八つ首、墜つ
切り落とされた頭から流れた血が、石床の溝をゆっくりと広がっていった。
残った七つの首は、すぐには飛び込んでこない。
さっきまでなら、一つが動けば別の一つも続いた。だが今は違う。大蛇は距離を取り、石柱の間に首を散らしながら、四人を囲むようにゆっくりと位置を変えている。
圭介が槍先を向けたまま、声を落とした。
「……さっきより嫌な感じしません?」
「わしもそう思う」
「ですよね。そこは否定してほしかったです」
中央の太い頭が低く唸った。
次の瞬間、七つの首が一斉に動く。
すべてがアラタへ来るわけではなかった。二つが正面からアラタを牽制する間に、別の頭が志乃へ回り込み、圭介が槍を向ければ、その背後へさらに一つが入り込もうとする。
志乃が息を呑んだ。
「分けようとしてる!」
「固まれ!」
アラタの声に三人が寄った。
追ってきた頭へ志乃が矢を放ち、圭介が口元へ槍を突き出す。それでも、さっきのように一つへ攻撃を重ねる余裕がない。一つを下がらせた途端、別の牙が横から入り込んでくる。
その間へ弁慶が割って入った。
「二人とも、拙僧から離れるな!」
志乃の横へ伸びた首に、弁慶は真正面から組みつかず、身体ごと横からぶつけた。巨体が石床を滑ったものの、蛇の進路もずれ、牙は志乃の肩先をかすめて石柱へ食い込む。
「弁慶さん!」
「射て!」
志乃は迷わず弓を引いた。
至近から放たれた矢が目の縁を打ち、蛇が激しく顔を振る。そこへ圭介の槍が伸び、開きかけた口を押し返した。
「こっちは任せてください!」
「任せろと言える顔ではないぞ!」
「弁慶さんも血出てますからね!」
言い返しながらも、二人の手は止まらない。
アラタはそのやり取りを背中で聞きながら、左右から迫る二つの頭の間を抜けた。
一つを落として分かったことがある。
こいつは学ぶ。
目を狙われれば顔を隠し、口へ槍が来れば早めに頭を引く。石柱の狭い場所にも、もう二つ同時では入ってこない。
同じやり方を繰り返せば、そのたびにこちらの手を覚えられる。
「……時間をかけるほど不利じゃな」
剣の刃には、すでに大きな欠けがある。
志乃の矢にも限りがあり、圭介の息はさっきより荒い。弁慶の肩を巻いた包帯も赤く染まり、庇うたびに動きがわずかに鈍っていた。
首を一つずつ七本落とす前に、こちらが先に尽きる。
中央の頭が大きく息を吸い込んだ。
他の首も続けて持ち上がり、七つの喉が膨らんでいく。
その時、志乃が叫んだ。
「アラタさん、下!」
アラタは視線を落とした。
首が一斉に持ち上がったことで、その奥に隠れていた巨大な胴が前へせり出している。首の根元が集まるあたりで黒緑の鱗が重なり、呼吸のたびにその一部がわずかに開いていた。
鱗の隙間から、暗い赤色の皮膚が覗く。
「……あそこ」
志乃も同じ場所を見ていた。
「首を七つ斬るのはやめじゃ」
「助かります!」
「胴を斬る」
「全然助かってない!」
アラタはわずかに笑い、三人へ目を向けた。
「頭を上げさせられるか?」
圭介が七つの首を見上げる。
「三人で七つですよ?」
「全部を止める必要はない。わしへ向けさせなければよい」
「最初からそう言ってくださいよ」
志乃は残りの矢を確かめると、短く頷いた。
「やります」
弁慶も一歩前へ出た。
「拙僧が二人の前を守る」
肩から血が落ちている。
アラタはそこを見た。
「無理はするなよ」
「今からあの中へ飛び込む者に言われたくない」
「それもそうじゃな」
圭介が二人を見比べる。
「なんでそこで納得するんですか」
中央の頭が動いた。
「来るぞ!」
志乃の矢が一頭の目元へ飛び、顔を逸らさせる。圭介は別の口へ槍を差し込み、噛みつきを止めた。
それでも二つの首が同時に迫ってくる。
弁慶はその間へ入り、片方へ肩をぶつけながら、もう片方の顎を両腕で押し上げた。
一つだけでも弁慶の巨体を押せる相手だ。
二つの力を同時に受け、弁慶の足が石床を滑る。膝が沈み、牙が肩の包帯を裂いて血が散った。
「弁慶さん!」
圭介が振り返る。
「前を見ろ!」
怒声が飛んだ。
「戦うなら――背は拙僧に任せよ!」
圭介の顔から迷いが消えた。
「……はい!」
志乃も振り返らない。
矢が一頭の視界を奪い、圭介の槍が別の首を押し上げる。弁慶は二人の間へ割り込もうとする牙を身体で受け流し、その三人が作ったわずかな隙の向こうで、巨大な胴が大きく開いた。
