境界の向こう
二つの巨大な影が、魔物の群れを押し分けて進んできた。
先ほど石柱へ突っ込んだ四足獣より、さらに大きい。
一頭は、全身を黒い甲殻で覆われた四足獣だった。
肩から背中へ重なる甲殻は、一枚一枚が岩盤のように分厚い。低く突き出した頭部からは、黒ずんだ二本の角が左右へ大きく湾曲して伸びている。
歩くたびに甲殻同士が擦れ、ぎりぎりと硬い音を立てた。
継ぎ目から覗く皮膚だけが赤黒い。
足を踏み下ろすたび、太い爪が石床へ食い込んでいく。
その隣を進むもう一頭は、さらに異様だった。
灰褐色の長い毛に覆われた巨体には熊を思わせる厚みがありながら、長い腕と前傾した姿勢は大猿にも見える。それでも、どちらとも言い切れない異様な姿だった。
盛り上がった肩はレオルより高く、背中の毛だけが棘のように逆立っている。
前脚だけが異常に長い。
床すれすれまで垂れた腕の先には、人間の胴ほどもある巨大な拳。
顔の下半分は前へ突き出し、厚い唇の隙間から上下二本ずつ太い牙が覗いていた。
鼻から息を吐くたび、白い蒸気が漏れる。
二頭が並んで進むだけで、小型の魔物たちが左右へ押し退けられていった。
それまでの群れとは、明らかに違う。
レオルは一人で、その全部を正面から見ていた。
「ガハハハ!」
巨大剣を肩へ担いだまま、レオルは豪快に笑った。
「いいなあ! やっと少し戦らしくなってきた!」
圭介が遠くから聞いて、顔を引きつらせた。
「今まで戦じゃなかったんですか……」
「レオル基準ではのう」
「聞きたくなかったです、その基準」
アラタはそう答えながらも、前から目を離さなかった。
レオルが何をするのか。
それを、よく知っている。
黒い甲殻の獣が先に走った。
石床へ爪を食い込ませ、一気に加速する。
重いはずの巨体が、速度を上げるほど低く沈んでいく。
太い二本角がレオルへ向く。
その横では、灰褐色の巨獣も長い前脚を床へ叩きつけながら速度を上げていた。
拳が石床へ落ちるたび、砕けた石が跳ねる。
二頭が少しずれた位置から挟み込む。
逃げ道を潰す動きだった。
レオルは動かない。
一歩も。
「来い」
角が目前まで迫る。
そこで初めて、レオルの足が動いた。
後ろではない。
前へ。
黒い獣の角の内側へ踏み込み、巨大剣の腹を角へ押し当てる。
金属が擦れるような音が響いた。
レオルの巨体が横へ押される。
石床が両足の下で削れた。
だが、止めてはいない。
剣を滑らせながら身体を捻る。
突進していた獣の頭が、わずかに横へ向いた。
ほんの少しだった。
それで十分だった。
進路を変えられた黒い巨獣が、横から迫っていた灰褐色の巨体へ激突する。
分厚い甲殻へ巨大な拳がぶつかり、二頭がもつれた。
「今じゃな」
アラタが呟いた時には、レオルはもう跳んでいた。
巨大剣が頭上へ上がる。
最初に振り下ろされた刃は、黒い獣の首と肩の境へ食い込んだ。
厚い甲殻が砕ける。
完全には断てない。
それでも刃を抜かず、レオルは柄を両手で握ったまま体重を乗せた。
「ぬおおおっ!」
甲殻がさらに割れた。
赤黒い皮膚が裂け、血が噴き出す。
巨獣が暴れる。
その動きに合わせ、巨大剣が深く沈んでいく。
最後にレオルが身体を捻った。
刃が首の半ばまで走り、黒い巨体が石床へ横倒しになる。四肢が一度大きく痙攣し、それきり動かなくなった。
灰褐色の巨獣が起き上がった。
巨大な拳を振り回す。
レオルは剣を引き抜くより先に手を離した。
拳が頭上を通る。
風だけで黄金の鬣が大きく揺れた。
そのまま巨獣の懐へ入る。
「おらぁ!」
腹へ拳を叩き込んだ。
灰褐色の毛が波打つ。
あれほどの巨体が、一瞬だけ浮いた。
圭介が声を失う。
レオルはさらに肩をぶつけた。
毛むくじゃらの巨獣が後ろへよろめき、押し寄せていた小型の魔物を何体も巻き込んで倒れる。
そこでレオルは黒い獣へ刺さった巨大剣を引き抜いた。
「まだ寝るなよ!」
起き上がろうとした灰褐色の巨獣の首へ、横薙ぎの一撃が走る。
逆立っていた毛が血とともに舞った。
太い首が半ばまで裂け、巨獣の身体が再び沈む。
今度は動かなかった。
二頭の巨体が道を塞ぐ。
後ろから来ていた魔物が次々と止まり、押し合う。
レオルはそこへ歩いていった。
逃げ場を失った群れの正面へ。
巨大剣を肩へ戻す。
「陛下!」
「なんじゃ!」
「これで、俺の前は一匹も通してねえぞ!」
「まだ終わっておらん!」
「分かってる!」
笑い声が返ってくる。
次の瞬間。
