千の足音
咆哮は、一つではなかった。
高いもの、低いもの、喉を擦るような鳴き声に、獣じみた吠え声。それらが重なり、地下のさらに奥から押し寄せてくる。
圭介が槍を構えたまま、顔を引きつらせた。
「……何匹いるんですか、これ」
「数えたいか?」
「絶対嫌です」
床がまた震えた。
だが、今度の揺れは壁が動く音ではない。もっと細かく、一定ではなく、何かが大量に走っているような振動だった。
志乃が地図から顔を上げる。
「来ます」
「どこからじゃ」
「分かりません。道が――」
言い終わるより先に、左手の壁が沈んだ。
その向こうに、今までなかった広い通路が現れる。
暗闇の奥で、いくつもの目が光った。
「下がれ!」
アラタの声で四人が距離を取る。
最初に飛び出してきたのは、裂牙犬に似た獣だった。一頭ではない。三頭、五頭、その後ろにも影が続いている。
志乃の矢が先頭の一頭の目へ刺さり、圭介の槍が二頭目の喉元を押し返す。残る一頭へ弁慶が身体をぶつけると、獣は壁へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
だが後ろから来た魔物は止まらない。
先頭の死骸を踏み越え、こちらへ――いや。
「違う!」
志乃が叫んだ。
魔物の群れは四人へ向かっていない。弁慶の脇を抜けた一頭が、振り返りもせず別の通路へ走っていく。二頭目も、三頭目も同じだった。
圭介が目で追う。
「逃げてる?」
「わしらからではない」
アラタは群れの流れを見た。
新しく開いた深部の通路から出て、斜面になった石床を駆け上がり、さらに先の通路へ消えていく。
一方向だ。
上へ。
志乃も気づいた。
「地上に向かってる……?」
「たぶんな」
「たぶんって」
圭介が言いかけた時、別の壁の向こうから石が砕ける音がした。
大きな角を持つ四足の魔物が、狭い開口部を身体で押し広げて出てくる。その後ろにも、さらに影が続いていた。
「もう一つ開いた!」
志乃の声が響く。
右からも正面からも新しい通路が開き、小型の獣だけでなく、人の背丈を越える虫、岩を背負った獣、長い腕で床を叩きながら走る人とも猿ともつかない巨体まで雪崩れ込んできた。
互いに争うことすらせず、どれも同じ方向へ殺到している。
圭介の顔から血の気が引く。
「これ……全部、上に行ったら」
誰も答えなかった。
答える必要がない。
町がある。
坑道の外には人がいる。
アラタは石段の方を振り返った。
ロキの姿はなかった。
いつ消えたのかも分からない。
「……あやつ」
「探しますか?」
志乃が聞く。
「捨て置け」
「ですよね」
今はロキを追う時ではない。
目の前の魔物だけでも、すでに十や二十では済まない。さらに奥から響く足音は増え続けている。
弁慶が足元の黒い金属の袋へ手を伸ばした。
「これは置いていけぬな」
「うむ。背負えぬなら捨てろ。命を優先せよ」
「承知している」
弁慶は肩の傷を庇いながら袋を背負い直した。もう片方の手には、大蛇の尾から引き抜いた細長い異物が残っている。
アラタはそれへ目を向けた。
「弁慶、それを貸せ」
「これをか?」
「石ころよりはましじゃろう」
弁慶から受け取る。
剣のような形ではある。
握る場所も、刃に見える薄い縁もある。
だが、手にした瞬間から違和感があった。
重心が剣らしくない。
ちょうどその時、一頭の小型魔物が群れから弾かれるようにこちらへ飛び込んできた。
アラタは半歩ずれ、異物を横薙ぎに振るった。
鈍い音がした。
魔物の頭は大きく弾かれたが、皮膚は切れていない。
「……斬れんのう」
圭介が目を見開いた。
「剣じゃないんですか!?」
「剣の形をしておるだけかもしれん」
「今それ分かるんですか!」
「試す暇がなかったんじゃ。仕方なかろう」
もう一頭が迫る。
今度は刃としてではなく、硬い棒として顎を打ち上げた。
使えなくはない。
だが、これで押し寄せる群れを斬り伏せることはできない。
「弁慶、返すぞ」
「もうよいのか」
「斬れん剣なら、素手の方がましじゃ」
弁慶が受け取り直す。
次の群れが来た。
今度は十を超える。
狭い通路を埋めるように押し寄せる魔物へ、志乃が矢を放った。先頭の一頭が崩れ、後続が一瞬つまずく。
「今!」
圭介が槍を横へ振り、一頭の足を払う。
弁慶は黒い金属の袋を背負ったまま前へ出ると、倒れた魔物を蹴り飛ばし、後続の進路へぶつけた。