「アラタさん、今です!」
「うむ!」
アラタは走った。
七つの首の間を抜ける。
横から牙が迫ったが、志乃の矢がその目元を打ち、反対側から来た首は圭介の槍に遮られた。
その奥に、巨大な胴が迫る。
近くで見れば、鱗一枚だけでも手のひらより大きかった。まともに刃を叩きつければ、安い剣の方が先に折れる。
狙うのは鱗ではない。
大蛇が息を吸う。
胴が膨らみ、重なっていた鱗がわずかに開いた。
赤黒い隙間。
アラタはそこへ剣を突き入れた。
刃が肉を裂き、深く沈む。
大蛇の巨体が跳ね上がった。
「入った!」
圭介の声が聞こえた。
だが、倒れない。
七つの首が一斉に暴れ、石柱へ激突する。巨大な胴が捩れ、刺さった剣ごとアラタの身体を振り回そうとした。
アラタは柄を両手で握り、足を踏ん張る。
刃は深く入っている。
それでも足りない。
さらに押し込もうとした瞬間、頭上で牙が鳴った。
七つの首が、今度は明確にアラタ一人へ向いている。
「アラタさん!」
「来るな!」
志乃たちが動けば、囲みが崩れる。
アラタは剣から手を離さなかった。
大蛇がもう一度身体を捩る。
柄が手の中で軋んだ。
「……弁慶!」
それだけでよかった。
弁慶はアラタを見た。
次に、石柱の根元へ置かれた袋を見る。
「承知!」
迫る首を肩で弾き、弁慶が走った。
黒い金属の袋を片手で掴み上げると、その重みのまま大きく振りかぶる。
圭介が目を見開いた。
「それで!?」
「他にあるか!」
「ないですけど!」
弁慶が踏み込んだ。
「ぬううっ!」
黒い金属の塊が入った袋が、剣の柄をまともに打ち抜いた。
鈍い音が腹の底まで響く。
止まっていた刃が、さらに深く沈んだ。
鍔が鱗へぶつかる。
大蛇の身体が大きく仰け反った。
七つの首が同時に口を開いたが、咆哮にはならなかった。
喉の奥から、濁った音と血が溢れる。
それでもまだ倒れない。
大蛇は最後の力で身を捩り、胴に刺さった剣を折ろうと暴れた。
刀身が大きく曲がる。
嫌な音がした。
そして、剣が折れた。
刃だけが、胴の奥深くに残った。
「離れろ!」
アラタの声で弁慶が飛び退く。
次の瞬間、大蛇が激しく身体を捩った。
内部に残った刃が動いたのか、巨体が一度だけ大きく跳ねる。
中央の太い首が高く持ち上がり、口から大量の血を吐いた。
その動きに続くように、他の首からも次々と力が抜けていく。
一つが石柱へ寄りかかり、もう一つが床へ顎を打ちつける。
最後まで四人を睨んでいた中央の頭も、やがて支えを失ったようにゆっくりと沈んだ。
巨大な胴が石床へ落ちる。
地下空間全体が揺れた。
それきり、大蛇は動かなかった。
誰もすぐには武器を下ろさない。
圭介は槍を構えたまま息を整え、志乃も次の矢を番えたまま倒れた首を見ている。弁慶も二人の前へ戻り、再び動き出すものがないか睨み続けていた。
アラタはしばらく大蛇を観察してから、ようやく息を吐いた。
「……今度こそ、終わったかのう」
圭介が眉をひそめる。
「その言い方、やめません? 起きそうで怖いんですけど」
「では、たぶん終わった」
「悪化しましたよ」
志乃が小さく息を漏らした。
「少なくとも、今は動いてません」
「うむ」
切り落とした頭も、残った七つの首も動かない。
再生する様子も、今のところはなかった。
弁慶が石柱の根元へ目を向ける。
「荷は無事だ」
袋は叩きつけた衝撃で口が少し緩んでいたが、中の黒い金属は散らばっていない。
圭介がそれを見て、乾いた笑いを漏らした。
「剣の材料を取りに来て、その材料で今の剣を叩き込むとは思いませんでした」
「役に立ったのならよいじゃろう」
「使い方は絶対違うと思いますけどね」
張りつめていた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
その時だった。
アラタが足を止めた。
倒れた大蛇の尾の近く。
黒緑の鱗が裂けた隙間から、何かが覗いている。
血に濡れているのに、そこだけ妙に光を返していた。
黒い金属とは違う。
石でも、骨でもない。
細長く、まっすぐな形をしている。
志乃が目を細めた。
「……剣?」
アラタは答えず、その光を見つめた。