巨大剣が横へ走った。
密集した魔物の前列がまとめて崩れる。
後ろから押していた群れも止まり、やがて前へ進めなくなった魔物たちが互いを押し退けながら深部へ戻り始めた。
それでもレオルは追いすぎない。
崩れた石柱と二頭の巨体で狭くなった場所より先へは踏み込まず、そこへ来るものだけを潰していく。
一頭。
二頭。
五頭。
十頭。
数える意味がなくなる。
やがて、足音が減った。
咆哮も遠くなる。
最後に、小さな獣が一頭だけ瓦礫の隙間から抜けようとした。
レオルの左手が伸びる。
首根っこを掴まれた魔物が宙へ持ち上がった。
「お前で最後か?」
当然、返事はない。
「なら戻れ」
レオルは笑いながら、魔物を深部へ放り投げた。
何度か石床を転がった獣は、悲鳴を上げながら暗闇へ逃げていく。
圭介が目を瞬いた。
「……殺さないんですか?」
アラタが答える。
「もう地上へ向かっておらんからのう」
レオルも遠くから聞いていたらしい。
「逃げる奴まで追うほど暇じゃねえよ!」
「同じじゃな」
アラタが笑う。
地下に、久しぶりの静けさが戻った。
完全な静寂ではない。
遠くでは、まだ魔物の鳴き声がする。
だが、こちらへ押し寄せる無数の足音は消えていた。
志乃は弓を下ろした。
残った矢を確かめ、それから地上へ続くはずの通路を見る。
「でも、レオルさんが来る前に抜けた魔物がいます」
圭介も思い出したように顔を上げた。
「そうだ。最初に何匹か上へ行きましたよね」
「うむ」
アラタも通路を見る。
正確に数える余裕はなかった。
それでも、思い返せば十体前後。
大半は裂牙犬ほどの小型種だった。
混じっていた中型も、あの大蛇や今の二頭とは比べるべくもない。
「ほとんど小型じゃ。中型も何体か混じっておったが、あの程度なら地上の討伐者たちでも対処できるじゃろう」
志乃が少し考える。
「念のため、戻ったら確認した方がいいですね」
「もちろんじゃ」
圭介がようやく息を吐いた。
「じゃあ、本当に一番まずいところは止めたんですね」
「そういうことじゃな」
弁慶は二人の前から退かず、暗い通路を見ていた。
「油断はせぬ方がよい」
「分かってます」
圭介が言いながら、少しだけ笑った。
その時。
遠くにいたレオルが、巨大剣を肩へ担いで歩いてきた。
黄金の鬣には血が付いている。
腕や胸にも細かな傷が増えていた。
だが歩き方は変わらない。
呼吸もほとんど乱れていない。
「よし」
四人の前まで戻ると、レオルは巨大剣を石床へ立てた。
「頼まれた分は止めたぞ」
アラタは頷いた。
「見ておった」
「なら褒めろ」
「よくやった」
「軽いな!」
圭介が思わず笑った。
レオルの目がそちらへ向く。
「お前、槍の兄ちゃんだったな」
「斎藤圭介です」
「ケイスケか」
次に志乃を見る。
「弓の嬢ちゃんは?」
「黒田志乃です」
「シノ」
最後に弁慶。
「でかい坊主」
「武蔵坊弁慶だ」
「ベンケイか。やっぱりでかいな」
「貴殿に言われたくはない」
二人が並ぶ。
圭介が小さく呟いた。
「どっちもでかい……」
志乃が肘で軽く押した。
レオルは気にした様子もなく笑う。
「ガハハハ! いいな、陛下。面白い奴らと一緒じゃねえか」
「わしもそう思う」
アラタの返事に、三人が少しだけ黙った。
レオルはその反応を見て、牙を見せる。
「仲間なんだろ?」
「うむ」
「なら大事にしろよ」
「言われんでも分かっておる」
「陛下は昔から、分かってても自分で前に出るからな」
志乃と圭介が同時にアラタを見た。
アラタが眉を寄せる。
「レオル」
「なんだ?」
「余計なことを言うでない」
「何が余計なんだ?」
「そこです」
志乃が真顔で言った。
「ほらな」
レオルが笑う。
圭介まで頷いた。
「初対面なのに話が早いですね」
「お主ら、わしを挟んで仲良くなるな」
久しぶりだった。
レオルの大きな笑い声を、こんな近くで聞くのは。
戦場でも、城でも、酒宴でも、いつもよく笑っていた。
アラタは改めて、目の前の獅子の獣人を見上げる。
「……久しいのう、レオル」
レオルの笑みが少しだけ変わった。
先ほどまでの戦場での笑い方ではない。
「おう」
短い返事だった。
「久しぶりだな、陛下」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
圭介も志乃も口を挟まなかった。
弁慶も黙っている。
レオルがアラタを上から下まで見る。
「しかし」
「何じゃ」
