八つの首
志乃は奥ではなく、まず自分たちが入ってきた通路を振り返った。
巨大な地下空間へ続く石段の向こうには、まだ白い印が見えている。床にも壁にも、自分たちで付けた目印は残っていた。
黒い金属は手に入れた。しかも、剣一本を鍛えるには十分と思える量がある。
ここから先へ進む理由は、もうない。
「戻りましょう」
志乃が言った。
圭介もすぐに頷く。
「俺も賛成です。今の声が何なのか、わざわざ見に行く必要ないですよね」
「ないのう」
アラタの返事も早かった。
未知のものを見れば胸が騒ぐ。その性分は百年以上生きても変わらないらしいが、好奇心と無謀は別だった。今回は自分一人ではないうえ、玄馬にも志乃たちを自分の基準で奥へ連れていくなと言われている。
「弁慶、その荷は持てるか?」
「この程度ならば問題ない」
弁慶が黒い金属を入れた荷を背負い直す。見た目以上に重いはずだが、巨体は少し沈んだだけだった。
「では戻る。志乃、道を頼む」
「はい」
志乃を先頭に、四人は来た道を戻り始めた。
圭介がその後ろにつき、弁慶は二人のすぐ近くを歩く。アラタは最後尾に残り、奥の暗闇を警戒しながら進んだ。
さっきまでなら、圭介が弁慶の立ち位置に何か言ったかもしれない。
今は誰も冗談を言わない。
静かな地下空間のどこかで、石床を擦るような音がした。
低く、重い。
最初は左奥から聞こえた。
少し間を置いて、今度は右の方から響く。
圭介が足を止めかけた。
「……二匹いるんですか?」
「分からない」
志乃が振り返らずに答える。
空間そのものが広すぎて、音が反響しているだけかもしれない。だが同じ何かが、これほど離れた場所を短時間で移動したようにも聞こえる。
アラタにも判断できなかった。
ただ一つ、先ほどより近づいていることだけは分かる。
「少し急ぐぞ。じゃが走るな」
背を向けて一斉に走れば、何かが飛び出してきた時に対応できない。
四人は歩幅を広げた。
入口までは、それほど遠くない。
白い印も見えている。
そこで志乃が止まった。
「待って」
声が低くなる。
アラタが振り返るより早く、志乃は弓を持ち上げていた。
「前です」
戻る方向。
巨大な石柱の陰に、さっきまではなかった黒い影があった。
崩れた石像にも見える。
けれど、動いた。
石柱の裏から、ぬるりと長いものが滑り出す。
灯りが黒緑色の鱗を照らした。
その先に、人間の胴ほどもある蛇の頭が現れる。
圭介が息を呑んだ。
「……いつの間に」
蛇は大きかった。
頭だけでも人間の上半身ほどあり、閉じた口の隙間から覗く牙は短剣のように長い。
白く濁った目が志乃を見た。
次に圭介。
弁慶。
最後にアラタへ向く。
「止まれ」
アラタが低く言った。
四人は動かない。
蛇もすぐには襲ってこなかった。
長い首を石柱へ巻きつけるようにしながら、じっとこちらを見ている。
圭介が小声で聞いた。
「これが……さっきの声の正体ですか?」
「一匹なら、そうかもしれんのう」
答えながら、アラタは違和感を覚えていた。
先ほどの咆哮は、もっと重かった。
目の前の蛇も十分に巨大だが、あれほど地下全体を震わせる声を出すものには見えない。
次の瞬間、長い首が大きくたわんだ。
「来るぞ!」
弾けるように首が伸びる。
狙われたのは圭介だった。
反応したアラタが踏み出す。
だが、それより近くにいた弁慶の方が早かった。
「下がれ!」
欠けた薙刀を両手で横に構え、蛇の顎へ差し込む。
牙が柄へ噛みついた。
乾いた音が響き、木が大きく軋んだ。
弁慶の足が石床を滑る。
一歩。
さらに半歩。
あれほどの巨体が、力だけで押されている。
圭介の顔から血の気が引いた。
「弁慶さんが押されてる……」
「見るな! 動け!」
弁慶の怒声で我に返る。
志乃が圭介の腕を引いた。
「入口へ!」
二人が動く。
アラタは弁慶の横へ入り、蛇の目元へ剣先を走らせた。
深く突く必要はない。
蛇が反射的に顔を振った瞬間、弁慶も薙刀を引き抜いて後退する。
「弁慶、荷を下ろせ!」
「承知!」
背負っていた袋が石段の脇へ落とされた。
黒い金属の重みで、鈍い音が響く。
「行け!」
四人が入口へ向かう。
だが数歩進んだところで、アラタが足を止めた。
「待て」
右側の石柱。
その向こうから、別の頭が持ち上がっていた。
最初の蛇とほとんど同じ大きさ。
同じ鱗。
同じ濁った目。
圭介が顔を引きつらせる。
「やっぱり二匹いるじゃないですか」
「いや……」
アラタは二つの頭を見比べた。
どちらの首も長く、暗闇の奥へ続いている。別々の身体につながっているのかどうかは、柱と闇に隠れて見えない。
その間にも、奥で何かが大きく動いた。
三つ目の頭が現れる。
今度は志乃も言葉を失った。
三つの巨大な頭が、それぞれ違う高さから四人を見ている。
そして咆哮が響いた。
三つの喉から出た声が重なり、地下空間全体を揺らす。
天井のどこかから砂と小石が降り、志乃が腕で顔を庇った。
