退路を開け
咆哮の余韻が、林立する石柱の間を何度も跳ね返った。
天井から細かな砂が落ち、圭介が思わず肩をすくめる。それでも槍だけは下げなかった。
志乃も弓を構えたまま、石柱の向こうでうごめく八つの首を見上げている。
アラタは一度だけ背後を振り返った。
白い印は見えていた。
来た時につけた出口への目印だ。
距離そのものは遠くない。だが、そこへ続く石柱の間を、八つの巨大な首が塞ぐように揺れている。
「倒すことは考えるな。道を開けるぞ」
返事を待つ暇もなかった。
右手の石柱の陰から一つの頭が低く滑り込み、そのまま圭介へ口を開く。
「うわっ!」
圭介は後ろへ逃げる代わりに槍を突き出した。牙と打ち合うのではなく、迫ってきた口の中へ穂先を差し込む。
蛇は噛み切る寸前で首を振り、槍ごと圭介の腕を持っていこうとした。
「離せ!」
アラタの声に、圭介は反射的に槍を引く。
穂先が牙の間を抜けた直後、今度は別の首が左から志乃へ回り込んだ。
志乃の矢が白く濁った目へ飛ぶ。
硬い鱗に弾かれ、深くは刺さらない。それでも目元を狙われた蛇は顔を背け、そのわずかな隙へ弁慶が身体を滑り込ませた。
武器はない。
真正面から受け止めれば、自分ごと押し潰される。
弁慶は横から肩をぶつけ、噛みつく軌道だけを強引にずらした。
巨大な頭が石柱へ激突する。
低い衝撃が床まで伝わり、石屑が散った。弁慶も巻き込まれるように片膝をつく。
「弁慶さん!」
「構うな! 行け!」
立ち上がった弁慶の肩の包帯には、新しい赤が滲んでいた。
アラタは舌打ちしそうになるのを堪える。
首一本の進路を逸らすだけで、弁慶ですら傷が開く。
まして八つすべてを相手にして、ここで勝ち切ろうなどと考えるべきではない。
「志乃、出口へ!」
「はい!」
四人は白い印へ向かって走り出した。
すぐ背後で鱗が石床を擦る音が重なり、八つの首が一斉に追ってくる。
アラタは最後尾につき、近づく頭を剣先で牽制しながら後退した。
正面から噛みつこうとした一つを避けた直後、別の頭が石柱の外側を回り込もうとする。
アラタは柱の陰へ身体を滑り込ませた。
追ってきた二つの頭が、同じ狭い隙間へ無理に入ろうとしてぶつかる。
鈍い音とともに、片方の首がもう片方へ押し返された。
「……なるほどのう」
先を走っていた圭介が振り返る。
「何か分かったんですか?」
「柱の間を抜けるぞ!」
説明するより先に、アラタは次の石柱へ走った。
志乃もすぐ意図を理解したらしい。
開けた場所なら、八つの首は前後左右から同時に襲ってくる。だが、人が二人並ぶのがやっとの石柱の間では、巨大な頭同士が邪魔をして一度に押し込めない。
四人は柱から柱へ渡るように、出口へ向かって進んだ。
左右から首が伸びるたび、志乃が目を狙って顔を逸らさせる。
正面から口を開けば、圭介が槍を突き出して噛みつきを止める。
倒す必要はない。
ほんの一瞬、首を引かせれば、その間に次の柱まで進める。
「本当に邪魔し合ってる」
圭介が息を切らしながら言った。
「頭が八つあっても、道が八倍広くなるわけではないからのう」
「なんか、急に勝てそうな言い方しますね」
「勝つとは言っておらん。逃げるだけじゃ」
「ですよね!」
軽口を返す余裕は戻ってきたが、圭介の槍先は一度も下がらない。
先頭の志乃が、次の石柱を抜けたところで声を上げた。
「この先が石段です! 黒い金属もそこにあります!」
石柱の隙間から、来た時に下りてきた石段が見える。
その脇には、弁慶が最初の襲撃時に下ろした袋が残っていた。
「よし。荷も取るぞ」
圭介が思わず振り返る。
「やっぱり持って帰るんですね!」
「取れるならのう」
「ですよね」
「無理なら捨てるが」
「そこは即答じゃないんですね」
「命より重い荷物はない」
志乃も前を見たまま短く頷いた。
「でも、取れるなら取ります」
「うむ」
石段まで、あと少し。
ところが四人が最後の石柱を抜けようとしたところで、上から巨大な影が落ちた。
太い首が石段の前へ降り、袋と四人の間を塞ぐ。
他の七つより一回り大きい。
八つの首が揃った時、中央にいた頭だった。
圭介が足を止めた。
「……あれ、邪魔ですね」
「見れば分かるのう」
「そういう意味じゃなくて」
志乃がすでに矢を番えている。
「私が引きつけますか?」
「いや、少し待て」
アラタは剣を構えたまま、太い頭の動きを見た。
他の首のように、すぐには飛びかかってこない。
白く濁った目で四人を見下ろし、まるでこちらの動きを測っている。
やがて、その太い頭がゆっくりと横を向いた。
すると石柱の間をうごめいていた他の首まで、ほとんど同時に位置を変え始める。
ただ追っていたはずの首が、今度は出口に近い側へ回り込んでいく。
アラタの眉が動いた。
「……妙じゃな」
「何がです?」
「こやつが動くと、他も動き方を変える」
志乃も太い頭から周囲の首へ視線を走らせた。
「命令してるんですか?」
「まだ分からん」