「ちっさくなったな」
「再会して最初に言うことがそれか」
「いや、戦ってる時は忙しかったからな」
「リーズにも似たようなことを言われたぞ」
レオルの耳がぴくりと動いた。
「姐さんも来たのか?」
「一度だけのう」
「そうか」
レオルは少し考えた。
「……俺が来たって知ったら面倒そうだな」
「何がじゃ」
「陛下に呼ばれた順番とか気にしそうだろ」
アラタは黙った。
圭介が恐る恐る聞く。
「リーズさんって、そんな人なんですか?」
「そういうところはある」
レオルが即答した。
「レオル」
「事実だろ」
「まあ、否定はせんが」
志乃が小さく笑う。
レオルは再びアラタを見る。
「姐さんが来て、俺も来た」
「うむ」
「じゃあ、やっぱり陛下なんだな」
アラタが眉を上げた。
「何がじゃ」
「向こうじゃ、まだ陛下の話をする奴が山ほどいる」
笑いながら言う。
「忘れた奴なんて、探す方が面倒だ」
アラタは何も返せなかった。
レグナルシア。
長い時間を生きた世界。
王になり、戦い、失い、最後にはそこで老いて死んだ。
自分が死んだあとも、向こうでは時間が続いている。
当たり前のことのはずだった。
それでも、レオルの口から聞くと胸の奥に重いものが落ちた。
「皆、元気かのう」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
レオルは笑った。
「元気な奴もいる。そうじゃねえ奴もいる」
少しだけ声が落ち着く。
「でもな」
黄金の瞳が、まっすぐアラタを見る。
「陛下を覚えてる奴は、大勢いる」
アラタは目を細めた。
「そうか」
「おう」
それ以上は言わなかった。
それで十分だった。
ふと、レオルの黄金の鬣が揺れた。
風ではない。
輪郭そのものが、熱気の向こうにあるように一瞬だけ歪んだ。
志乃が先に気づく。
「……レオルさん?」
「ん?」
レオルが自分の腕を見る。
今度は右手の先がわずかに霞んだ。
すぐ元へ戻る。
アラタには、それが来た時と似た揺らぎに見えた。
自分たちをつないでいた何かが、不安定になっているように感じる。
「長くはおれんか」
レオルも何かを感じ取ったらしい。
「みたいだな」
圭介の顔が変わる。
「帰っちゃうんですか?」
「俺にもよく分からん」
レオルは手を握ったり開いたりする。
「ただ、さっきから身体の半分が遠くにあるみてえな変な感じだ」
また輪郭が揺れる。
今度は肩まで。
弁慶が一歩前へ出た。
「止める術はないのか」
「拙僧に聞かれても分からねえよ」
「拙僧も分からぬから聞いた」
「ガハハハ! そりゃそうだ!」
こんな時まで笑う。
アラタも少し笑った。
「レオル」
「おう」
「助かった」
「今さら何言ってんだ」
レオルは巨大剣を肩へ担ぎ直した。
「陛下に呼ばれたんだ。来るに決まってるだろ」
「そうか」
「それに」
牙を見せる。
「一回できたんだ」
アラタを見る。
「また会えるだろ」
アラタは答えなかった。
答える必要もなかった。
レオルも、それ以上聞かなかった。
「次はもう少し静かな所に呼べよ」
「善処する」
「それ、絶対信用できねえやつだろ」
「何を言う」
「今回がこれだぞ」
圭介が横から言う。
「それは俺もレオルさん側です」
「圭介」
「すみません」
レオルが腹を抱えて笑った。
その姿が、また揺れる。
今度は戻るまで少し時間がかかった。
「じゃあな、陛下」
声は変わらない。
「シノ。ケイスケ。でかい坊主も」
弁慶の眉が動く。
「弁慶だ」
「覚えてるって」
「なら名で呼べ」
「次にな」
レオルは最後まで笑っていた。
黄金の鬣が薄れ、巨大剣の輪郭も霞んでいく。最後に残った牙の見える笑みまで、揺れる空気の向こうへ溶けていった。
そして、何もなくなった。
石床には、レオルが立っていた跡だけが残っていた。
圭介がしばらくそこを見つめる。
「……本当に帰った」
「そうじゃな」
志乃がアラタを見る。
「また呼べるんですか?」
アラタは、レオルが消えた場所から目を離さなかった。
リーズの時とは違う。
今回は、自分で相手を選んだ。
自分から手を伸ばした。
一度は届かず、二度目に確かにつながった。
だが、なぜつながったのか。
どれほど保つのか。
誰にでも届くのか。
分からないことの方が多い。
「まだ分からん」
アラタは答えた。
「じゃが」
ほんの少しだけ笑う。
「また会える気はするのう」
地下の奥では、もう無数の足音は聞こえなかった。




