両肘を机へついた。
「お前は迷宮へ素材を取りに行ったんだよな?」
「そのつもりじゃった」
「何で弁慶を連れて帰って、八つ首の化け物を倒して、また昔の仲間を一人呼んでる」
「わしに言われても困る」
「俺も困ってる」
圭介が横を向いて笑いを堪えた。
玄馬はアラタを睨んだあと、表情を戻す。
「ロキって男は?」
「分からん」
アラタの声から笑いが消えた。
「じゃが、普通ではない」
あの男を前にした時、強さを測れなかった。
百年近く戦い続けた自分の感覚に、何一つ引っかからなかったことが何より気味が悪い。
「敵なのか?」
「それも分からん」
「味方では?」
「少なくとも、そう思って動く気はない」
玄馬は短く頷いた。
「なら、それでいい。分からない奴を信用する必要はない」
話を終えると、アラタは足元の荷を見る。
弁慶が運んできた黒い金属と、大蛇の尾から抜いた細長い異物。
目的そのものは忘れていない。
「次はこれじゃな」
玄馬が嫌そうな顔をした。
「まだ何かするのか」
「鍛冶屋へ行くだけじゃ」
「その言葉、今は妙に信用できん」
◇
見慣れた鍛冶屋へ入った瞬間、店主はアラタの腰を見た。
空だった。
「……折ったな」
アラタは黙った。
「おい」
「色々あってのう」
「絶対折るなと言ったよな?」
「覚えておる」
「任せておけ、とも言ったな?」
「言った気がする」
「言った」
圭介が後ろで顔を背けた。
志乃も何も言わない。
鍛冶屋は深く息を吐いた。
「で?」
「代わりになりそうな物を持ってきた」
「嫌な予感しかしない」
弁慶が袋を下ろすと、重い音が床へ響いた。
中から黒い金属の塊を取り出した瞬間、鍛冶屋の表情が変わる。
「……これか」
「前に見せてもらった物と同じじゃと思う」
店主は表面を眺め、指で軽く叩いて音を確かめてから両手で持ち上げた。
「重っ」
「お前ら、これを持って帰ってきたのか」
アラタが弁慶を見る。
「ほぼこやつが」
「拙僧は運んだだけだ」
「十分おかしい」
鍛冶屋は黒い金属を作業台へ置き、以前の小さな欠片と見比べた。
しばらく重さや表面を確かめたあと、口元がわずかに緩む。
「これだけあれば、剣一本分はどうにかなりそうだな」
「おお」
アラタの顔が明るくなる。
「では頼めるか?」
「待て。まだ何か持ってる顔してるだろ」
「分かるのか?」
「嫌な予感だけは当たるようになった」
アラタは弁慶へ目を向けた。
次に取り出されたのは、あの剣状の異物だった。
淡い灰銀色。
鍔も柄巻きもなく、見る角度によって内部を青白い光が走る。
それを見た鍛冶屋から、さっきまでの軽口が消えた。
「……何だ、これ」
「大蛇の尾から出てきた」
「聞かなきゃよかった」
「剣のようじゃろ?」
「形だけならな」
アラタは灰銀色の異物と黒い金属を交互に見た。
「せっかくなら、これも使えんか?」
「簡単に言うな」
鍛冶屋は剣状異物を作業台へ置き、まず鑢を当てた。
嫌な音だけが響き、表面には傷一つ付かない。
刃物を替え、今度は端を削ろうとする。それでも変化はなく、火へ近づけても色すら変わらなかった。
鍛冶屋の眉間に皺が寄っていく。
何度か道具を替えた末、とうとう手を止めた。
「黒い方は打てる」
アラタを見る。
「時間はかかるが、前にも言った通り、こいつだけなら俺でも剣にできる」
「では、そちらは?」
鍛冶屋の視線が灰銀色の異物へ落ちた。
「こいつは無理だ」
「全くか?」
「少なくとも俺にはな。削れん、曲がらん、熱を入れてもどうなってるのか分からん。下手に弄れば、何が起きるかも読めない」
圭介が覗き込む。
「でも、これって魔物も切れなかったんですよね」
「うむ。見た目だけは立派な剣じゃった」
「余計に訳が分からんな」
鍛冶屋は腕を組んだ。
アラタは少し考えてから、黒い金属を指す。
「わしとしては、これとあれを使って一本にしてみたい」
店主が露骨に嫌そうな顔をした。
「お前、今の話を聞いてたか?」
「聞いておったから頼んでおる」
「俺には無理だと言っただろ」
「なら、できる者を知らんか?」
鍛冶屋はしばらく黙った。
やがて灰銀色の異物を見つめたまま、鼻から息を吐く。
「……一人だけ、心当たりがある」
「おるのか」
「できるとは言ってない。ただ、こんな訳の分からん物を見せたら、嫌がるどころか寝るのも忘れて触り始めそうな鍛冶師だ」
「変人か?」
「職人だ」
「同じようなものではないか?」
「本人の前で言ってみろ」
アラタは少し考えた。
「やめておこう」
「賢明だ」
作業台の上には、黒い金属と灰銀色の異物が並んでいる。
迷宮へ入った目的だった素材は手に入った。
だが、アラタが望む一本に仕上げるには、まだ一人足りないらしい。
「では、その鍛冶師を探すかのう」
アラタが言うと、圭介が小さく息を吐いた。
「今度は普通に会える人だといいですね」
誰も答えなかった。