圭介も中央の頭と、石柱の向こうで位置を変えていく首を見比べる。
「でも、なんか関係はありそうですね」
「そうじゃな。試してみる価値はある」
アラタは剣を構え直した。
「志乃。あれの目を狙えるか?」
「当てるだけなら」
「十分じゃ。刺さらなくても嫌がればよい」
「はい」
「弁慶。矢が当たったら荷へ行け。圭介も一緒じゃ」
「承知」
圭介だけが嫌そうな顔をした。
「アラタさんは?」
「わしはこやつを見ておく」
「それ、一人だけ残るやつじゃないですよね?」
「戻ると言うたじゃろう」
「アラタさん、たまに基準がおかしいんですよ」
「失礼な」
こんな状況なのに、志乃の口元がほんの少しだけ緩んだ。
弁慶は笑わない。
「拙僧が二人を連れて荷を取る。それでよいな」
「頼む」
アラタが頷く。
「志乃」
弓弦が張り詰める。
「今じゃ」
放たれた矢が石柱の間を抜け、太い頭の目元へ一直線に走った。
蛇は寸前で首を捻ったが、矢は目のすぐ下の鱗へ当たり、甲高い音を立てて弾かれる。
刺さらない。
それでも嫌がるように顔を背けた瞬間、周囲の首の動きまでわずかに乱れた。
「行け!」
弁慶が一気に石段へ走り、志乃と圭介もその背を追った。
太い頭が三人へ向き直ろうとする。
そこへアラタが踏み込み、剣先を白く濁った目へ突きつけた。
「こっちじゃ」
太い頭の視線が戻る。
同時に、石柱の間でうごめいていた他の首まで、わずかに進路を変えた。
偶然かもしれない。
だが、やはり何かある。
背後では弁慶が袋を拾い上げ、肩へ担ぎ直していた。
「持ったぞ!」
黒い金属の重みを受けた瞬間、さすがの巨体もわずかに沈む。
圭介が思わず手を伸ばした。
「重っ……!」
「手を離せ。お主まで遅くなる」
「でも――」
「槍を持て!」
弁慶の怒声に、圭介は反射的に手を離した。
その直後、石柱の横から首が一本飛び出してくる。
圭介は踏みとどまり、開いた口へ槍先を向けた。
蛇はそのまま噛みつかず、首を振って穂先の横へ逃れる。
「避けた……!」
そこへ志乃の矢が飛び、今度は開いた口の中へ入った。
矢尻が舌の脇へ刺さる。
蛇は苦しげに頭を振り回し、石柱へ頬をぶつけた。
「入った!」
「見ておらず動け!」
弁慶の声に、志乃と圭介がすぐ走り出す。
アラタも太い頭から距離を取り、三人へ合流した。
荷は取り戻した。
出口の白い印も、もうはっきり見えている。
「あと出るだけですね」
圭介が息を弾ませながら言った。
「そう簡単ならよいがのう」
「そういうこと言わないでくださいよ!」
その時だった。
腹の底へ響くような低い咆哮が、石柱の間を抜けた。
追ってきていた首が、示し合わせたように一斉に引く。
「止まれ」
アラタの声で、四人はその場に足を止めた。
首が退いたことで、ほんの一瞬だけ出口までの道が開く。
だが次に巨大な頭が現れたのは、四人の背後ではなかった。
出口側だった。
一本。
さらに一本。
石柱の向こうを大きく回り込んだ首が、白い印の見える通路へ次々と頭を差し入れていく。
開いたはずの道が、目の前で塞がれていった。
圭介の顔から、戻りかけていた余裕が消える。
「こいつ……俺たちがどこへ行きたいか分かってません?」
誰もすぐには答えなかった。
少し離れた石柱の間で、中央の太い頭だけが四人を見ている。
その頭がゆっくり右へ動く。
すると出口を塞いでいた首も、それに合わせるように位置をずらした。
志乃が小さく息を呑む。
「さっきも……」
「うむ」
「やっぱり、真ん中が動くと他も動いてる」
「そう見えるのう」
圭介が中央の首を見た。
「じゃあ、あれが親玉ですか?」
「決めつけるな」
アラタはすぐに否定した。
「命令しておるのか、ただつながって動いておるだけなのかは分からん」
黒い金属を背負った弁慶が、志乃と圭介の前へ半歩出る。
重い荷を担いだままでも、二人を庇える位置だけは崩さない。
「ならば、どうする」
「試す」
アラタは剣先を中央の太い首へ向けた。
「次は、あれを止める」
圭介もその先を見る。
「倒すんですか?」
「まだそこまでは言っておらん」
「じゃあ?」
「動きを止めてみる。その間に道が開けば、逃げる」
「開かなかったら?」
アラタは少し考えた。
「その時また考える」
圭介が一瞬黙る。
「……そこはもう少し格好いい答えが欲しかったです」
「生きて帰れれば十分格好よいじゃろう」
志乃が小さく笑った。
弁慶も低く息を吐く。
「御曹司ならば、同じことを言いそうだ」
「ほう。それなら間違っておらんな」
「そこまで申しておらぬ」
圭介が思わず弁慶を見る。
「弁慶さんもツッコむんですね」
「今はそれどころではあるまい!」
再び大蛇の咆哮が響き、笑いは一瞬で消えた。
石柱の向こうでは、出口を塞いだ首がゆっくりと揺れている。
そのさらに奥に、白い印だけが見えていた。
アラタは剣を握り直す。
出口はまだ消えていない。
ならば、その道を開ければいい。