三人で流れを乱したところへ、アラタも踏み込む。
武器はない。
正面から倒し切る必要もない。
突進してきた小型の頭をかわし、首へ腕を回して勢いのまま横へ流す。魔物同士がぶつかり、狭い通路で固まった。
「右へ寄れ!」
志乃と圭介が即座に動く。
空いた左側へ群れを流し、四人は壁際へ抜けた。
数頭を倒しても意味がない。
止めた端から、その後ろが押してくる。
アラタは舌打ちした。
「こやつらをここで全部止めるのは無理じゃ」
「じゃあ、地上で?」
圭介が息を切らしながら聞く。
「それでは遅い」
町へ近づくほど、逃げ道は増える。森へ散れば追い切れない。
一匹二匹なら討伐者が対応できる。十匹でも、準備があれば何とかなるかもしれない。
だが、これは違う。
さらに奥で地鳴りがした。
姿の見えない何かが走るたび、石床まで震えている。
志乃が残った矢を確かめた。
数は多くない。
圭介の呼吸も荒い。
弁慶は前に立ち続けているが、肩から新しい血が流れていた。
そしてアラタには、まともに斬れる武器がない。
四人で生きて帰るだけなら、まだ手はあるかもしれない。
だが、この群れを地上へ出さないとなれば話は別だった。
「……軍が要るな」
圭介が聞き返す。
「軍?」
アラタは答えなかった。
その言葉を口にした瞬間、チンギスの軍と戦ったあの夜が蘇った。
届くはずのない声。
それでも、確かに繋がった。
リーズ。
あの感覚。
自分の中から何かを放ったわけではない。
遠く離れた場所へ、手を伸ばしたような。
向こうからも、それに応えるものがあったような。
「アラタさん?」
志乃の声で意識が戻る。
目の前では、また一つ壁が沈んでいた。
今度は大きい。
開いた通路の向こうに、黒い塊が見える。
最初は壁かと思った。
違う。
動いている。
巨大な魔物の背中だった。
その足元を、小型の魔物が波のように走り抜けてくる。
圭介が呆然とする。
「いや……あれは無理でしょ」
弁慶が前へ出た。
「ならば、ここで食い止めるまで」
「弁慶」
「何だ」
「死ぬ気で守るな」
弁慶がアラタを見る。
「生きて守れ」
少しの沈黙のあと、弁慶は鼻から息を吐いた。
「無茶を言う」
「知っておる」
アラタは目を閉じた。
必要なのは、器用に首を落とす者ではない。
一頭ずつ相手にする者でもない。
この数を見て笑うような者。
押し寄せる軍勢へ、たった一人で正面から踏み込める者。
巨大な剣。
黄金の鬣。
戦場の真ん中で響く、馬鹿みたいに大きな笑い声。
思い浮かべるまでもなかった。
一人しかいない。
「……レオル」
何も起きない。
圭介が振り返った。
「誰です?」
「昔の知り合いじゃ」
「今呼ぶんですか!?」
「そのつもりじゃ」
「ここに!?」
「できればのう」
「できれば!?」
圭介の声を背に、アラタはもう一度あの感覚を探した。
あの夜、偶然開いた何か。
今度は違う。
偶然を待つのではない。
こちらから手を伸ばす。
目を閉じても、咆哮は聞こえる。
志乃が矢を放つ音も、圭介の槍が石を擦る音も、弁慶が魔物を押し返す声も聞こえている。
その向こうへ。
もっと遠くへ。
アラタは百年以上を生きた、あの世界へ意識を伸ばした。
「レオル」
今度は、ただ名を呼ぶだけではない。
来い。
力を貸せ。
ここにいる者を。
この先にいる者を。
守るために。
空気が震えた。
アラタが目を開く。
目の前の景色が、熱に揺らぐように歪んでいた。
「アラタさん……?」
志乃の声が小さくなる。
圭介も魔物から視線を外し、その歪みを見る。
弁慶は前を向いたままだったが、耳だけがそちらへ向いている。
歪みの奥で、大きな影が動いた。
人ではない。
だが、アラタはその輪郭を見た瞬間に分かった。
口元が緩む。
「……届いたか」
黄金色が見えた。
次の瞬間、巨大な剣が石床へ突き立った。
轟音とともに床が割れ、押し寄せていた魔物の先頭がまとめて吹き飛ぶ。
その中央に、巨大な獅子の獣人が立っていた。
黄金の鬣を揺らしながら周囲を見回し、倒れた魔物と、その奥からまだ押し寄せてくる群れを見る。
そして笑った。
「ガハハハハ!」
地下空間が震えるほどの笑い声だった。
獣人は巨大剣を肩へ担ぎ、ようやくアラタを見る。
「なんだ陛下!」
牙を見せて笑う。
「久しぶりに会えたと思えば、ずいぶん賑やかな所じゃねえか!」