「下がって!」
叫んだ直後、一つの首が圭介へ突っ込んだ。
槍を構える余裕はない。
圭介は横へ転がった。
牙が肩のすぐ上を通り過ぎ、そのまま石床へ食い込む。砕けた石が頬へ当たり、圭介は痛みに顔をしかめながらもすぐ身体を起こした。
「圭介!」
「大丈夫です!」
今度は別の頭が志乃へ向かう。
志乃は矢を番えたが、距離が近すぎる。
狙いをつける間もなく放った矢は蛇の額へ当たり、硬い音を立てて弾かれた。
「通らない……!」
二本目を取ろうとした志乃の前へ、弁慶が割り込む。
「拙僧の後ろへ!」
「私も戦います!」
「ならば射てる場所まで下がれ!」
弁慶は振り返らずに言い、薙刀を大きく振り上げた。
刃が蛇の頭へ叩きつけられる。
鱗の隙間へ浅く食い込んだ。
しかし、それ以上は入らない。
昨日までの戦いで傷みきっていた刃が、嫌な音を立てた。
蛇が首を振る。
弁慶の身体が薙刀ごと引っ張られた。
「離せ、弁慶!」
アラタの声に、弁慶は迷わず手を放す。
薙刀は蛇の頭に刺さったまま振り回され、石柱へ激突した。
柄が折れ、欠けた刃もどこかへ飛んだ。
圭介が思わず呟く。
「……また壊れた」
弁慶が振り返る。
「今それを言うか!」
「すみません!」
普段なら少し笑えたかもしれない。
だが三つの頭は、もう次の獲物を探して動いている。
アラタは入口の位置を確認した。
見えている。
白い印もある。
道を失ったわけではない。
それなのに辿り着けない。
入口までの間には何本もの石柱が並び、長い首がそれを縫うように伸びてくる。
全員で一気に走れば、一人か二人は抜けられるかもしれない。
だが最後に残る者へ頭が集中すれば、無事では済まない。
「固まるな。じゃが離れすぎるな」
「難しいこと言いますね!」
圭介が槍を構え直す。
手は震えていた。
それでも足は下がっていない。
「死ぬよりは簡単じゃろう」
「比べるものが重いんですよ!」
志乃は入口と蛇の位置を見比べた。
「一度、首を下がらせないと戻れません」
「そうじゃな」
撤退する方針は変わらない。
ただし、そのためには一度、この巨大な蛇を押し返す必要がある。
「圭介。倒そうとするな。近づけさせんだけでよい」
「分かりました」
「志乃は目を狙え。刺さらなくても嫌がればよい」
「はい」
「弁慶は――」
「二人の前に立つ」
「……分かっておるならよい」
弁慶は素手になっていた。
それでも志乃と圭介より半歩前にいる。
三つの頭を見ながら、アラタは妙な感覚を覚えていた。
別々の蛇が襲ってきているように見える。
だが完全に別ではない。
一つの首が大きく身を引くと、別の首までわずかに揺れる。
石柱の向こうで、何か巨大なものが同時に動いている。
「……つながっておる?」
「何がです?」
志乃が聞き返す。
答える前に、暗闇の奥でさらに鱗が擦れ合った。
一本。
二本。
石柱の隙間や崩れた祭壇の向こうから、巨大な頭が次々と持ち上がってくる。
気づけば六つ。
地下空間のあちこちから伸びた首が、逃げ道を囲むように揺れていた。
志乃は弓を構えたまま、ゆっくり後ろへ下がる。
「まだ、いる……」
六本の首の先。
闇の中で、巨大なものが動いていた。
最初は壁の一部かと思った。
それほど太い。
いくつもの石柱の影に隠れながら、一つの巨大な胴が床を這っている。
そして今見えているすべての首は、その身体へつながっていた。
圭介がようやく声を絞り出した。
「一匹……なんですか?」
誰も答えない。
闇の奥で、さらに一つの頭が持ち上がった。
七つ。
その直後。
中央の暗闇から、これまでのものより一回り太い首がゆっくりと姿を現した。
八つ。
八つの頭が、それぞれ違う高さから四人を見下ろしている。
志乃は弓を構えていたが、どこへ狙いを定めればいいのか分からない。
圭介も槍を握ったまま動かなかった。
弁慶だけが、武器のない両手を握り締め、二人の前へ出る。
「弁慶」
アラタが呼ぶ。
「何だ」
「身体だけで止めようとするなよ」
「お主にだけは言われたくない」
「それもそうじゃな」
アラタは少しだけ笑った。
けれど、その目は八つの頭から離れない。
日本で生きていた頃、昔話として聞いた名前が記憶の底から浮かんでくる。
細かな物語までは曖昧でも、八つの首を持つ大蛇の名くらいは覚えていた。
圭介も同じだったらしい。
「あの……アラタさん」
「うむ」
「俺、日本神話とかそんな詳しくないんですけど」
「わしも似たようなものじゃ」
「でも、これは知ってます」
圭介が八つの頭を見上げた。
声が震えている。
「八岐大蛇……ですよね」
志乃も否定しなかった。
その名を聞いたかのように、中央の頭が大きく口を開く。
続いて、残る七つの頭も開いた。
八つの咆哮が重なった瞬間、空気だけではなく石床そのものが震える。
アラタは剣を構え直した。
八つの頭すべてが、退路ごと四人を見ていた。
無事に背を向けられる相手ではない。




